上司(女性)が私の椅子に頬擦りしてた
【登場人物】
牧山汐里:会社に入って一年のOL。仕事に真面目で、係長のことを信頼している。
見城明日実:29歳、係長。物腰穏やかで優しい。面倒見がよく上司からも部下からも慕われている。
今の会社に入社してそろそろ一年が経とうとしている。
新卒で社会人として未熟だった私を見城係長は丁寧に指導してくれた。言葉遣いに始まりビジネスマナー、電話応対の仕方からパソコンの使い方まで。ある程度は出来ていると思っていたことでも勘違いや不十分なことが多々あり、それを見つけるたびに見城係長が『それはね』と優しく正してくれる。決して怒るようなことはせず穏やかに微笑みながら何が間違っているか、どうすれば直るかを分かりやすく教えてくれる。もちろん厳しい上司に怒られたりすることもあるけど、そういうとき見城係長は後で私のデスクにこっそりとチョコを持ってきて慰めてくれた。
見城係長は言わば会社のオアシスだ。この人がいるから仕事を頑張れたし、私もうまく出来るように頑張ろうと思えた。
――その見城係長が、私の椅子の座布団に頬擦りしてた。
最初は不審者かと思った。
今日は金曜の夜。たいていの人は終業後すぐ帰宅したり同僚と飲みに行ったりする。晩ごはんを一緒に食べようと私が同期の女性社員たちと出るときにはすでにオフィスは閑散としていた。
スマホを忘れたのに気付いたのはお店に着いて注文を済ませてからだった。私はすぐに会社に戻った。鍵が閉まってたら警備の人に開けてもらわなきゃと考えていたが、運が良いことに明かりがまだ点いていた。
(誰か残ってたんだ。残業かな)
邪魔をしては申し訳ないと思い、そろそろと自分のデスクに向かった。そうしたら遠目に私の椅子の背もたれが小さく揺れているのに気が付いた。
(地震?)
しかし他の椅子はまったく揺れていない。不思議に思いながら近づき、足を止める。
誰かがいる。
その誰かはどうやら私の椅子の前にしゃがんでいるようだ。
(警備員呼ぶ……?)
一瞬迷ったが、格好が女性のスーツだったのでとりあえず知っている人なのかどうかだけでも確かめることにした。見覚えのない人だったらダッシュで逃げて警備員室に駆け込もう。
足音を立てないようにパンプスを脱ぎ、そぉっと近づいていく。
「……はぁ……」
ゆっくりと息を吐く声が聞こえてきた。呻いていたなら体調不良の人がうずくまっているだけとも考えられたが、普通に意識はあるようだ。
すぐ近くまで来て、何をしているのかが分かった。
(座るとこに上半身を乗せてる?)
その女性は椅子の前に屈み、敷いている座布団の上にもたれるように腕や頭を乗せていた。
だが肝心の顔が反対の方向を向いていてこちらからでは見えない。ちょっとずつすり足で更に近づき、真上から覗き込もうと首を伸ばしたとき。
「牧山さん……」
呟きとともに女性の頭が小刻みに揺れた。まるで座布団に頬擦りするかのように。
「え」
聞き覚えのある声に思わず反応してしまった。口を押さえてももう遅い。
目の前の女性が椅子を弾き飛ばしそうな勢いで跳び起きた。椅子から離れ、両手を後ろに持っていき、私の方を見て、固まる。
…………。
オフィスがしんと静まり返り、私は恐る恐る尋ねてみた。
「あの、見城係長、何をされてたんですか?」
「……えぇっと、これはその……」
「私の座席に何かあったんですか?」
「え、えぇ、まぁ……」
見城係長は気まずい笑顔を浮かべてミディアムの茶髪を撫でつけていたが、不意に両手を合わせて声をあげた。
「じ、実はね! 最近座ってるとお尻とか腰が痛くなってくることが多くて、それで他の人がどんな座布団を使ってるのか気になって調べてたところなのよ! ちょうど牧山さんの座布団を調べてるときに見られちゃったみたいね、ごめんなさい。あぁ、牧山さんの座布団って低反発のでしょう? 座り心地はいい?」
「え、はい、普通くらいです」
「いいわよね低反発。あの沈んでいく感じ好きなの。高反発も高反発で腰痛に良かったりするし、最近だとその中間の等反発なんていうのもあったり、あとジェル素材のやつもウレタンとは違う独特な感じがしてすごいのよ。形だって通常の四角形や円形の他に、ドーナツ形やU字形、ウェーブ形なんかも色々あって、自分に合う座布団を探すだけでも一苦労。本当に座布団って奥が深いわよねぇ」
「はぁ……」
何故だかめちゃくちゃ座布団について語られてしまった。まさか本当にみんなの座布団を確かめていたのだろうか。だとしたら普通は座って確かめるはずだ。やっぱり他に理由があるんじゃ……。
「牧山さんはどうしたの? 忘れ物?」
「あ、そうです。スマホを忘れてしまって」
「あら、それは大変。土日にスマホがないと困るものね。はいどうぞ――さぁて、私もそろそろ帰ろうかしら」
椅子を定位置に戻し、見城係長が腕を伸ばしながら自分のデスクに戻っていった。
「…………」
まずはずっと手に持ったままだったパンプスを履き、引き出しの中に入れていたスマホを回収した。そして座布団に視線を落とす。
紺色の四角形の座布団。あった方がいいよと言われ、入社したてのときにとりあえず低反発のやつを買ったんだ。なんだかんだで一年くらいお世話になり、愛着も湧いている。
(そういえばその助言をくれたのも見城係長だったっけ)
なのに今更私の座布団がどういうものかを確かめるなんてどう考えてもおかしい。考えられるのは……。
(何か細工をしようとしてた? 例えば座布団を違うものに取り替えたり、座布団の下に何かを入れたり)
座布団をそっと持ち上げてみるが何も無かった。カバーのくたびれ具合から取り替えられた様子もない。
(いや、中身に細工をしてる可能性もある。それこそ、座った瞬間に針が刺さるような――まさか、見城係長がそんなことするわけが……)
手のひらでゆっくり座布団を押し潰してみたが、異物は感じられなかった。小さくほっと息を吐く。
(ほらやっぱり。それじゃ見城係長は何を――)
「スマホはあった?」
見城係長がデスクから声を掛けてきた。座布団を戻しつつ答える。
「はい、ありました」
「そう。じゃあもう鍵を閉めても大丈夫ね」
見城係長がカバンを持って立ち上がる。
「牧山さんはこれからすぐ家に帰るの?」
「いえ、このあとみんなとご飯を食べるんです。というか、注文した後にスマホがないのに気付いて急いで取りにきたんです」
「そうだったの? じゃあ早くみんなのところに戻らないと」
「あ、そうですね」
なんとなくオフィスから早く追い出そうとしているように感じるのは気のせいだろうか。
結局何をやっていたかは分からずじまいだし、どの答えも推測の域を出ていないが、見城係長が私の座席に頭を乗せていたのは紛れも無い事実だ。そこに何らかの意図が介入しているのは間違いない。そしてそういう場合――例に上げるなら学校でクラスメイトの子が私の席や靴箱回りでうろちょろしているときなど――たいてい良くないことが起こる前触れだったりするのだ。中学生の頃、同級生の女子が私の上靴に落ち葉を入れているのを見た記憶が蘇り、暗鬱とした気持ちが湧いてきた。
(私、もしかして見城係長に嫌われてる……?)
先にオフィスを出た私は階段の踊り場の壁に隠れ、後から出てきた見城係長が施錠するのを確認してから階段を降りた。
考え過ぎだろうか。でも考えていた通りだったらどうしよう。
お店に戻り同僚たちとご飯を食べながら楽しく話している間も、その不安が消えることは無かった。
◆
……死にたい。
まさか牧山さんに目撃されるなんて。
全部仕事が悪いのです。
やりたくもない残業で金曜の夜に一人だけ会社に残る辛さが分かるでしょうか? 話し声のしない静かなオフィスの空気は冷たく、私の心を寂れた荒れ地へと変えてしまう。とくにここ最近は残業が多かったせいで余計に憂鬱になっていた。
だから、お手洗いから戻ったときに好きな子の椅子に少しばかり触ってしまうのも全然おかしなことじゃない。あぁこの座布団の上にいつも座ってるんだ、これって間接的にお尻に触ってることになるのかな、だったら頬擦りしちゃおーうふふ、となるのも仕方のないこと。
気の迷い。油断。悪魔の囁き。言い訳は色々あるが、どうあがいても私のやったことが消えることはない。
私は、牧山さんのことが好きだ。
元々年下の女の子が好きだった。大学のときに付き合っていた子もサークルの後輩だったし、会社に入ってからも新人の女の子ばっかりに目がいってしまう。
しかし社会人になってから恋愛をしたことはなかった。見た目がいいなと思っても性格がちょっと合わなそうだったり彼氏がいたりしてどうにもそこまで感情が高ぶらないのだ。
牧山さんは私にとって理想の女の子だった。
見た目が可愛い。性格が素直で良い。背が私より低い。現在交際相手なし。個人的に背が低いというのがかなりポイントで、業務中彼女のボブカットの黒髪に何度手を乗せてしまいそうになったか分からないくらいだ。顔は菩薩の笑顔、心は般若の形相で日々欲望と戦っている。
良き上司として信頼を勝ち取り、少しずつ距離を詰めていつかは牧山さんと恋人に、なんて安易に考えられるほど楽観視はしていない。告白をするにしても立場や性別のリスクが高すぎる。万全の状態、確固たる関係を築いてから気持ちを伝えなければ。
「って思ってたのに――」
会社から家に戻り、シャワーを浴びたあと私はベッドの上で身悶えていた。
台無しだ。
この一年間で得た牧山さんの信用だけじゃない、他の人にバラされれば会社での地位や友人までも失うことになってしまう。
後悔しても仕方がない。もう終わってしまったことだ。
不幸中の幸いなのは本人に見られたことだろうか。第三者に面白おかしく広められるよりは幾分かマシだ。本当に幾分だが。
「めちゃめちゃ座布団気にしてたなぁ……そりゃそうよね……」
胃のあたりに重いものを抱えたまま土日を過ごし、週が明けた月曜日。死ぬほど出社したくなかったが金曜の夜に終わらせられなかった仕事があったので(牧山さんに見られてそれどころじゃなくなった為)、早めに出勤することにした。
会社で作業をしていると続々と他の人達がやってくる。上司、先輩、同期、部下……彼ら彼女らはいつもどおり私に挨拶をしてくれた。何事もなかったかのように。
(もしかして牧山さん、言ってない?)
内心いつ肩を叩かれて呼ばれるかビクビクしていたが、少しだけ安心した。牧山さんが今日報告する可能性もあるのでまだ何とも言えないが。
「おはようございます、見城係長」
出勤してきた牧山さんが私に挨拶をしてきた。一瞬言葉に詰まりそうになりながら、笑顔で挨拶を返す。
「っ、おはよう、牧山さん」
会話はそれだけ。自分のデスクに戻り同僚たちと挨拶をする牧山さんをこっそり見つめる。
(……普段どおり? いや違う。今座る前に座布団チェックした。やっぱりあのときのことまだ気にして――あっ!!)
目が合ったかもしれない。すぐに下を向いたので分からないがもう一度見るのは怖い。
(いや怖がってる場合じゃない)
さっきから私は何を気にしているのか。会社から勧告されることよりも、世間体よりも、一番大事なことがあるだろう。
(牧山さんにちゃんと謝らないと)
たとえ嫌われていても人としての筋だけは通したい。それがせめてもの誠意だと思うから。
◆
見城係長に挨拶をしてみたけど、その態度はどこかぎこちなかった。しかも私が座布団を調べているところもしっかり見ていたし、こちらの行動は監視されていると思っていいだろう。
(ずっと考えてたけど私が嫌われる原因は思い当たらなかった。もしかしたらこれまで優しく指導してくれてた裏で『こいつダメダメだな』みたいに思われてたのかもしれない。どうすれば見城係長に認められるんだろう……)
そんな折、見城係長からラインでメッセージが送られてきた。
『お昼休みに時間もらえませんか?』
どうやらまどろっこしい手段はやめて直接くるらしい。こうなったら私も何が悪かったのかを直接聞くしかない。
昼食後に会う約束を取り付け、午前中の仕事をしながらどんなことを話そうかを頭のなかで考えた。
そしてお昼休み。同僚と食事をした後にビルの屋上へと向かう。屋上で休憩している人達もまばらにいたが見城係長は周りに人のいない端の方で私を待っていた。
「お待たせしました」
私が声を掛けると見城係長が振り向いた。
「わざわざ来てもらってごめんね」
「あ、いえ……」
唐突に見城係長が頭を深々と下げた。
「あなたに嫌な思いをさせてしまって本当にごめんなさい。謝って済むことではないけど、それでも心の底から謝罪をさせて欲しいの」
(え?)
どんな罵詈雑言を浴びせられるかと思っていた私はぽかんとしてしまった。文脈からこの前のことなのは分かるが謝られる理由が分からない。一応確認だけはしておこう。
「……金曜の件ですよね?」
「えぇ。い、いつもあんなことをしてるわけじゃないの。あの日はたまたまその、色々抱え込んでて、一時の気の迷いみたいなもので……」
分かった。これは忠告だ。気の迷いであることを強調して『危害を加えるつもりはなかった』ということを私に認めさせ、ヘタに騒いで大事になったら困るのはそっちの方だぞと言っているのだろう。だから『ごめんなさい』なんて頭を下げて、他の人から見ればあたかも見城係長が謝っているかのように演出した。
でもそんな言葉で金曜のことを無かったことには出来ない。
「……心配しなくても誰にも言ったりしません。そもそも私に至らない部分があるのが原因ですから。見城係長がご立腹なさるのも当然かもしれませんが、ちゃんと言ってください! 私、直しますから!」
見城係長の目をまっすぐ見つめ、私は精一杯の誠意を込めた。
◆
(至らない部分? 私が立腹してる? え、牧山さん何を言ってるの?)
意味が分からない。至らないのはどちらかと言えば私の自制心だし、立腹するのは牧山さんの方が正しい。
誰にも言わないというのも気になる。黙っておくメリットは牧山さんには無いはずだ。さっさと上の人間に報告して私をどこかへ飛ばした方が絶対いい。
(――いや、黙っておくメリットが一つだけあった。ゆすりだ。『黙っておいてやるから言うことを聞きな』という意味なのだとすれば説明はつく。ここが人目につく場所だからこそ、あえて言葉を言い換えていたのね。つまりさっきの言葉は『見城係長の至らなさで私は大変怒っています。これから欲しいものを言うから渡しなさい』ということ。私にそれを非難する資格はない。それで気が済むと言うなら甘んじて罰を受けよう。……牧山さんに命令されるっていうのもそれはそれでアリかもしれないし)
私は小さく咳払いをして声を潜めた。
「……何が欲しいの?」
◆
(欲しい? 見城係長は何を言ってるんだろう。――はっ、もしかして口止め料のこと? そんなのいらないのに。つまりそれだけ私に信用がないんだ)
尊敬し、慕っていた人から向けられる敵意ほどつらいものはない。
弱気になりそうな自分を奮い立たせて背筋を伸ばした。きっとこういうネガティブなところも嫌いに違いない。
ならば、今私が欲しいものは。
「見城係長の信頼が欲しいです」
それは信頼を得るために努力を惜しまないという私の決意でもあった。
◆
(信頼? ここにきてプライスレスな要望!? 正直二桁万円くらいの物だったらすぐ買ってあげるつもりだったんだけど……いや違う。これは『見城係長が誰からも信頼されるような人間になれ』つまり『信頼を回復してみろ』と言っているのね。どうやって回復させるかは私に任せる、と。魚心あれば水心あり。直接金品を要求するのは違法でも、私が勝手に贈る分には問題ないものね)
となれば決まりだ。プレゼントや態度で誠意を示し、信頼を勝ち取っていくしかない。
「わかったわ、牧山さん」
「……え?」
「あなたの期待に必ず応えてみせるから」
「あの……」
自信を表すようにしっかりと頷き、私は屋上を後にした。早くデスクに戻って牧山さんに贈るものを調べないと。この一年間彼女と接してきて食べ物の好みくらいは分かっている。そこから反応を見ながら徐々に高価なものを贈っていこう。
たとえこれで散々貢がされたあげくに捨てられたとしても構わない。牧山さんがわずかでも喜んでくれるなら満足だ。
◆
見城係長の行動が不可解すぎる。
屋上で話した翌日に高級そうなチョコの詰め合わせを持ってきたかと思えば、毎日のように何かしらのお菓子を渡してくるようになった。しかも私がひとりでいるときを見計らってこっそりと。
最初は何か薬でも入ってるのかと警戒したが、包装に違和感はなく試しに食べてみても平気だったので、市販のを買ってそのまま渡しているのだろう。
見城係長の信頼が欲しいと言ったのが何故こうなったのか分からない。私に美味しいものをくれることにどういった意図があるのか。
(――まさか)
天啓のような閃きとともに背筋に悪寒が走る。
(海外なんかでは死刑囚が刑を執行される前日に自分の好きな食べ物を用意されるとか聞いたことがある。それでなくとも最後の晩餐というのは豪華なものが定番だ。つまり、これは見城係長による死刑宣告。会社から私を追い出す段取りがついたから最後に恩情を掛けてるんだ)
いつ解雇予告がきてもおかしくない。そう考えると言いようのない焦燥感に襲われた。
自分の能力が足らずに辞めさせられるのは仕方ないが、だからって失望されたままでは終わりたくない。
私は全力を以て仕事に取り組んだ。受け答えや返事は元気よくはっきりと、少しでも手が空いたら他の人の仕事を手伝い、自分に何か不備がないかを常に気に掛ける。
見城係長が理由を教えてくれないのなら、こうやって勤務態度を見せることで私が変わったことをアピールするしかない。
◆
最近牧山さんがすごく仕事を頑張っている。それはすごくいいことなんだけど、もしかしてという不安が頭をよぎった。
(係長の後釜を狙ってる?)
入社して一年だと難しいだろうが、そういう姿勢を見せることは大事だ。これから先この会社で長くやっていくつもりなら、早いうちからアピールすることは全然悪いことではない。
(むしろ私を踏み台にしてキャリアアップしてくれるのならそれでいい)
あとは体調にだけ気をつけてくれれば。
すでに私の心情は脅迫される立場というより、牧山さんに尽くす信者のそれになっていた。
一度は破滅を覚悟した身、好きな子のために使って消えられるのなら本望。
ある日の業務中、トイレで手を洗っていると牧山さんが個室から出てきた。私の隣にやってきたところで鏡越しに目が合う。
「…………」
「…………」
蛇口から水が流れ落ちる音が寂しく響く。気まずさに耐え切れず、私はハンカチで手を拭きながら世間話風に尋ねた。
「お菓子は口に合った?」
牧山さんは私の方を見ずに手を洗っている。
「……まぁ、はい」
(全然気に入ってくれてないー!?)
想定外だった。甘いものはお酒が入ってなければだいたい好きだと前に聞いたことがあったから有名洋菓子屋を巡ったりお取り寄せしたりしてたというのに。
こうなったらもう仕方ない。聞くのは反則かもしれないが……。
「り、リクエストとか、ある?」
「……特には」
(あぁっ、これ完全にまだ怒ってる!!)
どうしようどうしようと脳内でパニックを起こし、けれどここで見るからに慌ててしまえば更に軽蔑されてしまう。テンパった頭で必死に考えて出した結論は。
「牧山さん!」
「は、はい」
「今度の日曜日一緒に出掛けない?」
たとえ強引な手段を用いても牧山さんに尽くすことだった。
◆
東京都中央区銀座。言わずと知れた日本でも有名な商業地区であり、その名前は高級の代名詞としてブランド化しているほどだ。中央通りを歩くだけで世界的に有名なブランドショップがそこかしこに建ち並んでいる。
お昼を過ぎた現在、天気がいいこともあってか日本人外国人問わず大勢の人達が歩行者天国となった道路の上を行き来している。
見城係長に誘われるままに銀座に来たはいいものの、私の心中は穏やかではなかった。
何故なら見城係長とここで合流をした途端『好きなお店で好きなだけ欲しいもの買ってあげる』と言われたからだ。
(――あ、もうこれで最後なんだ)
私は悟った。今日のこれが私に対する餞別なのだと。
買い物をする気分でもなくなったので丁重に断って帰ろうとしたのだが、見城係長は私の腕を引っ張って強引に連れ出した。
バッグや時計、宝飾品などの有名店を回りながら二桁万円するようなものを平気な顔で「これなんてどう?」と聞いてくる。
当然私は拒否した。今日が最後だからといってこんな高いものをねだるようなことはプライドが許さない。私は哀れんで欲しいんじゃない。認めて欲しいんだ。
歩く足が重い。見城係長と二人で出掛けるのなんて初めてだったから、ちょっとだけ嬉しく思っていた自分がバカらしい。
(帰ろ)
ふと我に返り立ち止まった。見城係長が気付き私の顔を窺う。
「牧山さん?」
「帰ります」
踵を返した私の腕を見城係長が掴んだ。
「え、待って!」
「帰らせてください」
「急になんで――」
「もういいんです」
「なんのこと?」
「いいからもう離してください!」
見城係長が逃がすまいと結構な強さで掴んでいたので、思いっきり腕を手前に引いた。
(あ)
何も考えずに引いたからだろう。見城係長の手が離れたとたんその反動で前側にバランスを崩し――こけた。
両手をアスファルトについたので大事には至ってないが、接触した手のひらと膝が痛い。
「――うぅ」
自然と涙が目から溢れた。ころんだことだけじゃない。今日のことも、見城係長に嫌われていることも全部含めて。自分が本当に情けなくてしょうがない。
私のそばに見城係長が屈み、「大丈夫?」と声を掛けてくれるが応えられない。
歩行者やパラソル付きのテーブルで休んでいる人達が何事かと視線を向けてくるのを感じたが、それでも私の涙は止まらなかった。
やがてもう一つすすり泣く声が聞こえてきた。見ると見城係長も目を指で押さえて泣いていた。
「……なんで、見城係長が泣くんですか」
「――だって」
今まで一度も聞いたことのない弱々しい声で見城係長が答える。
「そこまで牧山さんが私のこと嫌いになったんだと思うとつらくて……ごめんなさい。私なんかと一緒に来たくなかったよね?」
「……見城係長の方こそ、辞めさせる相手と買い物なんて本当は来たくなかったですよね?」
「せめて私が辞めさせられる前に好きな物を買ってあげたかったの……」
「私への餞別のつもりか知りませんけど、そんなの欲しくないです……」
…………。
会話が噛み合っていないことに気付いた。見城係長も違和感を覚えたのか潤んだ瞳で私をいぶかしげに見つめている。
「牧山さんが誰に辞めさせられるの?」
「見城係長こそ」
◆
人の目が気になったので横の路地に移動し、建物に背を預けて牧山さんと肩を並べる。牧山さんの足の擦り傷は大したことはなく血がちょっと滲んだだけだった。
「……だいたいの事情は分かりました」
あれから私と牧山さんはそれぞれが把握しているであろう現状についての意見を交換し合った。つまり当然、私が金曜の夜に何をしていたのかを正直に打ち明けなければならなかったということでもある。
涙もすっかり乾いた牧山さんが大きく息を吐いた。その仕草は少しだけ照れくさそうに見える。
「まぁ、見城係長が私のことを嫌ってなくて良かったです」
「私が牧山さんのことを嫌うわけないじゃない」
「……それはそれとして」
牧山さんが鋭い目線を私に向ける。
「なんで私の座布団に頬擦りしてたんですか?」
「…………」
動機は省いて話したのだが、どうやらそこを見逃してくれるつもりはないらしい。
「な・ん・で・で・す・か?」
「えーとほら、ちょうど牧山さんの座布団からマイナスイオン的なやつを感じたから――」
「あのときも適当なこと言って誤魔化そうとしてましたよね?」
ずい、と顔を近づけられてドキっとする。そんな状況じゃないと分かっていても牧山さんを近くで見られるのは嬉しい。たとえ今から最低最悪な形で告白することになってしまうとしても。
「……座布団に頬擦りしたくなるくらい、牧山さんのことが好きだから」
「――――」
牧山さんは一瞬驚いた顔をして、口元を押さえて頬を赤らめ、そして眉根に皺を寄せた。
「いい大人が何をしてるんですか」
ガチ説教だった。
「好きな女の子のリコーダーにあれこれしたり、体操服の匂いを嗅いだりっていうのは確かに聞いたことがあります。でもそれは小学生くらいの子供に限った話でしょう? いやホントは小学生だろうと幼稚園児だろうと人様の物を好き勝手するのはいけないことですし、実際そんなことされてたら気持ち悪いんですけど――まさか係長にもなろうかという社会人が誰もいない会社でそんなことするなんて、恥を知ってください」
ぐさぐさと見えない刃物が私の心を抉る。
「で、でも、いまどき立派な立場の人が女性関係での不祥事起こすのも珍しくないし……」
「そういう一部の人達を例にしないでください! 捕まりたいんですか?」
ぶんぶんと首を横に振る。そこまでいくのは本当に困る。まぁ牧山さんが訴えたりしない限りは大丈夫だと分かっているが。
牧山さんがジト目を向けてくる。
「反省してます?」
「し、してますしてます!」
「二度と私の私物に無断で触ったりしません?」
「絶対しません!」
「疲れが溜まって残業がつらいときは、私に手伝わせてくれますか?」
「はい、手伝ってもらい……え、いいの?」
牧山さんは気恥ずかしいのか少しだけ唇を尖らせて早口で答える。
「これまで散々お世話になってきたんですからそのくらい当たり前です」
「でも私、あなたのこと――」
上司、それも同性から好きだと言われてもなお一緒に仕事をしてくれるというのか。問いただそうとして口をつぐんだ。牧山さんの澄んだ瞳からは邪まなものを一切感じない。私の行動に呆れたのはその通りだろうけど、同時に心配もしてくれている。だったらわざわざ確かめる必要はない。私は、真面目で頑張り屋で私のことを慕ってくれている彼女を信頼しているのだから。
私はもたれていた壁から背中を離し、軽く腕を伸ばした。
「んー……じゃあお互いのわだかまりも無くなったということで、もう一回お店見てまわらない?」
「いいですよ。あ、でもその前にお化粧だけ直させてください」
「そうね。私も直さなきゃ」
二人でくすりと笑ってから路地を出た。幸い近くに百貨店がある。そこのお手洗いで化粧直しをしよう。
先程歩いていたときは息苦しさを感じていたが今は気分が晴れやかだ。こんなことなら性別がとか立場がとか考えず、普通に想いを伝えればよかった。本当に後悔は先に立ってくれない。
「あとで牧山さんが好きなブランドとか、どういう小物をいつも使ってるか教えてくれる?」
「はい、分かりました」
「プレゼントを持って、改めてちゃんと告白させてもらうから」
だからもう後悔をしないようにやりたいと思ったことをしよう。大丈夫。座布団に頬擦りをしているところを見られる以上に好感度が下がることはない。
「……はい」
控えめに頷いた牧山さんはやっぱり可愛くて、私は抱き締めたくなる衝動を必死に抑えた。
やりたいこととやってはいけないことの分別はつけないとね。
◆
私と見城係長が交際を始めて一週間くらいだろうか。
「牧山さん、ここ、ここにおいで」
仕事終わりに見城係長の家に行ったとき、ソファーに座った見城係長が自らの太ももを指さした。
「……そこに乗れってことですか?」
「そうそう。イヤ?」
「まぁ、イヤじゃないですけど」
ちょこんと見城係長の膝の上に腰を降ろす。すると後ろからそっと腕が回ってきた。背中の密着感。耳元に至福の声が聞こえてくる。
「あぁ~癒される~」
「今日もお疲れ様でした」
腕を優しく撫でてあげる。
「ありがと~」
「どういたしまして」
「……私気付いたの」
「何がですか?」
「好きな子の座布団に頬擦りするんじゃなくて、私自身が好きな子の座布団になればいいんだって」
「――さて、そろそろ帰ろっかな」
「待って!」
見城係長が立ち上がろうとした私をぎゅっと抱き締めて止めた。元より本気で帰ろうとは思ってない。ちょっと意地悪をしただけだ。
「まぁ私としても、座布団を勝手に弄ばれるよりこうやって直接触ってくれる方が嬉しいです」
「でしょう? ここなら頬擦りだってし放題」
私のうなじに頬をこすりつけてくる見城係長に非難の目を向ける。
「なんというか、そうやって言われると私の価値がすごく安く聞こえるんですけど」
「あわわわ、そ、そういう意味じゃないの!」
慌てる見城係長が可愛くて、険しくした眉間を緩める。
「分かってますよ。好きなだけ頬擦りしてください」
「やったぁ!」
頬擦りを再開する見城係長。頬擦りと言いながら私の頭を撫でたり首元にキスをしたりと本当に好き放題している。
でも私はそれを止めたりしない。見城係長が私で癒されているように、私もまた見城係長との触れ合いで癒されているから。
こんなこと言うとまた調子に乗っちゃいそうだから教えてあげないけど。
(ま、そのうちね)
私はひっそりと笑いを噛み締めてから、座布団希望者さんにもたれかかりその頬を優しく撫でた。
終
冒頭の椅子のシーンが頭に浮かんできた結果、このような感じになりました。
会話がヒートアップすればするほど心情描写が切り替わるので読みづらかったらすみません。
仕事は出来ても恋愛になると途端にポンコツになったりデレデレになったりするのが多いのは、そういうギャップが好きだからなんだろうなぁと自分で思いました。
注)作中の世界はコロナが流行していない世界です。じゃないとデートすら行きづらいので……。