9話 とある雪の日
外は雪が降っている。
どちらから言うわけでもなく、自然と手を繋いでいた。悠の体温が私の肌に伝わってくる。どんなに肌を重ねても、彼女の温もりに対する安心感は変わらない。
芙由香さんの命日に、しかも彼女の墓前で悠に告白するという今思えばかなり不謹慎な行為をしてから既に一年半が経過していた。
……屍人の研究は全くと言っていいほど進んでいない。
「今日から冬休みなのに、手伝いさせちゃってごめんね」
結局私は高校に進学した……研究の手伝いもあり、出席率はかなりギリギリなのだが。
「大丈夫、大祐さんも会議で出張だからクリスマスパーティーもできないんだし。それだけがちょっと残念かな」
「まぁ、研究所内でもパーティーなんてやるような間柄じゃないしね。残念だなぁ」
私も──そして恐らく悠も、本心ではそこまで残念には思っていなかった。二人でいるのが何よりの幸せだ。
二人で大学への道を歩いていると、前から見知った人物が走ってきた。その表情は青ざめていて、まるで何かから逃げているようだった。
「あれ、蓮田くん? おぉい!」
悠が蓮田に手を振る。
しかし、彼は私たちを無視してそのまま横切って走り去ってしまった。
「……どうしたんだろ。何かあったのかな」
「光井と何かあったんでしょ、いつものことだよ。そんなことより、早く行こ」
私は彼らが嫌いで、何が起きているかなんて興味なかった。
この時に気にしていれば、結果は違っただろうか。
「おはようございまぁす」
「おはようございます」
研究所に入ると、クジョウが椅子に座りながらスマートフォンをいじっていた。
室内には蓮田は勿論、光井もいない。
「おはようございます。二人とも今日も仲良さそうですね」
クジョウに言われ、思わず握っていた手を離した。悠が残念そうな顔をする。
「私は今からタバコ吸ってくるんで、別に気にせずいちゃついてもらって結構ですよ」
クジョウは意地悪そうに笑った。そしてコートを着て外へ出る。
彼女が出ていったのを確認すると、悠は再び私の手を握る──それどころか腕を組んで恋人繋ぎの状態になった。
「な、何してるの……」
「九十九がいいって言ったんだから。他に誰もいないんだし」
悠の気持ちは嬉しいが、私は彼女を押しのけて着ていたコートを脱いだ。そして悠の上着も預かり、ハンガーに掛けて吊るした。
悠はずっと寂しそうなしている顔をしているが、私は必死に我慢した。
「ナツ……」
小動物のような瞳で見られ、私の中で心の枷が外れる音がした。
「んっ……はぁ……なつ、き……」
悠は私より背が高いので、軽く背伸びをして唇を重ねた。更に舌を入れ、それと同時に互いの指を絡ませる。
唾液が混ざる音がする度に、悠の声が小さく漏れた。
悠があだ名ではなく私の名前を呼ぶ。そのせいで私の中の熱は余計に燃え上がった。
「悠……はるかぁ……」
私は悠の着る服の中へと右手を忍ばせた。
彼女の熱を感じる。この温かさが私は好きだ。それを全身で感じたかったのだが、流石にこんなところでするほど倫理観を欠落させているわけではない。
しばらく行為を続けて満足した私は悠から離れた。すると混ざり合った唾液が私たちの舌から床に垂れた。
悠は顔を真っ赤にしていたが、それでもなんだか物足りなさそうにしていた。
「続きは帰ってからにしよ?」
私は悠にもう一度顔を近づけ、耳元で囁いた。
「あのぉ……机にライター置いたままだったんですけど、そろそろ入ってもいいですか?」
入口で申し訳なさそうにクジョウがこちらを覗いていた。
●
……時計を見る。
研究所に来てからかれこれ一時間以上経過している。蓮田と光井は一向に来る気配がない。
しびれを切らしたのか、クジョウが椅子から立ち上がり、電話をかけるためにスマートフォンを取り出した。
しかし、いくら経っても通話は繋がらない。クジョウはイライラしながら指で何度も机を叩く。
「ほんと信じられない! ちょっと二人の家に行ってきます」
「あっ、クジョウさん……」
私は今朝見かけた蓮田のことを思い出した。
あの時の彼は普通じゃなかった。今頃になって気になり、クジョウにそのことを伝えるか考えていると、扉が勢いよく開いた。
「ちょっと二人とも今何時だと──え?」
入ってきたのは蓮田と光井の二人、しかし様子がおかしい。
蓮田は光井に担がれていて、腕からは血が流れていた。
「ど、どうしたの⁉」
「知らねぇよ! 道で蓮田が倒れていたからここまで運んできたんだよ!」
クジョウの問いに光井が大声で答える。二人とも軽いパニック状態だ。
そんな中、落ち着いた様子で悠が蓮田をゆっくりと床に寝かせた。
「それより、なんで救急車を呼ばなかったわけ?」
「そ、それは──」
悠の疑問は当然のものだ。しかし、光井はしどろもどろになっている。その理由にはパニックであること以外にもありそうだ。
悠はため息を吐き、蓮田が血を流している側の袖を捲った。
──この場にいる全員が息を呑んだ。
彼の腕には噛み痕があった。悠が無言で光井を睨む。
「だって、救急車なんて呼んだらこいつ殺されるんだろ⁉」
「それはそうだね。でも運んできたせいで余計に面倒なことになっちゃうんだけど」
「だ……だったらうちの地下室に閉じ込めておけば……」
研究所に地下には、緊急時に身を守るための部屋があった。しかし、あれはあくまでも人間のためのものだ。
「とりあえず、光井くんと九十九は蓮田くんを地下室に運んで。その間に私は警察に連絡するから」
「は、はい!」
「そんな……」
悠は先程までとはまるで別人のような表情をしていた。
「わ、私にもできること……ないかな?」
「ナツは念のため大学にも連絡入れてもらえる? 蓮田くんが噛まれたってことは、他に屍人がいるわけだし」
「わかった!」
私は走り出した。
教員自体はすぐに見つかったのだが、私もパニックになっていたせいで説明するのに時間がかかってしまった。
しかしこれで大学側で市民の避難受け入れが始まるだろう。大学に設置されているシェルターに私も入るように言われたが、悠が心配だった私はそれを断って研究所に戻った。
戻ると、研究所内は修羅場と化していた。
悠が光井に羽交い締めされていて、クジョウが彼に銃を向けている。まさに混沌だ。
光井は何か叫んでいるのだが、もはやそれは人の言葉ではなくなっていた。
床に落ちているスマートフォンには電話番号を入力する画面が表示されている。つまり、悠が通報しようとした瞬間に光井が暴れだしたのだろう。
「もう一度言うよ。悠先輩を離して」
クジョウは落ち着いた様子で言うが、銃を握る腕は震えていた。それに対し光井は獣のような咆哮を叫び続けている。
──そして、獣がもう一匹増えた。
悠の足元に倒れていた蓮田が急に起き上がった。
クジョウはすぐに彼を撃とうとしたが、光井が悠を押しのけて遮った。そして蓮田は目の前にいる悠の脇腹に噛みついた。
悠が言葉にならない叫びを上げる。
「先輩ッ!」
クジョウが蓮田の胴体を撃った。しかし、彼は止まることなく光井の腕にも噛みついた。
「やめっ……がぁぁぁッ⁉」
これで三人が感染してしまった。
光井が息を荒くしながら机の引き出しから拳銃を取り出すと、躊躇わずに蓮田の頭を撃った。……そして自分の額にも一発。
二人は倒れた。その間私はただ震えているだけで、何もできなかった。
「は、悠……」
噛まれた部分を押さえている悠に近づく。押さえている手は真っ赤に染まっていた。
「ナツ、ごめんね……」
「謝らないでよ! そうだ、とりあえず地下室に運んで──」
「それじゃあそこの二人と同じじゃん」
悠は悲しそうに笑った。
「九十九、ナツと地下室に隠れてて。しばらくしたら軍も来ると思うし」
「……わかりました」
クジョウは頷くと私の手を掴んだ。
私は絶望感で何も考えることができず、ただ彼女についていった。
……私はこの時のことを一番後悔している。悠と最後まで一緒にいることができたら、今の私は彼女の幻影を追いかけ続けることなんてしていなかったから。
●
あれから何時間経っただろうか。数時間、数十分、もしかしたらまだ何分も経っていないのかもしれない。
クジョウが地下室内にあったダンボールの中から缶詰をいくつか取り出していた。食欲は一切無く、ただ流れるラジオの内容を聞き流していた。
「……クジョウさん」
「何?」
「なんで悠のことは撃たなかったんですか。蓮田のことは撃ったじゃないですか」
「……撃てないよ。先輩のことは撃てない」
「なんでですか?」
「フフ、なんでだろうね」
笑ったのは言葉だけ、クジョウの顔にいつもの笑みはなかった。
ラジオからは現在の状況が流れている。何も考えたくはないのだが、現実とは向き合わないといけない。私は聞き流していた内容をできるだけ把握するように絶望する自分に言い聞かせた。
全国の大型区域各地に屍人が大量に発生。去年の夏に北海道で起きていたことが、今度は全国で起きていた。
「救助、来ますよね」
「来るよ。……きっと」
クジョウも自信がないのか、最後に付け足した。
結局救助は来ないまま、ラジオからは日付が変わる時報が流れた。私はラジオの電源を切り、起き上がった。
……私は愚かだ。
地下室の扉を開き、心の中で自分を罵倒した。しかし、足は止まらずに階段を上った。
いつもの研究室に入ると、そこに悠はいなかった。……ただ彼女の形をした、動く肉塊がいた。
「悠……ごめんね。私もすぐにそっちに行くから」
肉塊に近づく。肉塊は私を見ると口を大きく開き、私の腕に噛みついた。想像を絶する痛みが走る。筋肉の繊維が千切れる音がしたが、それでも肉塊は噛む力を強め続ける。
このまま食べられるのではないか、それも悪くないと思っていると、肉塊は私から離れ苦しみだした。
もしかしたら抗体が効いて悠の身体が元に戻るのではないか、そんな甘い期待をしながら、私は痛みのせいでその場に倒れ、意識を失った。
●
目が覚めると、クジョウが涙を流しながら私に銃を向けていた。
「夏希ちゃん、自分が何をしたかわかってるの?」
「……はい」
相変わらず腕には激痛が走っていたが、それ以外に身体に異常は何もなかった。……いや、異常がないことが異常と言うべきか。
そして昨晩苦しんでいた悠だったものに視線を向けると、異変に気づいた。
「クジョウさん! 悠が……」
「わかってる。でもそれはもう悠先輩じゃないの」
悠の黒髪が白く脱色しきっていた。少なくとも、昨晩はまだ黒かったはずだ。
「たしかにこんな現象初めて見たけど、もうあの人はこの世にいないって噛まれた夏希ちゃんが一番理解してるでしょ」
「で、でも……。そうだ、悠が私のことを噛んだ時に苦しんでいたんです。もしかしたら抗体が──」
「何らかの作用をしたのかもしれない。でも、今はリスクを確実に排除しなきゃいけないの。夏希ちゃんのことは救助が来るまで拘束させてもらうけど──悠先輩はここで殺すよ」
自分にも言い聞かせるように、クジョウは言った。
嫌だ……そう言おうとすると突然悠の身体が動き出した。クジョウがすかさず銃を彼女に向ける。
「うぅ……あー……」
まるで何も知らない赤子のようだった。
少なくとも、屍人の凶暴性は全くと言っていいほど感じられない。
「悠……?」
「先輩?」
「あぅ……」
悠は自分の親指を銜え、舐めだした。その様子は彼女が本当に赤ん坊になってしまったのかと錯覚するほどだ。
クジョウが持っていた銃を床に落とした。
私は急いで悠に近づき、彼女の肌に触れた。噛もうとはしてこないのだが、彼女の身体は酷く冷え切っていた。
……悠は死んだ。そのことを私は否応なしに理解するしかなかった。だが、それなら目の前にいる女性は何者なのだろうか。
「どうしますか……」
「しばらくは経過観察ってことで……うん」
クジョウは銃を披露と、机の引き出しの中へしまった。
私は胸を撫でおろした。悠が死んだと理解しながらも、彼女と同じ顔をした誰かに期待してしまう自分がいる。……それがたまらなく嫌だった。
窓を開くと、外は今日も雪が降っていた。室内に冷たい風が入ってくる。
雪のように白い髪が揺れた。