1話 プロローグ:終わった世界で生きる屍人
終わった世界だからこそ私は彼女と出会い、終わった世界のせいで私は彼女と別れた。
あれから長い時間が経った今でも、あの子との出会いの日は覚えている。
割れた窓から雪の降る外を珍しそうに眺める白髪の少女を見た。
「貴女は誰?」
拳銃を握る力を強める。
私に彼女を殺すことができるのだろうか。
……できるかじゃない。やらないといけないのだ。それが私の贖罪だから。
「だ…ぁ……れ……?」
虚ろな瞳で私のことを見る。
私とユキが初めて出会った日、彼女がすぐ近くにいるのに手の届かない場所に言ってしまった日、そして私という人間が死んだ日だ。
私は死んだまま生きたフリをしている。あの子以上の死人だ。
★
遠くで乾いた銃声が聞こえた。窓から外の景色を見たが、すぐに興味を失い、視線を扉に戻した。
私は勢いよく扉を開けると、右手に持っていた自動式拳銃を構えた。
部屋の中には誰もいない。
床には木片が散らばっていた。ここにあった机を誰かが燃料にするために、壊して運びやすくしてから持って行ったのだろう。
ボロボロになった黒板だけが、ここが元々は大学の講義室であることを主張していた。
「……ユキ、カメラ」
私は廊下で待機させていた病的なまでに青白い肌をした白髪の少女、ユキに声をかけた。
彼女は頷くと部屋に入り、首からぶら下げていたデジタルカメラで中の様子を撮影し始めた。大学での生存者の探索と、内部の状態の記録、それが私たちがの今回の仕事だ。
ユキが室内を隅々まで撮影している間、暇になった私は再び外の景色を眺めていた。
ヒビだらけになった道路、壊れて放置されている車、窓の割れたビル。そして、そんな状態の外を歩く人の形をしたナニカ。
この大学もそうだが、こんな場所にわざわざ仕事で来ているバカ以外の人間がいるとは思えなかった。
燃料を確保しにここを訪れた生存者、彼が現在も生きている可能性はかなり低いだろう。ここはそういう世界なのだ。
「……ナツ、終わった」
名前を呼ばれ、ユキの方を見ると、彼女がカメラをこちらに向けていた。私は息を整える。
「二階調査完了、生存者は確認できず。……以上」
記録として残すためではあるのだが、わかりきったことを一々報告するのになんの意味があるのだろう。
ユキは満足したようで、カメラから手を離した。カメラが彼女の胸元で左右に揺れる。
「あんまり雑に扱わないでよね。新しいカメラなんて用意できないんだから」
「……それは困る」
ユキがカメラを大事そうに握った。
撮影を終え、私たちは三階へ向かった。この棟は三階建て、そして他の棟は既に探索済なので、この階で今回の仕事は終わりだ。
今のところ生存者も敵対存在もゼロ。研究棟も念入りに調べたが、これといったデータは見つからない。
……絶望的だ。一応もう一つ個人的な調査をする予定の場所があるのだが、そこに求めているものがある可能性は極めて低い。
「……待って」
ユキが急に私の腕を掴んだ。
「なに」
私は苛立ちを微塵も隠さずに言った。
「ここ、……いる」
「……了解、ユキは私の後ろで隠れてて」
耳や鼻がいいのか、それとも同類としての勘なのか。
基本的にユキのこうした予感が外れたことはない。十年間彼女と仕事を続け、私はそれを痛いほど理解していた。
右手にしていた黒い手袋を外す。
銃を握る力を強め、一段ずつゆっくりと階段を上った。
三階の廊下には、複数の机を重ねて、そこに針金を巻きつけて固定した即席のバリケードが設置されていた。
「あぁ……、いるわこれ……」
バリケードの先からする死の臭い。それが鼻孔に突き刺さる。
……この先は死者の世界。私たちの居場所なんてない。
いや、居場所なんて最初からどこにもない。なぜなら私たちは、死んでるわけでも生きてるわけでもない。……ただの嘘つきだ。
十年前のあの日から、私は嘘をつき続けている。
「まあ、そんなことどうでもいいか」
自分の考えを鼻で笑いながら、背負っていたバッグからナイフを取り出す。
このバリケードは外部から身を守るためのものではなく、この先にいる存在を閉じ込めるためのものだ。恐らく燃料を確保しに訪れた生存者も、これを壊すわけにはいかず、そのまま引き返したのだろう。
もしくは、この先の彼のなれの果てがいるのかもしれない。悪い想像なんていくらでもできる。だから私は敢えて何も考えずに針金を切断し、バリケードを解体した。
机をどかし、すぐに銃を構えなおす。廊下には誰もいないが、いつどこから現れるかわからない。一歩ずつ、慎重に進む。
「……酷い臭い」
鼻が曲がりそうなほどの臭い。もはや臭いの原因に近づいているのか、逆に離れているのかわからないほどだ。
後ろに振り向き、来た道、そしてユキのことを確認する。もし後ろから襲われたら、私は彼女を助けるだろうか。……そうせざるを得ないだろう。
『ヴア゛ァ……』
突如左側から聞こえたうめき声。視線をそちらに向けると、スライド式の扉が少しだけ開いていた。右手で銃を構えたまま、左手でゆっくりと扉を開ける。
……いた。
うめき声をあげながら四つん這いになっている男性と、指があらぬ方向に曲がっているのを気にせずひたすら窓を引っ掻き続ける女性。二人とも衣服はボロボロで、傷だらけの身体はあちこち腐敗し、その周りには苔が生えている。……もう彼らは人間ではない。
人類の敵対存在、屍人だ。
二人の存在を確認した私は勢いよく扉を開け、一切躊躇せずに発砲した。とっくの昔に元人間を殺すことへの悲しみなんて切り捨てている。
弾は男の頭部に命中。男は脳髄をまき散らしながら倒れ、そして動かなくなった。
「ユキッ! 離れてて!」
廊下にいるユキの顔を見て叫んだ。目を逸らしたのは一瞬。しかし、その一瞬の隙が命取りになる。
視線を室内に戻すと、女がこちらへ走ってきていた。女の頭部はまるで首の座っていない赤ん坊のようでうまく狙いが定まらない。
一発撃ったが、頭部には当たらず右肩に命中した。女は千切れそうになっている片腕を全く気にせず走り続ける。
「邪魔っ!」
目の前まで近づいてきた女に、渾身の回し蹴りを浴びせる。倒れた隙を見逃さず、私はとどめの一撃を撃った。
「ふぅ……」
「ナツ後ろっ!」
ユキが珍しく大声をあげた。何事かと思い振り向くと、男の屍人が口を大きく開けて立っていた。最初に撃った男ではない。三人目の屍人だ。
きっとどこかに隠れていたのだが、騒ぎを聞きつけて現れたのだろう。しかし今はそんな冷静な考察をしている場合ではない。
「……ッ⁉」
突如指に走る痛み。
私は傷だらけの指を睨んだ。……まさかこんな時に。
男に押し倒される。その衝撃で持っていた銃を落としてしまう。
男が私に覆いかぶさり、そして口を更に大きく歯茎が見えるほどまでに開いた。黄土色の涎が腕にかかり、私は顔を歪めた。
「クソッ……お前は…あっちに行ってろ!」
腕を噛まれそうになったところで、私は男の腹部を蹴飛ばした。男はバランスを崩し、後ろに倒れた。
「これ!」
「……ありがと」
立ち上がると、ユキが背負っていたショットガンをこちらに投げてきた。それをキャッチし、構える。男も起き上がるが、一歩遅い。
「おやすみ」
激しい発砲音が、建物に響き渡った。
●
結局あれから誰にも会うことなく、三階廊下の一番奥までたどり着いた。しかし目の前の扉から、先程までとは比べものにならないほどの腐敗臭がする。呼吸することを自然と止めそうになるほどだ。
ユキは平気そうな様子で、私の後ろでカメラを構えている。私は鼻を手でつまみながら、扉を開いた。
「うげっ……」
扉を開けた瞬間、大量のハエが部屋から出てくる。一匹でも飲みこんでしまうことがないように口をきつく閉じ、室内の様子を確認した。
「あれが原因ね」
部屋の中央付近で、女性が首を吊って死んでいた。かなり時間が経っているのか、遺体の損傷が激しい。
私は銃を腰のホルダーに戻し、ユキの方を見た。
「……生存者はゼロ」
「そう……」
彼女は死体も、それを貪って育ったハエたちも気にせず、撮影を始めた。一刻も外の空気を吸いたかった私は、部屋から出るとバリケードのあったところまで戻った。
このバリケードは、屍人を閉じ込めるためのものだと思っていた。しかし、実際は外から自分たちの身を守るためのものだった。恐らく籠城していた生存者の中に、感染しているのを隠していた者がいたのだろう。
感染者が屍人となったことで、バリケードは身を守る盾から自らを閉じ込める檻に変貌した。最後の一人になり、逃げることもできず最後は首を吊って自ら……。そんなところだろうか。
「ナツ、記録終わったよ」
「もういいの?」
「……うん」
いつの間にか隣にいたユキがこちらにカメラを向けながら言った。最後の報告をしろということなのだろう。
私はカメラを見て、最初からわかっていたことを呟いた。
「調査終了、生存者はゼロ。……以上」
訪れた時は明るかった外も、気づけば既に日が沈み、暗くなっていた。
「今日は車で寝る……?」
「今夜は外の空気を吸いながら寝たいなぁ」
いつもなら外に停めている車の中で寝ることも珍しくないのだが、就寝中に襲われる危険もある。決して屍人だけではない。人間が人間を襲うことだって幾度となく目にしてきた。
勿論車内に積んである物資やガソリン、最悪の場合車自体を盗まれる危険だってある。しかしそんなものより、命の方がよっぽど大切だ。
三階から更に階段を上り、屋上の扉を開く。
懐中電灯で隅々まで照らしながら、屋上に屍人がいないことを確認していく。十分ほどかけて探索をしたが、屍人も、そして生存者も見つからなかった。
安全を確認し戻ってくると、ユキは既に寝てしまっていた。寝息を一切たてずに横になっている姿を見ると、今度こそ彼女が死んでしまったのではないかと不安になる。
「……悠」
ユキの寝顔を見ていると、いなくなった人間のことを思い出してしまう。
……海老原悠、私の恩人だ。
彼女はもうこの世にいない。少なくとも私の中ではそうなっていた。
「やっぱりこの顔を見ちゃうと、思い出しちゃうなぁ。思い出したくなんてないのに」
わかっている。悠とユキは別人だ。それでも、私はユキの先に悠の面影を求めてしまう。
「話し方とか、全然似てないのに」
自分に言い聞かせるように、わざとらしく独り言を呟いた。
少し考えた後、私は上着を脱ぎユキに被せた。彼女が風邪をひくことなんてないとわかっているはずなのに。
「……なにやってんだろ、私」
……夜風が身に染みた。
バッグから、今では貴重になってしまったタバコを一本取り出した。それを咥え、マッチで火を点ける。
ユキの前で吸ったことはなかったが、今日はなんだかひどく気分が悪かった。悠のことを思い出してしまったせいだろうか。
タバコを咥えたまま仰向けになり、星空を眺める。そして無心になり、ただ有害物質を身体に取り込むことだけを意識する。
こんな世界で一々健康のことを気にしている暇なんてない。それに肺を煙で満たしている間だけは思考が鈍り、余計なことを考えなくて済む。朝を迎えれば、またいつもの世界で、いつもの仕事が待っている。
だからせめて、この時間だけは何も考えたくない。
悠のことも、そしてユキのことも。何も考えたくない。
目を閉じ、夢の世界へ落ちる。夢は現実より残酷だ。どんなに嫌でも、現実を突きつけてくるのだから。
……人を撃った日は、いつもあの頃のことを夢で見る。
★
二十六年前。世界では第一次パンデミックと呼ばれることになる、大規模な感染騒動が起こっていた。
感染した人間は発症から早くて数時間、長くても数日で死に至る。
そして死んだはずの肉体は再び動き始める。しかし、それは感染者が蘇るというわけではない。
自我を持たない肉塊が人間を襲い、それに噛まれれば新たな感染者となる。
まるでB級ゾンビ映画から飛び出してきたような奇病が、日本からそう遠くないとある国で最初に見つかった。
各国が対応に追われたが間に合わず、結果各地に広がり感染者は爆発的に増えた。それ以降、人類の活動領域は著しく制限されてしまった。
誰が最初にそう呼んだかはわからない。
だが今では感染によって死亡した後も動き続ける肉塊のことを、リビングデッドと呼ぶようになっていた。
そんな世界に私は産まれ落ちた。
昔はそれを恨むこともあった。何故ウイルスが広がったのか疑問に思うこともあった。
ただ今はどんなに過去のことを考えても、結局のところ結果論でしかないのだ。そうやって心の中ですべてを諦めていた。
それに私にとってパンデミックは悪いことばかりではない。パンデミックのおかげで、私は悠に出会えたのだから……。
私の母親は屍人だった。本来妊婦が感染した場合、胎児は母親と一緒に死ぬか、運よく産まれても母体と同じく屍人になるかのどちらかしかなかった。
しかし私は何故か人間のまま、屍人になった母の身体から取り出された。もちろん赤ん坊だったので覚えていないが、当時はネットニュースなどでかなり話題になったそうだ。
……奇跡の子。人類の希望。世間は私のことをもてはやしたが、物心がつく頃には周囲の人間たちは皆手のひらを返し、私を腫れ物扱いしていた。
屍人から産まれた人間など不気味で仕方がない。私は施設から追い出され、新しい施設へ。
そんな生活を第一次パンデミックが収束してからも送り続け、気づけば十歳になっていた。
最終的に、私はとある研究者の家にたどり着いた。
海老原大祐、パンデミック初期から研究に携わっていた人物だ。屍人の母体から産まれた私のことを研究の協力者、と言うと聞こえはいいが要するにモルモットとして引き取りたいと申し出た。
……そして、彼の娘が悠だった。
「新田…夏希です。……お世話になります」
「海老原悠、大学でお父さんの手伝いしてるんだぁ。よろしくね、夏希ちゃん」
私はその光景に違和感を覚えた。
今まで会ってきた大人たちは、私を見て露骨に嫌そうな表情をするか、その感情を押し殺して仮面を貼り付けたような、人工的な笑みしかしなかった。しかし、彼女は純粋な笑顔で私を迎え入れてくれた。
当然だが、これからの生活への不安はあった。それでもこの時既に、私は悠に一目惚れのようなものをしていたのかもしれない。
★
目を開けると、ユキがこちらを心配そうに覗き込んでいた。あの夢を見た後に彼女の顔を見ると、心臓を直接掴まれたかのように息ができなくなる。
「あのさ。手、邪魔なんだけど」
ユキに右手を握られていることに気づき、急に顔が熱くなってくる。しかしそれとは真逆に、彼女の手は冷え切っていた。
私はできるだけ冷たく聞こえるように言いながら、手を振りほどき、起き上がった。
「……ナツ、うなされてたから」
「別になんでもない。それより、さっさと準備して出発するよ」
バッグを背負う。ユキは何か言いたげな様子でこちらを見ているが、私はそれを無視した。
……私はユキのことが嫌いだ。
お前が悠と同じ顔をしているのが嫌いだ。
お前が悠と同じ声をしているのが嫌いだ。
お前が悠と同じ身体をしているのが嫌いだ。
あの時悠が死なず、お前が生まれていなければ……。
そして、ユキを嫌うことが悠を嫌うのと同じであることを理解しなら、それをやめることのできない自分のことが、一番嫌いだった。