不思議な森
日が落ち始めた頃、美都と慶一郎、神社の者数名は舞に用いる木の枝を取りに行くため、神社の裏山を登っていた。
美都は桜の刺繍が施された美しい布を一枚抱えている。
「千景のことは気にするな。お前の頑張りはちゃんとわかっているから」
慶一郎は少し後ろを歩いている娘に他の人たちに聞こえないくらいの小さな声で言った。
「うん......」
父はいつも美都に優しい。
しかし、美都はこの優しさが少し不自然であるように感じていた。
なんだか無理をしているようで。
そしてこの父の優しさも美都にとっては苦痛であった。
「今年はきっとうまくいくさ」
父は娘を励まそうと優しい言葉をかけた。
「あ、うん......ありがとう......」
しかし、そんな父の言葉は娘の心に傷をつけてしまったようだ。
美都はそんな傷を父に見せないようにと無理やり笑って見せた。
しかし、そんな娘の笑顔が嘘であることに父は気がついた。
自分が傷つけてしまったのだと。
「ああ......」
そうして二人の会話は途切れた。
いや、二人はあえて言葉を交すのをやめたのだ。
お互いが傷つけないために。
傷つかないために。
そして言葉を発する者はいなくなった。
足音と鳥や虫の声だけが聞こえる、そんな静かな時間がしばらくの間続いた。
気がつくと日は沈み西の空が少し赤く染まっているだけで、暗い夜空に東から月が登り始めていた。
美都は転ばないように足元を灯りで照らしながら慎重に歩いていた。
辺りが暗くなっていくというのに道はさらに険しさを増していく。
足音や鳥や虫の鳴き声に苦しそうな息切れの音が聞こえ始めた時だった。
「着いたぞ」
と先頭を歩いていた父は立ち止まった。
その声で後に続いていた美都たちも足を止める。
そしてなぜか全員が手に持っていた灯りを消した。
しかし辺りが暗くなるどころか、さらに明るくなった。
空を見上げると大きな月が美都たちを照らしていた。
辺りには葉も花も持たない木々が並び、月の光に照らされ白銀に輝いていた。
月の光を遮る葉を持たない木々が並んでいるこの森は月が出ている日は夜も明るい。
この森は昔から「桜の森」と呼ばれ、神聖な場所とされてきた。
桜はどこにも咲いていないというのに。
この森は神社の者以外、立ち入ることは許されていない。
そんな森の中を美都たちはある場所を目指して進んでいた。
すると木々がなくなり、目の前に大きな木が現れた。
他の木々とは比べものにならないほど大きく立派な木。
樹齢三千年をも超え長い間この森を、山をそして神社を見守っている。
その巨木は下から見上げると、まるで空に届いているかのように見える。
全員で巨木に近づき、根元にある小さな祠の前で手を合わた。
そして美都が美しい布を持ち、全員の前に出ると
「今年も桜の季節がやってまいりました。桜の舞に用いる神聖な枝を一本、私たちにお授けください」
と唱えた。
すると美都の足元に物差しほどの長さの枝が落ちてきた。
美都はそっと両手で枝を持ち上げる。
「ありがとうございます。頂戴いたします」
枝を高く掲げて深く頭を下げる。
「桜の舞を山神様へ捧げます」
そう言ってゆっくりと頭を上げ、持ってきた布に枝をくるみ、優しく抱きかかえる。
そして全員でもう一度お辞儀をして終わりだ。
「美都、母さんも心配してるだろう。だから早く家に帰ろう」
と父はそう言って優しく微笑む。
「はい」
しかし美都はそんな父の笑顔に応えることなく、無表情のままそう返事をした。
父の笑顔は少し寂しそうな笑顔へと変わった。
そんな父の顔を見るのは胸が痛んだ。
しかし、この時の美都にはどんな顔をしたらいいのかわからなかったのだ。
「行こうか」
父はゆっくりと元来た道を歩き始めた。
他の人たちも父の後へと続いた。
そう美都も後に続いて歩き始めようとした時だった。
先ほどの巨木の方から視線を感じた。
振り返ってみる。
しかしそこには誰もいない。
「気のせい......かな」
少し視線が気にはなったが、みんなの姿が見えなくなる前に戻らなければ、と思い美都はその場所を後にした。
「変な女だ」
全員の姿が見えなくなるとそう誰かが呟いた。