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屍人は蜜月の夢を見ない。  作者: 梔子
1章 屍人は暗闇の夢を見る
13/13

最終話 出航

「おはようございます★ 昨日はよく眠れましたか?」


 (めい)が仮面のような笑顔で私たちを出迎える。その表情は何度見ても慣れない。

 彼女がその仮面の下に何を隠しているのかわからない。それなのに、蜘蛛の巣がまとわりつくような感覚が身体から離れない。


『それで、私は何をしたらいいの?』

『簡単ですよ★ 夏希(なつき)さんの血が欲しいんです♪』


 あれから私たちは部屋へと通された。冥曰く、「考える必要があるでしょうし」ということらしい。

 一方的すぎて反感を覚えたのだが、私たちに逃げる選択肢は与えられていない。結局私たちは施設内で一晩を過ごすことになった。そして今に至るわけだ。


「それで、良い答えが頂けると期待してるのですが♪」

「その前に、一つ訊いていい?」

「えぇ、何なりとどうぞ♡」

「ナツ……」


 ユキが私の服の袖を強く握りしめる。


「どうして私の血が必要なの? 貴女の目的は?」

「フフッ、たしかに気になりますよね★」


 冥は笑うがそこに感情は籠っていない。機械が音声を読み上げているようにも聞こえる。


「それじゃあ、まずはボクの話からしましょうか♪ ボクの中には夏希さんの血が流れているんです」

「──は?」


 私は耳を疑った。冥の中に私の血が……? そんなの意味がわからない。


「もしかして、ボクのこと気持ち悪いって思いました? そりゃそうですよね。でも、ボクはダメでそっちの屍人(リビングデッド)は大丈夫だなんて虫が良すぎませんか? その失敗作もボクと同じだっていうのに」

「それってどういうこと⁉」


 ユキが屍人であることを知っているのはこの際どうでもいい。だが、冥は聞き逃せない発言をした。

 失敗作──許せない侮辱ではあるのだが、これも今は気にしている余裕はない。重要なのはその後、ユキと冥が同じ……?


「今のでわからないのなら相当頭の出来が悪いと思いますけど?」


 一瞬だけ冥の仮面が外れる。彼女は私のことを心から侮蔑していた。

 わかっている。だが、理解することを脳が拒むのだ。

 落ち着いて深呼吸をする。もし、冥の言葉が真実だとしたら……ユキの身体にも……。


「ユキにも、私の血が入ってるってこと……?」

「はい★ まぁ、全部入れ替えたってわけじゃないですけど。海老原(えびはら)(はるか)は量が少なかったから暴走しかけたんですよね? だから一度屍人になりかけた」

「なんでそのことまで……」


 あの日のことはそういうことだったのか。ただ、疑問が全て解消されたわけではない。

 あの時点で悠の体内には私の血液が混ざっていた。私の血液型はO型、悠や冥の体内に入っても問題はない……はずだ。しかし私が抱いている疑問はそれではない。

 疑問なのは血液を入れ替えた時期だ。

 悠が屍人になったタイミングでは既に入れ替えられていた。つまりはその時点で誰かが……そんなの、一人しかいない。


「まさか、大祐(だいすけ)さんが……?」

「ご名答♡ ボクたちの組織は元々海老原大祐さんがリーダーだったんですよ★」

「だい、すけ……?」


 ユキが首を傾げる。だが、その身体は小刻みに震えていた。

 もしかしたら彼女の身体が父親の名前に反応したのかもしれない。


「疑問には思わなかったんですか? なんで意味の無い採血をずっと続けるのかって」

「それは……思ったけど」

「思ったけど恩人である大祐さんを疑うことなんてできなかった。そうですよね?」


 ……図星だ。だが、それを肯定する言葉は口にせず、ただジッと冥の顔を睨んだ。

 それで全てを察したのか、彼女はクスクスと笑った。先程までとは違い、そこには嘲笑という立派な感情が込められていた。


「昔ゾンビ映画を観た時に思ったんですよね、なんでこんな非常事態に人間同士で争っているんだろうって。予算不足? 映画内でそんな愚かなことをする理由はそうかもしれませんが、実はあれって結構的を得ているってパンデミックが起きてから気づいたんですよね★」

「どういうこと……?」

「だって今の状況がそうじゃないですか。屍人っていう共通の敵がいるのに、人間は今も争いを止めようとはしない。探索者をしている夏希さんが一番理解しているんじゃないですか?」


 否定はできない。

 私は幾度となく人間と対峙してきた。ここで「きっと分かり合えるはずだ」なんて言ったところで、それは綺麗事でしかない。


「水や食糧が欲しいならまだマシ、それ以下の理由でも人は争う。ここにいる子供たちはそうやって奪われ続けた──いわば負け犬たちの最後の居場所なんです」

「だから私の血が必要ってこと? 子供たちを守るために」

「半分正解……ですかね。大祐さんがトップの頃は軍事転用を目論んでいたようですが、失敗作が暴走しちゃって★ 身体が肥大化したり見境なく暴れたりしてほんと追い出すのに苦労したんですよね……」


 肥大化……その言葉で私は以前見かけた変異種の屍人を思い出した。あれも大祐さんたちが生み出したものなのだろうか。

 冥はパーカーのポケットに手を入れながら私の様子を観察している。


「じゃあ、今のトップの目的は?」

「それを話す前に一つ質問させてください。夏希さんは人間が好きですか?」


 意図のよくわからない質問に私は瞬きを繰り返した。


「ちなみにボクは人間が大嫌いです。勿論夏希さんは例外ですけどね♡」

「……それはどうも」

「もし仮に打ったら屍人に噛まれても大丈夫、まるで夏希さんのようになる薬が完成したとしましょう。それを全人類に配ったとして、みんな打つと思いますか?」

「それは……打つと思うけど」


 この質問も何がいいたいのかわからないが、私はとりあえず答えた。

 抗体を生み出す薬が完成したのなら、パンデミック前の世界を取り戻すことも夢ではなくなる。打たない理由がない。


「そうだとしたらどんなに良かったか……。でも現実は夏希さんが思っているより愚かなんですよ。もしそんな薬があったとしても、一定数は必ず反発します。『何が入ってるかわからない薬なんて危険だ』、『効果なんてないに決まっている』、『逆に打ったら感染する』──なんて人がね。それに実際にいたじゃないですか。『自然に任せた方がいい。滅びるのならそれまで』って活動をしていた人たちが」


 たしかに、私はそう主張する組織に誘拐されたことがある。

 あの時は大祐さんに助けられたのだが……やはりその件にも冥たちが一枚かんでいるということだろう。


「だから、ボクは思ったんですよね。そうやって非協力的な人間もどきがいるからボクたちは今の状況まで追い詰められているんじゃないかって──だからボクは人間が嫌いなんです。我が物顔している人間もどきも、それを許している人間も大嫌い。夏希さんだってそうなんでしょう? だから死体とおままごとをして現実逃避している」


 私は思わずユキの顔を見てしまった。彼女は怯えた顔で冥を見ている。

 ユキは屍人──言ってしまえば死体なのはそうだ。だが、私がしていることは現実逃避ではない。そのことにこの旅の間に気づかされた。

 私はユキの手を強く握りしめた。


「だから、私の血を使ってその非協力的な人たちを排除しようってわけ?」

「……正解♡」


 冥が口角をつり上げて笑う。


「軍事に転用するんじゃなくて、最初からそういう目的なんですよ。大祐さんはそういうところが甘かったから、結局は最後に裏切られちゃったんですよね♪」

「じゃあ、貴女が大祐さんを……」

「嫌だなぁ、違いますよ★ あくまで大祐さんは屍人に襲われて亡くなったんです♪」


 それを仕組んだのは冥ということだろう。

 これで彼女の目的は理解できた。私の血液を混ぜて自我のある屍人を作りだし、兵士にするというわけだ。


「全国各地にはボクたちの支援者がいつでも作戦を実行できるように屍人を集めて待機してます。まぁ、正直規模が大きくなりすぎてボクも管理しきれなくなったから、事故が起きちゃうんですけどね」

「……そういうこと」


 点と点が線で繋がる。できることなら繋がってほしくはなかったが。

 つまりユウジを殺したのも、間接的には冥の仕業ということになる。


「じゃあ、夏希さんの答えを聞かせてもらいましょうか。当然、ボクたちに協力してくれますよね?」

「──その前に一つ訊かせて。私が協力したら、ユキはどうなるの?」

「ユキ……あぁ、海老原悠のことですか」

「──ッ」


 冥は何でもないことのように、私が絶対に言ってほしくないことを口にした。


「はる…か……」


 もうこれで誤魔化すことはできない。ユキに自身の正体を隠し続けることはできなくなった。……真実と向き合わせるしかないというわけだ。


「海老原悠は研究のプロトタイプですからね。正直ボクも彼女の身体がどうなってるかなんてわからないんですよ。だからそんなリスクはすぐに廃棄するに限りますよね★」

「……そう。なら答えは決まった」

「そうですか! じゃあこれから──」

「──私は貴女たちには協力できない」


 冥は私の言葉を聞いて、私を嘲笑うことも、仮面で取り繕うことをやめた。ただ呆然と、私が何を言っているのか理解できない様子でこちらを見つめてくる。

 しかし、何度訊かれてもこの答えが覆るようなことはない。


「な、なんで……」

「たしかに、私は人間が嫌いだよ。嘘を吐き続ける人間(じぶん)も、素直になれない人間(じぶん)も、冷酷になりきれない人間(じぶん)も大嫌い。でも……それは昔の話。それに──」


 どんなに理由を並べたところで結局はこれが一番の理由だ。

 隣に彼女がいない状況なんて許せない。彼女を犠牲にして何かを得ることなんて私にはできない。だから──


「──ユキが隣にいなきゃ嫌だから」


 ユキのいない世界になんて意味はない。それ以外の理由なんて必要ない。

 それほどまでに、彼女の存在は私の中で大きく、そして温かいものになっていた。……悠には申し訳ないが、これが今の私だ。


「そう、ですか……なら仕方ありませんね……」


 冥はブツブツと呟きながらポケットから手を──


「──ッ⁉」


 室内に銃声が鳴り響く。

 私の撃った弾は冥の隠し持っていた拳銃に命中した。拳銃が床を滑る。


「ユキ、逃げるよ!」


 交渉は決裂、私はユキの腕を掴んで部屋の外へと出た。

 冥があんな強引な手段を取ろうとしてきた以上、おとなしく私たちを帰すつもりはないようだ。

 しかし、逃げるにしてもまずやらなくてはならないことがある。


「車の鍵……」

「わかってる! でもまずは隠れられそうな場所!」


 車の鍵は冥の部下が持っている。更には閉ざされた地上への扉も開けなければならない。

 本当ならもっと穏便に済ませたかったのだが、こちらから先に撃たなければ、今頃私はこの世にいなかった可能性だってある。


「──おい」


 突然男の声がした。聞こえた方向を見ると、昨日私たちをここまで連れてきた部下の男がいた。

 男は両手を上げると、そのままゆっくりとこちらへ近づいてくる。


「撃つなよ……」


 彼の目的がわからず、警戒している私は彼に銃を向けたままでいた。

 そして、数メートルの距離まで近づくと、男はこちらに向かって何かを投げてきた。私はそれを慌ててキャッチする。


「……なんでこれを?」


 男が投げてきたのは車の鍵、私たちが昨日彼に奪われたものだ。

 男は私の問いに一度ため息を吐いてから答えた。


「ここで暴れられると迷惑なんだ。ガキたちに被害が出る前にさっさと出ていってくれ」


 乱暴な物言いだが、敵意は感じられない。少なくとも彼の言葉は本心だと捉えていいようだ。


「わかった。ありが──」


──そう言いかけたところで、男の頭から赤い雫が飛び散った。


「なっ……」


 男は倒れ、ピクリとも動かなくなった。誰がどう見ても、彼は死亡したと判断するだろう。

 弾丸が放たれたのは私たちが来た方向から、つまり撃ったのは──


「冥……どうして……」

「なんでその女なの」


 冥は壊れたラジオのように同じ言葉を繰り返す。

 ここから対話でどうこうできる状況だとは到底思えない。私は一切躊躇せずに彼女を撃った。

 弾丸は彼女の胸を貫く。常人ならこの一撃で生命は終わりを迎えるだろう。


「どうして、どうしてどうしてどうしてどうして」


 しかし、冥は常人ではなかった。

 身体の構造は完全に屍人と化していた。頭を撃たなければ意味はない。


「……バケモノ」


 散々他人から言われ続けた言葉だが、まさかそれを私が他人に言う日が来るとは思ってもみなかった。

 冥は怯むことなくこちらへ歩いてくる。

 私は再び走り始めた。弾丸が私の頬を掠める。どうやらあちらも命を奪うことに躊躇いはないらしい。


 咄嗟に目についた扉を開け、中へと入る。

 鍵をかけて私は胸を撫でおろした。


「ナツ……」


 ユキが私の腕を引っ張る。


「どうかした?」

「あれ……」


 ユキの指差した先には男の子がいた。冥たちが保護している子供の一人だ。

 きっと彼の体内にも私の血液、もしくは冥の血液が循環しているのだろう。十年以上も血液を保管できたとは思えない。恐らく彼の命を救ったのは後者だ。


「だ、誰……?」


 男の子は怯えた顔で私たちを見る。

 私はできるだけ怖がらせないように、しゃがんで彼と視線を合わし、笑顔を作った。


「大丈夫だよ。すぐに出ていくから」


 とは言ったものの、まだ問題は残っている。

 地下から脱出するためには入口を開けなければならない。しかし、駐車場にはそのような仕掛けは見当たらなかった。

 施設内にあるとしても、それがどこだから見当もつかない。


「ねぇ、施設内の制御をしている場所ってどこだかわかる?」


 そこで私は男の子に訊ねてみることにした。

 ただ、これで場所が判明するとは思っていない。念のため確認してみただけだ。


「えぇっと……よくわからないけど、地下三階は危ないから子供は入っちゃダメだって、めい先生たちが言ってたよ」


 だが、私の予想に反して収穫はあった。

 その地下三階に私たちが求めているものがある可能性は大いにあり得る。


「そっか、教えてくれてありがとう」


 すると、ドアが力強く殴られた。冥が扉の前にたどり着き、ノックしたのだろう。


「夏希さん、開けてください」


 そう言いながら扉を乱暴に殴る。


「先生!」

「中に他にも誰かいるの?」

「うん、僕がいるよ!」

「そう、なら良かった……」


 冥は心の底から嬉しそうな声を出す。

 それを聞いた私は無性に嫌な予感がした。


「ユキッ‼」


 このままだと危険だと判断した私はユキの身体を押し飛ばし、扉から離れた。

 それとは逆に男の子は扉へ近づき、ドアノブに触れ──弾けた。


「ぐぅッ……!」


 激しい爆音と共に、熱風が私の背中を容赦なく焼き付ける。しかし、そんなことを気にしている余裕なんてない。

 扉には大きな穴が空いていた。

 そしてその周りには、先程までそこにいたはずの男の子だったものが飛び散っている。


「よかった。上手くできました★」


 穴をくぐって冥が中に入ってくる。

 私は彼女の額に銃口を突きつけた。


「びっくりしました? 子供たちにはみんな仕込んであるんですよ♪」

「どうしてそんなことを⁉」

「……なんで夏希さんが怒っているんですか?」


 今は冥のどんな言葉も私の神経を逆撫でするだけだ。

 そのことを彼女もわかっているのか、彼女はわざと私を挑発するような言葉を発した。


「たしかにボクはその子の命を見捨てました。でも、夏希さんだって同じじゃないですか。貴女の選択はその子だけではなく、子供たち全員を見捨てるようなものですよね?」

「そ、そんなこと、私は考えてない!」

「何を思っていようが、貴女はそういう行動をしたんです。一時の性欲に任せた愚かで実に人間らしい行動をね。ちなみにボクを殺したらもっと酷いことになりますよ。子供たちは未完成品ですから、定期的に血をあげないとまた動く死体に戻っちゃうんですよね。……夏希さんも心当たりがあるんじゃないですか?」


 ……ユキは時々私の血を求める。

 それは屍人故の本能かと思っていたのだが、まさか自我を保つための行動だったとは……そこで私の中で新たな疑問が芽生えた。


「なら──私の血を使っても……」

「それは試してみないとわかりませんが……やはり海老原悠は夏希さんの血を吸い続けていたんですね。まあどちらにしても、重要なのは結果よりも、周りにそう思わせることですから関係ありません。唯一の成功作であるボクが言えば、嘘だって真実になる──現にボクは貴女のおかげで救われているんですから。証拠としては十分でしょう?」

「……黙れ」

「嫌です。貴女に命令なんてされたくありません。それに命令するのはこっちですよ。今すぐ銃を手放してください。そうすれば子供たちの命は助かります。……やっぱり他人の命なんてどうでもいいというのなら、どうぞお好きにボクを撃ち殺してください」


 ……一体どちらが正しいのだろう。

 当然冥の考えは許すことができない。しかし、私の行動だってワガママに他ならない。

 なら、私の命一つで多くの命が救われるのなら──銃が手から離れ、落ちていく。その様がスローモーション映像のように感じた。


「ナツッ‼」


 ユキが叫び、銃声が鳴った。


「──え?」


 私の顔に生温かい液体がかかる。

 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。

 しかし、肉塊が床に崩れる音で現実へと引き戻された。


「ユキ……」


 冥の頭から赤い液体が流れる。

 ユキが彼女を撃った……否、撃たせてしまったのだ。

 私の心が折れそうになったせいで、ユキに重荷を背負わせてしまった。その後悔が一気に私の心へ流れ込んでくる。


「嫌……そんな……」

「大丈夫だよ」


 ユキが私の頬に触れる。


「ナツにだけ背負わせたりなんてしないから」


 そう言って微笑むユキの顔に、悠の面影は一切感じられなかった。

 ……そうか。もう悠はこの世にはいないんだ。



半年後


「本当にいいの? 今度こそ、生きて帰ってこれないかもしれないんだからね?」


 何度も聞いた言葉を、クジョウはまた口にする。


「大丈夫ですよ。それに、私まだ死ぬつもりなんてありませんから」


 あと数分で私の乗る船は出発し、この国を離れていく。

 きっと長い旅になるだろう。もしかしたら、本当に二度と帰ってこれないんじゃないかとさえ思う。しかし、それは言わない。言えばクジョウを悲しませてしまうから。


「私が留守の間、子供たちのことはお願いしますね」


 冥の施設から保護した子供十数名は今はクジョウの管理する区域(エリア)にいる。

 いつ暴走するかはわからないが、せめてそれまでは幸せな生活を送ってほしい……そんな身勝手な願いを私は抱いていた。

 その日を少しでも遠ざけるために、私は半年間ひたすら採血される日々を送った。後は冥の元部下たちを信じるしかない。


「それじゃ……どうかお元気で」


 ユキの手を握り、船へと乗り込む。

 本当にこんな別れ方でいいのかと後悔の念に苛まれる。だが、だからこそ絶対に生きて帰らなければという決意を抱いた。


「ナツ、向こうで何をするの?」

「そういえば話してなかったっけ。他の国でも私みたいな体質の人間がいるって噂が流れてきて、その調査。どうしてもリスクの方が高くなっちゃうから、私が行くことになったの」


 これは建前、本当の目的は別にある。


「……ちょっと楽しみ」

「そうだね。実は私も楽しみなんだ」


 ユキはデジタルカメラで海の景色を撮影している。きっと向こうの土地にたどり着いたら撮影枚数はもっと増えるだろう。

 私も海外へ行くのは初めてだ。胸が躍らないと言えば嘘になる。


「それに──」


 潮風が髪を揺らす。気づくと港は遠く離れていた。


「──ユキと色んな景色を一緒に見たい」


 現実は残酷で、恐らくユキも私も残されている時間はそう長くない。

 しかし、もう甘いだけの夢になんて逃げる必要はない。心を殺して死者になる必要なんてない。


「ナツ──大好き」


 もう夢は見ない。悠に会うことはできなくなる。

 それでも──


「私も、ユキのことが好き」


 十年もの間、私を支えてくれた蜜月の夢に別れを告げる。

 私たちは前へと歩み始めた。

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