気狂いピエロはどこにいる?
その奇妙な男に出会ったのは小さなレストランのテラス席だった。
男は私のとなりのテーブルにひとりで座っていて、物憂げな、懐かしむような表情で店の外を見ていた。外の大通りでは夜の闇に色とりどりの照明が輝き、行き交う人たちの笑い声と楽しげな雰囲気が伝わってきている。
私がその男を奇妙だと思ったのは、彼の格好のせいだった。彼は袖にフリルのたくさんついたシャツを着て、赤地に白の水玉模様のチョッキを羽織っている。下は派手な紅白に塗り分けられたパンタロンを履いていて、生え際の後退した頭髪は明るい緑色だった。顔はドーランで真っ白で、赤くて丸いつけ鼻だけを外してテーブルに置いている。どう見てもピエロだった。ピエロなのに悲しげな顔をしていた。
彼は私の視線に気がつくと、こちらを向いて寂しげに微笑んだ。少し首をかしげるその仕草が哀れに見えて、私はつい、彼に「こんばんは、ピエロさん」と挨拶をしてしまった。
ピエロは「どうも」と会釈を返した。それから「おひとりですか」と彼が訊いてきたので、私は頷いた。
「奇遇ですね、私もひとりなんですよ。どうです、一緒に飲みませんか。ここであったのもなにかの縁です」
予想外の申し出だったが、ピエロの所作はゆったりとしていて、とても落ち着いた雰囲気のある男に見えたので、私は好奇心から受け入れた。ピエロは彼のテーブルにもうひとつ椅子を引き寄せて私にすすめてくれた。私は仕事の上着をその椅子の背にうつしてから座った。
「素晴らしい偶然の出会いに」
私たちは乾杯し、お互いのことを語り合った。私たちはすぐにうちとけ、三杯目のビールをあけるころには、まるで長年の友人かのような錯覚すらおぼえた。お互いの本名こそまだ知らないままだったが、私がピエロを、ピエロが私を呼ぶ声には、深い親愛の情があった。
すっかり気持ちよくなってしまっていた私は何気ない気持ちで彼に訊いた。
「ピエロさんは、いつからピエロなんですか」
するとそれまでにこにことしていたピエロの表情にサッと影がさし、それまでの明るい調子がうそのように沈んだ様子を見せた。私が心配して声をかけると、彼は心配させたことを謝って、それから神妙な面持ちでしばらく考える様子を見せた。それから、なにか諦めたようなため息をつき、疲れ果てた口調で言った。
「あなたは聞いてくれますか、私の子供時代の話を……今となっては信じられないような、奇妙な話を……少し長くなりますが」
悲痛な語り口に、私はどうしても彼を放っておけない気がして、悩みでもあるなら聞いてあげようと心から思った。
私が頷いたのを見て、ピエロは寂しげに微笑んで感謝を述べた。それから水で喉を湿らせると、静かに語りはじめた。
「長野県M市の山奥、険しい山の峰に三方を囲まれた狭苦しい土地に、私の生まれた小さな村はありました。私は自然豊かな土地のなか、高原の澄んだ空気を体いっぱいに吸い込んで育ったのです。毎日日の出とともに目覚め、母の畑仕事を手伝うと、その足で小学校に行きました。なにぶん総人口1500人程度しかない小さな田舎の学校なので、教室では1年生から6年生までが一緒に勉強をしていました。上級生は下級生の面倒をよく見、下級生は上級生の言うことをよく聞いて学んでいました。私もそうでした。学校が終わると家に駆け戻って荷物を置き、釣り竿を手にとって友達と近所の大きな川へ行きました。イワナやヤマメをよく釣りました。西の尾根に日が暮れるのを見ると、家に帰って、釣ってきた魚を塩焼きにしてくれるように母に頼みました。テレビはありましたが、インターネットの回線はないも同然でしたので、私は宿題をしながら夜の虫たちのやかましい音を聞きました。夜更かしとは無縁の日々でした。
春には暖かな陽射しのなか一日中野山を駆け回って、グミの実やキイチゴを食べました。夏は川で冷やしたスイカと、花火とホタルが楽しみでした。秋になると周囲の山々が赤や黄や茶に塗り分けられて、栗や銀杏をたくさん拾いました。冬は雪かきがたいへんでしたが、友達とする雪合戦以上に楽しいものはなく、窓の外の白い景色の静けさには心がふるえました。
最初のきっかけは、友達のリョータくんでした。
その頃私は小学生5年生でわんぱくの盛りでした。リョータくんは学校で唯一の6年生で、私とリョータくんは兄弟のような関係でした。彼もその年頃の子供らしく、わんぱくで、よく放課後に山に入っては、蛇の抜け殻やちょっとした貝の化石など、いろいろと珍しいものを見つけてくるのでした。
夏のある日「おもしろいものを見せてやる」と彼が言って、私は放課後、連れられて山に入りました。
その日は夏でも涼しいこの村には珍しく、じっとり汗ばむような不快な暑さだったことを覚えています。私はリョータくんの背中を見ながらどんどんと進んでいきましたが、そのうち、彼が今まで入ったことのないくらい奥まで進んでいくので不安になりました。あまり山奥まで入りこんで、道に迷ったり、熊に出くわしたりでもしたらたいへんですから……。私は引き返したくなりましたが、彼が大丈夫だと言うので、しぶしぶついていきました。
しばらくすると、ちょっとした開けた場所に出ました。あまり広くなく、せいぜいが学校の教室よりやや広いくらいです。山の中にぽっかりと、木も何も生えていない広場があったのです。ほんとうに何もなかったので、不自然に感じられるほどでした。
「ほら、これ見ろよ」とリョータくんが足元を指差しました。寄ってみると、土と腐った葉っぱの下に、薄汚れた金属製の板が見えました。半ば埋まっているようなので、ふたりで掘り出してみると、それはどうやら昔の看板の一部だったらしく、すっかり変色した塗装と錆に覆われていましたが、なんとか、オーバーオールを着た可愛らしいウサギのキャラクターと、文字が書かれているのがわかりました。
「『裏野ドリームランドへようこそ!』」
私が目を凝らして文字を読み上げると、リョータくんが興奮した様子を見せました。
「どうだ、すごいだろう。ここにはきっと昔、遊園地があったんだ。潰れちゃったけど、看板だけが残っていたんだ。大発見だぞ!」
彼は辺りを駆け回り、跳びはねたり大声をあげたりしました。「きっとこのあたりに観覧車があったんだ」とか「メリーゴーランドはここに違いない」とか、勝手に想像を膨らませていましたが、私は、そんなわけないのにと思っていました。
私はこの村から出たことはなかったので、遊園地というものには行ったことはありませんでしたが、テレビで見たような遊園地がこんな場所にあるわけがないというのはすぐにわかりました。
電車もなく、バスも一日に2本程度しかない村の近くに遊園地を作ったって、誰が遊びにくるのでしょう? それに、この場所は山の中腹にたまたま平たくなっているだけの場所で、少し離れればまた傾斜が激しくなります。そんな土地に観覧車やジェットコースターなどの大きなアトラクションを作れるでしょうか? それになにより、この広場は狭すぎます。昔はもっと広かったのかもしれませんが、それにしたって不足です。看板だけが残っているのもおかしい話で、看板がここにあるのなら、せめて柵やらなにやら、他の痕跡もあってしかるべきです。でもほかには何もありません。
きっとこの看板はどこかの業者が不法に投棄したものに違いないと私は考えましたが、そうしてリョータくんの興奮に水をさすのも悪い気がしましたし、自分も、遊園地というものへの無邪気な憧れがありましたので、私は彼と一緒に、好き勝手な想像を膨らませました。
そしてそのうち、想像は、なぜこの遊園地が潰れてしまったのだろうかという方向に向かいました。きっとジェットコースターでひどい事故があったのだとか、犯罪組織の隠れ家になっていたのがバレてしまったのだとか、はたまたアトラクションに怪物が住みついてしまったからだとか、荒唐無稽な想像に大笑いしました。
その日は太陽が山の影に隠れるまで、想像上の裏野ドリームランドで遊び、ふたりともクタクタに疲れて帰宅しました。とても楽しかったのを覚えています……。
その夜、私は夕食の席で父と母に「このあたりに遊園地があったことはある?」とたずねました。するとふたりは「そんなもんあるわけないだろ、バカ」とただひとことそう言いました。私は「そりゃそうだよな」と落胆しつつ、口をとがらせました。
次の日私が登校すると、学校の教室は賑やかでした。どうしたのかクラスメイトに訊くと、どうやらリョータくんが裏野ドリームランドのことを話したようで、廃園になった遊園地のミステリアスさにほかの生徒たちもすっかり夢中になってしまっていたようでした。
休み時間中、私とリョータくんは質問攻めにあいました。私はあまり口が上手いほうではありませんでしたので、答えるのはもっぱらリョータくんでした。しかしリョータくんには、口が上手い代わりに物事を大げさに話すきらいがあって、彼が下級生たちに話す内容は、だんだんと昨日私と一緒に見たものとはかけ離れたものとなっていきました。
「山の奥には裏野ドリームランドっていう廃園になった遊園地がある。ほとんどの建物はなくなってたけど、唯一ミラーハウスだけが残っていて、俺たちはその中に忍びこんだんだ。中は真っ暗だったけど、俺はぜんぜん怖くなかったら奥まで進んだんだ。すると一番奥に誰かがいたんだ。それでよく見ると……そいつは俺だったんだ! だけど俺はビビんなかったぜ。俺はそいつを殴り倒して、さっさと建物を出たんだ! なぁ、そうだろ?」
そんな調子で同意を求めてくるので、私は苦笑いしながら頷くしかありませんでした。私が頷くと、下級生たちは目をキラキラさせながらリョータくんをすごいすごいと褒めそやすのでした。
ですが嘘というのはすぐバレるもので、その日の放課後、下級生たちが裏野ドリームランドに行きたいと言い出しましたので、私は呆れながらリョータくんを見ましたが、リョータくんは意外とすんなりそれを受け入れました。私もリョータくんを弁護するつもりで、彼らと一緒に行くことにしました。
ミラーハウスはありました。
山奥のちょっとした空間に、大きなミラーハウスの残骸がありました。外壁の塗装ははげて下から鉄サビが浮いていて、屋根も半ば落ちかけてしまっていますが、建物の中に作られた鏡の迷宮と、入り口の上に書かれた「鏡の大迷宮」という字が、紛れもなくアトラクションのひとつであることを示しています。
はしゃぐ下級生たちの背中を見ながら、私はすっかり困惑しました。
「昨日来たとき、こんなのあったっけ?」
するとリョータくんは、
「え? あっただろ」と平然と言ってのけるのでした。
リョータくんのあまりにあっさりとした態度に、私は、もしかしたら自分が見落としたのかもしれないと考えましたが、どうしても違和感が拭えません。昨日、たしかにこの空間には何もなかったはずなのです。しかしミラーハウスは目の前に存在します。もうひとりの自分こそさすがにいませんでしたが、その圧倒的な事実に私はやはり自分の思い違いだろうと感じて、その日は下級生たちが怪我をしないように気を配りながら一緒に遊びました。
翌日も、その翌日も、リョータくんは下級生たち相手に裏野ドリームランドの話をし、放課後になるとそこに遊びに行っていました。私が同行しなかったのは、母の畑の手伝いをしなければならないのもありましたが、それ以上に不気味な予感がしていたからです。
リョータくんたちはますます裏野ドリームランドに夢中になり、私はますます話についていけなくなりました。リョータくんはあるはずもないお化け屋敷やメリーゴーランドの話をし、私は半ば呆れながら聞き流していましたが、下級生たちはまたわくわくした様子で彼の話を聞くのです。私は疎外感を感じて、あまり彼らとは遊ばなくなりました。
二週間が経ったころでした。
ある日の朝、私が顔を洗って母の畑に行こうと玄関を出ると、東の空からの暖かい陽射しに全身が目覚めるのを感じて、大きなノビをしました。
そうして何気なく山の中腹に目を向けると、ちょうど村全体を見下ろすくらいの高さに、なんだか見慣れないものが見えた気がして目を凝らしました。正体がわかったとき、心臓を撫ぜられたような気分になりました。
山の中腹に小さく見えているのは巨大な観覧車の車輪でした。
全身から血の気が引いて危うく卒倒しそうになりましたが、なんとかこらえると、何度も目をこすりました。しかし観覧車は変わらず山の中腹から目玉のようにこちらを見下ろしていて、ときおり、錆びたフレームが風に吹かれて軋む音が村全体に響き渡るのです。耳障りな音に両耳をふさいでしゃがみこみましたが、甲高い音は頭の中で反響して、骨の髄まで染み込んでいきます。私は泣きました。泣きながら立ち上がり、母の待つ畑へと早朝の村を駆け抜けました。
畑にたどり着くと、中でいつものように野良作業をしていた母がびっくりした様子で私を見、「どうしたんだい、あんた?」と私の体を受けとめて言いました。私は震えながら山の観覧車を指差すと、やっとの思いで、この異常なできごとを洗いざらい話しました。母はそんな私の顔をタオルでこすると、ぎゅっと抱きしめて言いました。
「なんだか怖い夢を見たんだねぇ、夢と現実をごっちゃにして、バカな子だよほんと」
「で、でも! あの観覧車は昨日までなかった! 絶対そうだ――」ピシャリという音がして、頬に痛みがありました。母が私をはたいたのでした。
「――いいかげんにしな! あの観覧車はね、あんたが産まれる前からあの場所にあったよ! あんただけじゃない、私が産まれる前からもあった! あの観覧車は何十年もずっとあそこにあるんだよ!」
私は母に叩かれたことよりも、母の口にした内容のほうがショックでした。
私はあの観覧車がある村の風景を知りません。耳障りな音が鳴り響く村の日常を知りません。でも母が嘘をつくはずもありません。学校の友達にも、先生にもきいてみましたが、みな答えは同じでした。観覧車はずっと前から村と一緒にあったのです。学校の資料室の写真にも、自分のアルバムの写真にも、たしかにその観覧車は写り込んでいます。何もかもがあの観覧車が昔からあったことを示しています。
となれば、おかしいのはやはり――
私は自分がいつからそうなってしまったのかまったくわかりませんでした。きっと自分は何か悪い病気なのだと思って、目の前にある観覧車の存在を認めようと努力しました。しかしどんなにがんばっても、心の奥底に言いしれない違和感があって、真夜中、遠方から観覧車が軋む音が聞こえるたびに首筋に冷たいものがはしるのでした。
数日が経ったある日の土曜日、私はとうとう決意して、ひとりで裏野ドリームランドへと行きました。間近で見て直接触れれば、あの観覧車の実在を信じざるをえないだろうと考えたのです。私は朝早くから山を登り、小鳥たちの楽しげにさえずる音を聞きながら、かつてリョータくんと歩いた道を行きました。
そこには想像を絶する光景がありました。
錆びついた入り口のアーチには「裏野ドリームランドへようこそ!」と書かれた看板が掲げられています。敷地を囲むフェンスは、ところどころ破れていますが、しっかりとかたちを保っています。無人の入場ゲートのわきを過ぎると、廃墟となった立派な遊園地がありました。ミラーハウスも、観覧車も、ジェットコースターも、メリーゴーランドも、お化け屋敷も、その他様々なアトラクションが、まだなんとか在りし日の姿を保っていました。つい数週間前にやってきたときは、ここはただの小さな空き地だったはずなのに――私はそんなバカバカしい考えを振り切るように観覧車に走りました。チケットボックスを通り抜けると、見上げるほどに高い錆びついた金属の車輪が、悲鳴のような音を立てながら、風に吹かれてゆっくりと回っています。私はちょうど近づいてきたゴンドラの扉のひとつに触れました。真夏であるのにゾッとするほど冷たく、はげかけた塗装の感触が不快でした。
ですが、かえってそれが私に確信させました。この廃遊園地は何かがおかしいと。
私は近くに転がっていた、おそらく柵の一部であろう金属の棒を拾うと、観覧車のゴンドラを思い切り叩きました。甲高い音にびっくりした小鳥たちが、近くの茂みから慌てて逃げ出します。扉がわずかにへこみましたがそれだけでした。それから私は遊園地内を駆け回り、目につくものすべてを壊そうとしました。しかし所詮は小学生の腕力ですので、金属で作られた建物を壊すなんてことは当然できず、やがて力つきた私は、みじめな敗北感を胸に刻んでとぼとぼと帰宅するしかなかったのです。
そのころから村でおかしなことが起こり始めました。
川面を埋め尽くすほどの魚たちが死にました。
道にいくつも小鳥の死体が落ちました。
村の牛たちが草を食べなくなり、衰弱していきました。
狂った野良猫が泡を吹きながら暴れ、崖から落ちて死にました。
何日ものあいだ太陽が雲に隠れ続け、真昼であるのに薄暗い日が続きました。
大人たちはただ困惑するしかありませんでしたが、私だけは、あの裏野ドリームランドが原因に違いないと確信していました。
だから今度こそあの遊園地を壊してやるつもりで、納屋からバールを持ち出したのです。
暗い山道を上がりながら、私は村を守るという強い決意を言葉にして何度も何度も繰り返しました。この異常事態に気づいているのは私だけなのです。存在しなかった廃遊園地が突如として現れ、私たちの過去や未来すら蝕んでいるなんて。きっとあの遊園地はなにか邪悪なものに違いない。だから気づいている自分が止めなくてはならないのだと。
そう考えながら坂道を上がりました。遊園地までだいたい半分くらいのところです。息をついて、顔を上げました。
入り口のゲートがありました。
一瞬、なにが起こったのかわからず、思わず後ずさりました。
目の前にあるのは紛れもなく裏野ドリームランドの入場ゲートで、その上には「裏野ドリームランドへようこそ!」の看板があり、左右には敷地を囲むフェンスが伸びています。
混乱しました。なぜならここにたどり着くにはまだしばらく歩かねばならないはずなのに、うっかり自分がどれだけ歩いたか忘れてしまったのだろうか――理解しました。
――裏野ドリームランドが広がっている――
なぜ二回目に訪れたときに気がつかなかったのでしょう。裏野ドリームランドはあのときからすでに広がっていたのです。敷地を拡大し、その中にいくつもの壊れたアトラクションを生み出しながら、少しずつ村に向かって迫ってきていたのです。
恐怖にかられて私は絶叫し、バールを放って逃げ出しました。ついさっきまでの勇敢はこれっぽっちも残っていませんでした。何もかもが恐ろしく、自分の部屋で布団を被って震え続けました。学校にも行かず、心配する両親や友達を怒鳴りつけ、ただ毎日を部屋のすみで震えながら過ごしました。
それからまた何日か経ったころ、私は布団のなかでふと目を覚ましました。夜中だったことを覚えています。
ひどい空腹と怠さにやっとのことで起き上がると、カーテンを閉めきってある窓の向こうがみょうに明るいことに気がつきました。それになんだか騒がしくもあります。私はぼぅとする頭のままのろのろと窓に近づき、カーテンを開けました。とたんに猛烈な光が暗い部屋の中にさしこんで、頭が痛むほどの音の洪水が私を蹂躙しました。
しばらく何がなんだかわかりませんでしたが、目が慣れてくると、その向こうに現れたものにただ呆然と立ち尽くすほかなかったのです。
窓の向こうにあったのは盛大なパレードでした。
真夜中、山奥の小さな村の真ん中で、通りを埋めつくすほどのきらびやかなパレードが行われていました。どこからともなくふりそそぐ紙ふぶきのなか、無数の電飾で飾りつけられたうさぎのキャラクターのフロート車が中心になって、その前後をニ列に並んだブラスバンドやダンサーたちが進んでいます。よく見ると彼らはみな、顔見知りの村人たちなのでした。となりのおじいさんも、近所のおばさんも、クラスメイトも、先生も、みんな寝間着姿のままトランペットを吹き、太鼓を叩き、楽しげに笑いながら踊っていました。
悪夢としか思えませんでした。
私はしばらく窓からパレードを眺めていましたが、行進する彼らの中に一番見たくない顔を――両親の顔を――見つけてしまって、全身におぞけが走りました。ふらつく足どりで慌てて部屋を飛び出し、玄関先に出ました。父と母を探して通りの先に視線をやると、さらに恐ろしいものを目にしました。
裏野ドリームランドの入場ゲートが、私の家からわずか十数メートルのあたりにまで近づいていたのです。しかも入場ゲートはもはや廃墟のようなみすぼらしいものではなく、たくさんの照明が輝く、真新しい塗装のものになっていました。ゲートの上の看板の左右にはスピーカーまで新設されて、軽快で楽しげな音楽と「裏野ドリームランドへようこそ! 楽しい楽しい夢の国! よいこのための遊園地!」という明るい女性の声が繰り返し再生されていました。
裏野ドリームランドは営業を再開していたのです。
フェンスの向こうがわには、すでにいくつもの家屋が取り込まれているのが見えました。入場ゲートの先には、オーバーオールを着たうさぎのキャラクターのぬいぐるみが、片手にたくさんの風船を持ってかわいらしい動きをしているのが見えます。
私はその場にへたりこみ、動けなくなりました。
もはや何もかも手遅れでした。もう裏野ドリームランドを止めるすべはないのでした。私は真っ白な頭のまま、しばらく目の前を過ぎゆくパレードの行進をただ眺めていましたが、やがて不意に声をかけられたのです。
「やぁ! こんにちは!」
底抜けに明るい声に顔をあげると、うさぎの着ぐるみが私を覗きこんでいました。
「君は迷子かな? お母さんとはぐれちゃったの? でも僕に任せて! 一緒に迷子センターに行こう! きっと見つかるよ!」
――ああ、なんてことでしょう。私はその声に聞き覚えがありました。
「リョータくん……」
「それは友だちかな? 一緒に来たのかな? さぁ涙を拭いて! ここは楽しい夢の国だよ! 今日はたくさん楽しんでね!」
「――いいや、違うよ、僕はお客さんじゃない……」
僕の言葉に、うさぎが首をかしげました。
「え? じゃあスタッフさん? それにしては制服も着てないけど……」
「僕は――」
私は立ち上がり、両手を広げてうさぎに向き合いました。涙のあふれ続ける顔を無理やり笑顔に作りかえ、パジャマ姿のまま、くるくるとその場で回って見せました。
「――僕はピエロだよ! おかしな格好をして、おかしなことを言ってお客様を楽しませるんだ! どうだいこの服は、夢の国にパジャマでいるなんてマヌケだろう!?」
私は笑いました。うさぎも笑いました。笑いながら私と彼は仲良く手をつなぎ、一緒に裏野ドリームランドの入場ゲートをくぐったのです……狂気にのみこまれる前に、自ら狂気に陥ることが、唯一正気を保つ方法だと、私は直感したのです……。
その後も裏野ドリームランドは拡大していきました。その晩中には村を飲みこみ、その週には山全体を飲みこみました。美しかった山の峰には数えきれないほどの観覧車が立ち並び、もとのかたちはもうわかりません。あらゆる場所がテーマパークとなり、明るい照明と電飾のきらびやかな輝きは永遠に絶えることがありません。
裏野ドリームランドはやがて県全体を飲みこみ、日本全体を飲みこみ、海を越え、ユーラシア大陸をわずか2年ほどで飲みこみました。それからまた数年かけてアフリカ大陸、南北アメリカ大陸すらも敷地内にとりこみました。誰にも疑問を抱かれずに……すべては最初からそうだったと誰もが信じたまま……。
今となっては地平の果てまでが裏野ドリームランドです。無数の観覧車、メリーゴーランド、ミラーハウス、お化け屋敷、ジェットコースター、アクアツアー、ドリームキャッスルがこの世界のすべてなのです……。
きっとあなたは信じないでしょうね。この世界はかつてはまるでちがっていたのだと。音も光もずっと少なく、永遠に提供され続ける娯楽もなく、それらに囚われて生きる人もいなかったのだと」
ピエロは自嘲するようにそういうと、コップの水を飲みほして、また寂しげに微笑んだ。
私が困惑してだまりこんでいると、ピエロは立ち上がった。それからテーブルの上の赤くて丸いつけ鼻をつまみあげて身につけ、いきなり大げさなしぐさと笑顔で声を張り上げる。
「いかがでしたかお客さん! ピエロのお話は面白かったかい? まんまと騙されちゃったかな? 今のお話は全部デタラメさ! ピエロはイタズラ大好きだからね! おっとお代はけっこうさ、ピエロは君を怖がらせて大満足! だから逃げるよ、さようなら!!」
バカバカしく手を振って、ピエロはひどくマヌケな大股歩きでレストランを出ていった。残された私はしばらくしてからビールを飲みほして立ちあがった。
椅子の背にかけていたスタッフの制服を再び羽織ると、店を出た。
店の前の大きな通りでは、いつものように賑やかなパレードが行進を続けている――その流れに沿って歩きながら、絶え間ない光と音にさらされているうちに、私はおかしなピエロのことなどすっかり忘れてしまったのだった。
おわり