帝都に向けて
テレジアが微睡から目覚めると、時計の針は作戦開始の2時間前を示していた。
作戦の始まり、そして邂逅の始まりである。
テレジアは身を起こして、ベッドから降り立ち洗面台へと真っすぐに向かう。
鏡に映るその姿を、暫し暗い青色の瞳で見つめてから、蛇口をひねり水を出す。
手で掬い顔を洗えば、初冬の冷たい水はすぐさま意識を覚醒へと導く。
歯を磨きながら洗面台の脇にある小さな窓から外を見ると、灯る明かりも少ない王都の夜が、不穏な空気に満ちた街の様子が垣間見えた。
王都では今日も鎮痛剤モフィン中毒者を捕らえて、牢屋に閉じ込めると言う非生産的な行いを正規軍が行っている。
隔離は間違っていないが、さて彼らは治療されるのかどうか。
そも、何処の地が発祥だかも分らぬ鎮痛剤を、半ば強制的に傷兵に打ち、戦わせると言う馬鹿げた行いのツケが回っているに過ぎない。
徴兵されて帰ってきた夫や息子が薬物中毒者では、民の不満は高まるばかり。
「儂には好都合だが、な。」
テレジアは口をゆすいで薄く笑みを浮かべれば、金色の髪を手櫛で整える。
戦時には、肩に届くあたりで適当に切り捨てていた髪も、今は肩甲骨を過ぎたあたりで切り揃えている。
それなりに気を使って手入れはしているし、油も良いものを取り寄せてはいる。
3年前までは思いもしなかったことだがと小さく苦笑を浮かべ自室へと戻った。
着替えるために寝間着代わりにしてしまったシャツのボタンをはずして、脱ぎ捨てる。
替えのシャツに袖を通した際に姿見にテレジア自身の体が映った。
鍛えられ、傷だらけの体。
その中でも背からわき腹へと続く刺傷が最も色濃く残っている。
その体を誇るでもなく、卑下するでもなく、ただ一瞥与えただけで彼女は着替えに専念した。
そして、ガラシス王国軍の軍服を纏い、軍支給のコートを肩に掛け、軍帽をかぶれば、ゆったりとした足取りで屋敷の外へと向かう。
外には馬車が一台待機していた。
ヴァルストーム家直属の馬車、御者は珍しい事だが女であり、3年前までは共に戦った部下の一人である。
テレジアが起きて身繕いを始めた事を察して、出立の準備を整えたのだろう。
「早いな、トゥラ。」
「伯爵をお待たせできませんので。」
「皆がお主の様に気が利けばよいのだがな。」
短い言葉のやり取りを終えれば、テレジアは悠然と馬車に乗り込み、膝を組んで背凭れに凭れ掛かった。
そして、双眸を閉じれば目的地にたどり着くまで己の過去を反芻する。
テレジアは20才で前線に出て、5年間戦い続けた。
そして、25才の時にガラシス王国は完全にアマルヒ帝国の領土から押し返され、講和に応じさせられた。
ちょうど押し返されて追撃を受ける所での停戦は、ガラシス王国の外交手腕が素晴らしかった訳では無く、偶々に過ぎない。
テレジアにとって問題だったのは、彼女は停戦命令が出る直前に味方の手により致命傷を受けたと言う事だ。
ガラシス最後の攻勢は停戦の2週間前に行われた。
このまま押し返されたら今度はガラシスの国土が荒らされると、ガラシスの上層部は恐れを感じていた。
テレジア等からすれば、こちらから攻めて置いて何を今更と思うのだが。
結局、恐れは無用で無理な攻勢を仕掛ける事に繋がり、有効打も出せぬままに攻撃限界に到達した。
そこを突かれてしまえば脆いものだ。
最早守り切るだけの力も無ければ潰走するしかない。
我先にと逃げ出す兵士達を押し留めることは最早無理だ。
ただ、最後まで戦場に立っていようと覚悟したテレジアをあざ笑うかのように、背後からわき腹に一撃を与えて刺客は去った。
魔道鎧の隙間を縫った鎧通しの一撃は、並の兵士の仕業ではないだろう。
そして、魔道鎧を着ていなかったならば、テレジアの命はそこで終わっていた筈だ。
魔道鎧の歩行アシスト機能のおかげで辛くも戦場を抜けだしたテレジアは、酷くゆっくりと血が失われて行く事を感じながら倒れこんだ。
シャルマーユ社が魔力による延命機能をテレジアの鎧に追加していなければ、彼女はここで死んでいた。
血液を凝固させ、出血を抑え、何とか時間を稼ぐだけの機能であったがテレジアの生存には効を奏したのだ。
気を失いかけては覚醒を繰り返す。
息苦しさからか、いつの間にかヘルムを外して素顔を外気に晒して居た事にも気づかずに。
それ所か時間の感覚すら曖昧になり、程なくして死ぬことをテレジアは悟った。
彼女が倒れこんでいる間に、いつの間にか夜となり、そして空が色づき始めている。
ぼやけた視界で朝焼けを確認した筈が、不意に真っ暗になった。
遂に視神経が逝ったのだと気付くのに時間が掛かった。
無明の闇に飲まれて、これが死と言う物かとテレジアはぼんやりと思う。
これで終いか、そう思うテレジアの胸中に去来する思いは……何もなかった。
何にもない、死の間際になっても何も感じない。
恐怖が湧き起れば良い、未練が湧き起れば良い。
しかし、彼女には何もなかったのである。
「……。」
怒りも憎しみもない、元より社交界の敵には無関心であった。
憎しみなど向ける価値が連中にあったかどうか。
アマルヒ帝国、戦場の敵はどうだったか?
故あって戦っただけで、それ以上でも以下でもない。
親の顔など覚えていない、執事夫婦を思い返すのも何か違う。
「何もないのか……何もない……のか?」
消えかかる意識を繋ぎ、懸命に記憶を手繰るも、何一つなかった。
それは少しだけ虚しく、しかし納得できた。
己は何と空虚な存在だったのだろうか、そんな思いばかりが胸を締め上げる。
まったく、今少し良い思い出でも持って死にたかったものだとテレジアは苦笑を浮かべたその時に、声が響いた。
不意に、あまりに不意に声を掛けられたのだ。
「そのまま死ぬか、儂と混ざり合い延命するか、選んでみるか?」
女の声だった。
古めかしい喋り方で弱々しい……それでありながら、何処か強さも感じる声に思えた。
「延命したいのは貴様ではないのか? 私は虚無を抱いて散るのみだ。」
「……手厳しい。そうだ、儂はこのまま終わりたくない。足掻きたい、その為に力を貸してくれ。」
「始めからそう言え。……好きにしろ、所詮、朽ち逝く身だ。」
それが魔神器ギルスラとの出会いだった。
好きにしろと伝えた瞬間、無明の闇に光が灯った。
暗紫色の光が一筋、闇の帳を切り裂いた。
そして、数多の記憶が流れ込んできた。
何もなかったテレジアに。
テレジアは、流れ込んでくる記憶の大部分には興味を示さなかったが、赤い髪の青年からは意識を外せずにいた。
軍人でありながら、紳士的な振る舞いを心掛けている青年は、偽善者のように最初は思えた。
だが、違う。
彼は善を偽る心算もなければ、善を成すつもりもないのだ。
紳士と言う生き方を実践しているに過ぎない。
戦場に立てば理不尽に死を振りまく赤い髪の男、彼が噂に聞く『妖光』である事に遅まきながらテレジアは気付く。
テレジアは、男の傍にいた魔神器の記憶を全てを己の物とした。
そして、その男の記憶を繰り返し頭の中で思い返すと、ふつふつと浮かんでくる思いがあった。
何もなかったはずのテレジアに、である。
それはガラシス王家に対する怒りだ。
いや、王家のみならず貴族共全てに向けた怒り。
ガラシスの貴族社会をすべて焼き尽くしてやりたいなどと言う強い憎悪を初めてそこで持った。
彼をテレジアの傍から遠ざけた、愚かな法律に関わった全ての者達を焼き尽くしてやりたい
そんな思いが胸の中で暴れ、テレジアは涙を流し呟いた。
「ああ、見つけたぞ……。」
双眸から流れ落ちた涙に気付く事無く、彼女は笑っていた。
追憶から覚めても、まだ目的地にはつかない。
馬車の窓から外を眺めたとて、明かりも疎らであればあまり見るべきものもない。
時刻は今日から明日に変わろうと言う境目、殆どの物は寝静まり、時折正規軍が中毒者を隔離する日常。
それらに注意を払うことなくテレジアは再び追憶に耽る。
彼女が目指すのはガラシスの軍事施設。
そこで『新型』の確認を行った後に、アマルヒ帝国に潜入する手はずになって居る。
年明けに開始する作戦の下準備、と言う名目の私的な潜入を止められる者は、最早ガラシス軍部にはいない。
死の淵から蘇った今代のヴァルストーム伯は、怪我の療養の名の下に2年間軍務を休んでいた。
その間に世界各地を巡り、見知らぬ術や技を身に着けたのだ、それこそ西方ではお目に掛からない東方諸国に伝わる符術や剣技等を。
己の魔力に見合った力を手にして、半年ほど前に戻ってきたテレジアは復職を果たす。
復職後の階級は少佐である。
そして、伯爵としての権利を幾つか放棄することで、ある計画を推し進める事を王家に認めさせた。
彼等としては、鬱陶しい小娘が自ら貴族社会から抜け出そうと言うのだ、深く考えずに喜んで送り出してしまった。
自分たちの、その狭い社会を滅ぼさんとする計画の一歩であるとも知らずに。
12月上旬、予定通り『新型』の確認を終えて、テレジアはアマルヒ帝国へと潜入を果たした。