6話 微熱
あれから一睡もすることなく、朝を迎えた。
幸運なことに見張りをしている間、屍人も人間も現れることはなかった。私は思わず欠伸をしながら目を擦った。
「一時間ずつ、仮眠を取ったら出発しましょう」
ユウジの提案に私は頷いた。別に日中だろうと屍人は容赦なく私たちを襲ってくる。しかし、夜間の最大の問題だった視認性が解消された以上、見張りは一人で十分だ。
車の運転席に座り、目を閉じる。寝心地としては最悪だが、贅沢は言えない。それでもすぐに夢の世界へ落ちてしまうだろう。
そのはずだったのに、遠くから車のエンジン音が聞こえた。しかたなく車から降りようとするとユウジが「大丈夫です」と言って制止した。
「僕が確認してきますから、ナツさんは休んでいてください」
「……いや、私も確認する」
外の世界で一番恐ろしいのは屍人ではない……人間だ。私はそれを嫌というほど味わっている。
それなりに厄介なのが探索者や輸送を騙る人間。これは会話や仕草で判別することができる。今私たちが護衛のフリをしているトラックの運転手、そして先日私が殺したトキタがそうだ。
とんでもなく厄介なのが悪事に手を染めている同業者。できることなら彼らには絶対に会いたくない。簡単な対処方法はやられる前にやる。だがそんなことをすれば彼らと同じになってしまう。
そのため、少しでも怪しい仕草を見せたら逃げるのが私の鉄則だ。
漫画の世界のように、悪人はモヒカン頭の大男で、そいつらが派手に改造した車やバイクに乗って暴れているだけならどんなに良かったことが。
そんなくだらないことを考えながら、バッグから双眼鏡を取り出した。
車が三台こちらに走ってきている。先頭車両には男が二人乗っていた。
運転手は若い男で、その隣で中年の男がタバコを吸っていた。
一見怪しいところはないが、やけに重装備なのが気になった。勿論、外の世界にいる以上武装しているのは当たり前なのだが、男たちは防弾チョッキを着ている。あれは屍人ではなく生きた人間との戦闘を想定しているとしか思えない。
「トラックを隠してる時間はないし……。運転手を起こして、すぐに逃げて」
「わかりました。ナツさんは?」
「あいつらが何かしようとしたら、……撃つ」
「わかりました。お気をつけて」
ユウジは頷き、トラックへ向かった。
私は自動式拳銃を構えた。最悪の場合、これから私は人を殺すことになる。ユキに見られたくないが、幸い彼女はまだ寝ているはずだ。
徐々に車が近づいてくる。このまま通り過ぎてくれればいいのだが。三台の車は私の存在には気づかない。だが、先頭車両の男が拳銃を持ち、窓から手を出した。
「逃げてッ!」
私は叫ぶのと同時に銃を撃った。弾は中央を走る車の窓を割り、後部座席にいた男の頭を貫いた。
トラックのエンジン音が鳴る。車は私を無視し、猛スピードでトラックへ向かう。私も自分の車へ走った。
車に乗り、急発進する。すると後部座席のユキが起き上がった。最悪のタイミングだ。
「どうしたの?」
「これから撃ち合いになる。ユキは隠れてて」
私は左手でハンドルを握ったまま、右手を窓から外へ出し、前の車を狙って撃った。やはり運転しながらだとうまく当たらない。
男たちも反撃してくる。フロントガラスが弾丸で割れた。
運転手が窓から身を乗り出し、こちらに銃を構えた。その隙を見逃さず撃つ。
「ふふっ、ラッキー」
弾は運よく男の頭に命中した。車は道から大きく逸れ、その後バランスを崩し横転した。あと二台だ。
すると今度は後ろの窓が割れた。いつの間にか一台が私たちの背後に回り込んでいたらしい。
「でも、後ろなら」
私はバッグからあるものを取り出した。そして栓を抜き、窓から放り投げる。
「……じゃあね」
爆発音が鳴り響く。私が投げたのは、クジョウからもらったグレネードだ。
グレネードはちょうど後方の車の真下で爆発し、車体を吹っ飛ばした。
「あと一台!」
トラックと最後の一台は私たちの車から、車両数台分離れたところを走っている。ここからだと弾を当てるのは厳しい。アクセルを強く踏んだ。
窓から中年の男が身を乗り出し、何かを撃った。するとトラックの急激にスピードを落とした。恐らく改造したネイルガンのようなもので、タイヤに穴を開けたのだ。
その隙を見逃さず、車は加速しトラックの前を塞いだ。トラックは停止し、運転手とユウジが両手を上げながら降りてきた。
まだ抵抗することもできたはずだ。それなのにしなかったのは、きっと積荷として載せられた生存者たちのことを考えてだろう。
「ユキはそのまま隠れてて」
ユキが頷きうずくまる。そして私も車から降りた。
「地面に武器を捨てな」
中年の男がこちらに銃を向けた。若い男の方は拳銃を二つ持ち、運転手とユウジの方に向けている。私はおとなしく銃をその場に捨てた。
「つ、積荷は全部君たちに渡す。……だ、だから命は」
運転手が命乞いをした直後に発砲音が鳴った。
若い男が撃った弾丸がユウジの右足を貫き、彼の血が流れる。
「ぐ……がぁっ……」
ユウジが苦しみながら右足を押さえた。
「こっちだって仲間をやられてるんだ! 悪く思うなよ」
「たっ……、頼む! 護衛の二人はどうなったって構わない! だ、だから……」
「うるせぇ! さっさと積荷を出せっ!」
中年の男が声を荒げると、運転手が怯えた声を上げながら積荷の扉の前に立った。
「もうなにもかもおしまいだ」
「そうだ、だから観念しな」
「はは、ははは……」
先程まであんなに怯えていたというのに、運転手は何故か笑いながら扉を開いた。
「これで仲間たちを飢えから……へ?」
中を確認しようとした中年の男は、間抜けな声を出すとその場に尻餅をついた。
そして中から何かが飛び出してきた。
やはり積荷は食糧ではなかった。しかし、載せていたのは人でもなかった。いや、人だったものというべきか。
「な、なんで……」
中年の男が叫ぶ。
「なんで屍人がトラックの中に入ってるんだよ‼」
積荷は屍人だった。
私はすぐに捨てた銃を拾い屍人を撃った。弾は頭に命中したが、すでに中年の方は噛まれていた。
一瞬でも戸惑ってしまったせいで犠牲者が出てしまった。しかし後悔しても遅い。
「……すみません」
ユウジは足から血を流し倒れたまま、リボルバー式の銃を撃った。弾丸が噛まれた男の頭を貫く。
「はは……。はははははははははははははははははは」
運転手は隠し持っていた拳銃で自らの頭を撃った。結局、私たちは彼の目的も正体も知ることができなかったのだ。
「く、来るなあぁぁ!」
若い男も噛まれてしまった。すぐに男の頭を撃ち、死の恐怖から解放した。そう自身に言い聞かせた。
残されたのは私とユキとユウジ、そして十数体の屍人たちだけだ。
弾の残りが少ない。ユキを連れて逃げることを考えたが、倒れているユウジを見捨てるわけにもいかない。
ユウジに近づく屍人を撃つ。
「がぁっ……このっ!」
屍人が私の腕を噛む。ユウジを守ることに夢中ですぐ近くの屍人にも気づかなかった。
私のことを噛んだ屍人に蹴りを浴びせる。抗体を持っていても、噛まれる痛みが消えるわけではない。意識が吹っ飛びそうな鋭い痛みに耐えながら、撃ち続ける。
「あれ……、クソッ!」
弾切れ。リロードをしている暇なんてない。私は銃を投げ捨て、ユウジの下へ走った。
しかし、彼の隣で屍人が大きく口を開いていた。……間に合わない。
すると、後ろから発砲音がした。振り向くと、ユキが護身用に持たせていた銃を構えていた。
「──最悪」
彼女に人を撃たせたくなかった。だから仕事ではずっと彼女に撮影係をさせていたのに。
だが後悔している暇はない。運転手の遺体が握っている銃を奪い、屍人を撃った。
心を殺して撃ち続ける。気がつくと、私たちは血の海に立っていた。
積荷の中を確認する。中にはもう誰もいなかった。
「おわり?」
ユキが訊いたので、私は頷きその場に倒れた。もう立つ力も残っていない。
服が屍人の血で染まっていく。しかしそれを気にせず私はユウジの下へ這って進んだ。
「ユウジ……大丈夫、じゃないよね……。今すぐ手当するから……」
「ナツさんこそボロボロじゃないですか……。それに僕はもう……」
ユウジが腕を見せた。
泣きたかった。叫びたかった。
それでも私にはそんな体力は残っていなくて。だから、ただ絶望した。
「……間に合わなかった?」
ユキが悲しそうな顔をする。
ユウジの腕にはくっきりと噛まれた痕が残っていた。
彼は私とは違い、普通の人間だ。屍人に噛まれたということは、即ちもう手遅れというわけだ。
「あの時は助かりました。でも数が数でしたから。ナツさんとユキさんが生き残っただけでも十分ですよ」
微笑みながら言う。だがその直後に、苦しそうにしながら傷を手で押さえた。
「すみません。あと時間がどれくらい残ってるのかわかりません。……だから」
「嫌だ……。私には撃てない。私を人殺しにしないでよ。……勝手に屍人になって、家族の仇を捜せばいいじゃん」
「それも、いいですね……。でも、もう疲れました……。お願いします」
わかっている。これは私のエゴだ。今まで殺してきた屍人にも人間だった頃には家族や友人、恋人がいた。それでも躊躇わずに殺した。
たった一日話しただけの相手なのに、撃つのを躊躇ってしまう。それでも、彼を撃ったら自分の中で決定的な何かが壊れてしまいそうな気がした。
……もしユキが人間を襲ったら。当然私は彼女を殺さなければならない。それが私に課せられた責任だ。
だが、今の私にはそれができないだろう。ユキだけじゃない。クジョウが感染したとしても、私には撃てない。
結局、私は甘い人間なのだ。大切な人を殺すという選択肢を持ちたくない。
今ユウジを殺せば、私は知り合いだろうと殺すことができるという結果が残る。それはこの先ずっと私の中で選択肢として付きまとうことになる。それが怖くて仕方がない。
不意にユキが私の右手に触れた。彼女の顔を見ると、いつもは虚ろな様子の瞳だったが、今は覚悟を宿しているように見えた。この場で悩んでいるのは、私一人だけだ。
「ごめん、ありがと」
銃を強く握りしめ、ユウジに向ける。まだ怖くてたまらない。それでも、ユキがいるから前を向ける気がした。
「……さよなら」
銃声がやけに耳に響いた。
●
「銃は持ってかなくていいの?」
「うん、多分ここを通った人が持っていくかもしれないけど。それまではあいつの墓標ってことで」
ユウジを埋葬し終えた私たちは、彼のバイクから物資を拝借していた。携帯食料の他に彼の使っていたシャベルも拝借した。
バイクの燃料はさすがに車には使えないのでそのままに。彼の使っていたリボルバー銃は、彼を埋めた場所に挿した。
「襲撃者たちはともかく、屍人を運んでるやつらがいるのは報告しないと。となるとやっぱり遠回りして第二区域には行った方がいいかなぁ」
私はわざとらしくブツブツと呟いた。とにかく騒めくこの気持ちをどうにか落ち着かせたかった。
「バイクもばらしたら持っていけないかなぁ。この車も十年使ってるし、どこかで別の車探せたらいいけど、そんな簡単には見つからないよなぁ」
「……ナツ」
ユキが私の右手を握る。
「……ムリしないで」
「あぁ、うん。痛みはまだ残ってるけど大丈夫。思ってたより傷も浅いし」
「そうじゃなくて!」
今まで一度も彼女の大声なんて聞いたことがなかった。
傷が浅いなんて嘘だ。しかし、彼女が言いたいのはそういうことじゃない。見える傷のことを言っているわけではない。
「こんな思いをして、いつも撃ってたの……?」
「屍人を撃つ時は何も考えてなかったし、噛まれた人を撃った時も……、まあそんなに悩まなかったかな。ただ、今日はちょっと堪えたなぁ……」
「銃の撃ち方、教えて」
「どうして?」
嫌な予感がする。ユキが私の手を握る力を強めた。
「ナツに守られてるだけじゃ嫌だ。だって……」
「やめて! お願い……、これ以上はやめて」
「ナツ……」
頭の中が真っ白になる。彼女に何を言われても、拒絶するつもりでいた。そのはずなのに……。
だが私は直前で怖くなった。もしかしたら彼女のことを受け入れてしまうんじゃないかと。
私はユキのことが嫌いだ。そう言い訳しなければ悠を追いかけることができなかった。だから彼女の前ではわざとキツイ態度をとっていた。そうすれば彼女の方から嫌ってくれると信じて。
その結果がこれだ。彼女の言葉の続き、そんなのわかりきっていた。そして、それを嬉しく思う私がいた。
「ごめん、今はそういう気分じゃないから……。銃の件は少し考えさせて」
「うん、わかった。ごめん」
ユキの手が離れる。いつもは冷え切っているはずの彼女の肌から感じた微熱。その原因なんて考えたくない。考えてしまったら、もう戻れないから。
車に戻り、エンジンをかける。元々車内の会話が多いわけではないが、出発してからしばらく経っても、私たちは一言も喋らなかった。