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てのひら1

作者: 鮎川りょう

現在 11編


・こだま 2(12枚)

・雨ふり娘(8枚)

・頭上を飛び越えて(10枚)

・蝶の紋章(2枚)

・大蛇(2枚)

・こだま(5枚)

・思い出の海(4枚)

・家族の肖像(4枚)

・ナホバへ(2枚)

・帰郷(5枚)

・マジック(3枚)



「こだま 2」


 梢から北方向を見渡すと、どこか切なげな光が沖でぼうっと揺らめいていた。戦火の中でのイカ釣り漁船だろう。漆黒の波間をたゆたいながら密やかに操業していた。

 その光景は、先月市内を襲った空爆の悲惨さを知る私にとって信じ難いほどの平穏ともいえた。しばらく眺め、腰をかけていた小枝から立ち上がると、幹に腕をまわして地上に降り立った。かじかんだ指に息を吹きかけ森の中をゆるゆる散策した。

 私はこの最果ての森の中で、一人暮らしている。物心ついたときから家族も知り合いもいない。どうしてここに居続けるのか、年がいくつなのかもわからない。不思議なことに、それがつらいと考えることはなかった。

 ごく稀に、森に生息する鹿を狙って猟師がやってくるが、私が木の陰に身を隠すと大ていは気づかずに通りすぎる。気づくのは気配に敏感な猟犬だけだ。でも彼らは主人に忠実なあまり、鹿の探索に集中して私のことなど目もくれない。

 それは猟師の標的とされる鹿にも同じことが言える。私にまったく敵意がないと知ってか、警戒心の強い生きものであるにも関わらず平然と隣で草を頬張っている。もしかしたら私は、猟師に限らず猟犬や鹿たちにとって、どうでもいい存在なのかもしれないと思ったりもする。

 そんな根無し草のような生活の中で、楽しみといえば土の中から芽吹いた木の芽がすくすくと成長し、森を緑に茂らすときだ。気がつくと、ああ、これがあのときの頼りなさげだった命かと、つい目を細めて語りかけている。逆に務めを果たして土に還る老木も、じつに感慨深い。彼らは誇らしげに私を見つめると、朽ちる。私はそのつど言葉を投げかける。お疲れさまでしたと。

 また、摩訶不思議な力を持つイイズナと出会ったことも楽しみの一つといえる。彼はなぜか私に懐き、すり寄ってくる。油断して狼に囲まれたときにはどこからともなく現れ、窮地を救ってくれた。冬眠前の凶暴な熊に遭遇したときも、やはり彼は小さな体躯の持ち主とは思えぬ勇敢さで戦い、これを退けた。もはや拠り所といっていいほどの頼もしい存在である。

 

 森の外れまでくると冷え込みは一段と厳しくなった。夜が終わりを告げようとして、なかなか朝が訪れないこの時刻は、多くの犠牲の上に成り立つ死の底でもある。それを生まれながらの本能で知る鳥も虫も身動き一つしない。凍りついたかのように息をひそめている。

 やがてその静寂も途絶え、小鳥のさえずりと共に山裾は藍から茜に変わり、夜が明けた。死の呪縛から解放された鳥が一斉に飛び立ち、虫も動きだす。森の外へ目を向けると、さほど遠くない前方の樹林に朝日が射していた。熟した林檎も日に照らされ、より赤味をましているように見える。

 ここ数年、森から一歩も外へ出ることのなかった私は、迷ったが、果実の甘酸っぱい匂いに誘われ近づいた。すると突然、頭の中で何かがざわめいた。木の根っこの所に、か細い、小鹿のような少年がぶるぶる震えながら蹲っていたからだった。

 少年が私に気づいた。身震いしたのち、袖で鼻を拭って見返してきた。でも言葉は発しない。怖がる素振りも驚く仕草も見せなかった。

 私は少年に興味を抱いた。手足や顔の、獣にかまれたような傷を見ながら話しかけた。

「寒くなかったかい。家に帰らなくてもいいの」

 少年はぼそっと言葉を返した。

「祖父の家だし、出てけと言われたから」

 祖父の家だと聞いて、私はこの少年が都会から疎開してきた子だとすぐに理解した。たぶん祖父は何らかの事情があって少年につらく当たったのだろう。傷の様子から推測すると、直接殴ったのではなく飼い犬に命令してお仕置きしたのだと思われる。だったら祖父はよっぽど小狡いのか、もしくは殴ることのできない理由があったのかもしれない。

「居心地が悪そうだね」

 少年は寂しげに俯いた。

「母さんと祖父のそりが合わなくて、絶縁状態なんだ。そのしわ寄せが……僕に」

 少年の発した言葉によって、私の脳裏にひどく色褪せた映像が浮かぶ。

  

 少年の父は小さい頃から秀才の誉れが高く、地元の中学を卒業すると東京の大学へ行った。そこで少年の母と出会い大恋愛の末結ばれた。しかし実業家でもある父親は、すでに政略結婚の根回しをしていた。猛反対をした。だが二人は強引に結婚した。祖父の力の及ばない、東京で。

 その後、戦争が勃発した。少年が四歳のときだった。空襲が激しさを増す中、母親は決断した。夫は戦地に行って不在だけど祖父の元に疎開させようと。

 祖父は喜んだ。田舎嫌いの母親が来なかったことも幸いした。戦地の息子と音信不通になっていることもあり、このまま帰さず跡継ぎにしようと決めた。けれど少年の醸し出す雰囲気があまりに母親と似ていた。話す言葉も母親譲りで上品すぎた。孫は可愛いけど嫁は憎い。

 それを抑えきれずに、昨夕、口答えをされて感情が爆発した。しかし少年の性格は父親似で祖父似、へりくだることのできない一本気な気質、だから寒さにも寂しさにも死の呪縛にも耐え、林檎の木の下で一夜を明かした。

  

「きみはどこに住んでいるの」

 少年が興味深げに訊いてきた。これまで何度も他人と話をしたことはあるが、きみと呼ばれたのは初めてだった。それで少し面映ゆさを感じてしまった。でも鏡を見たことがないので、実際自分がどういう顔をしているのか知らなかった。けれど少年の目には、私が同世代の姿に映ったのだろう。森を指さした。

「あの森の中」

「あんな所に家があるの」

「そのようなものはない」

 少年が不思議そうに首を傾げた。「家族は?」

「見たこともない」

 ふうんと頷いた後、「じゃ、友だちもいないよね。僕がなってあげようか」と、屈託なく微笑んだ。

 友だち、不思議な響きだ。ずっと一人で暮らしてきた私にはそういった概念が理解できなかった。でもニュアンスから感じとれるのはイイズナにも似た温かさだった。

「ありがとう」

 と私が快諾したとき、がさがさと草を分け入る足音が聞こえた。犬の吠える声も。

 姿を現したのは老人と犬。犬が私を敵と判断したのか、吠え立てた。しきりに老人の反応を窺いつつ、重心を低くして飛びかかろうとする気配を見せた。その瞬間、少年が犬の前に立ちはだかった。

「よすんだ、僕の友だちだぞ」

 犬が一瞬たじろぐ。老人へ目を向けた。

「友だち? そったものがどごにいる」

 老人の歩き方はかなりぎこちなかった。焦点も定まっていないようで、発する言葉も少年と向き合っているようには見えなかった。たぶん目が霞んで雰囲気しか感知できないのだ。見えなければ別のものが見えるというのに、頑固さによって聞く耳を持てず機会を逸している。

「なして俺の言うことを聞がね」

「理不尽だからです」

「生意気こぐな」

 老人が顎をしゃくって犬をけしかける。犬が身構えた。勢いよく地を蹴って少年に飛びかかった。

 刹那、小さな物体が宙を飛んで犬に体当たりした。イイズナだ。そのまま犬の喉笛に噛みついた。鮮血が噴き出る。私はとめた。イイズナが距離を置く。すると犬は尻尾をまいて怯え、老人を置いて逃げ出した。

 老人は何が起きたか理解できずに狼狽えている。私は少年に告げた。

「おじいさんを送ってあげたほうがいいよ。動揺して、介助なしでは歩けなくなっているから」

  

 その後、少年は何度も森へやって来た。手足や顔の傷も消えて顔色もよくなっていた。きっと老人と和解したに違いない。私は森を案内した。少年は鹿や猪、兎やイタチなどに出会うたび、この森にこれだけ多くの動物が暮らしていることに目をまるくしていた。

「まるで動物園みたいだね。だって東京には犬と猫しかいないから」

「ときどき熊も山から下りてくるよ」

 私はこの森が、単に山の麓でしかないことを伝えた。

「大丈夫なの、襲ってこない?」

「平気だよ。熊は普段、草や木の実を食べているから。それにもう冬眠しているしね」

 しばらく小動物の可愛らしいしぐさを眺めた後、少年は、枯葉の裏で越冬するてんとう虫を何やら考え込みながらじっと見つめていた。その仕草から少年の心を読みとることは、残念がらできなかった。私にとってみれば、この森で毎年くりかえされてきた生きるための生態でしかすぎないのだから。

 泉の畔にやってきた。私たちは笹船をつくって水面に浮かべ、遊んだ。その笹船は鴨の巻き起こす波で転覆した。少年は悔しがり、またつくった。けれど浮かべたとたん、また鴨に転覆させられた。少年が土をこねて鴨に投げつけた。でもとどかず。嘲笑うかのように羽をはばたかせ飛んでいった。

 日が落ちてきた。少年が「帰るね」とつぶやいた。私は先導して森を抜け、林檎の木の下で別れた。小高い土手を見上げると、地面に細長い影が伸びていた。いくぶん柔和になった老人が待ちくたびれたように立っていた。少年が走る。老人と手をつなぎ、私にさよならも言わずに去っていった。

  

 それからいくどか春が訪れ、夏がやってきては何度もすぎていった。いつしか少年は森へ来なくなっていた。

 さらに季節はめぐる。細く若々しかった樹々が威厳を感じさせるようになった頃、私は何を思ったか、すっかり影の消え失せたイイズナを伴い、森の外へ出た。林檎の樹林を抜けて街へ向かった。

 街は様変わりしていた。

 最後に見たのは空爆された日で一面焼け野原だった。なら、あれからどのくらいの年月がすぎたのだろうか。焼け落ちた木造の建物は石のビルディングに変わり、木の柱に質素な傘をつけた裸電球のぶら下がる電柱は、背の高い石柱と鉄の外灯になっていた。

 服の袖を鼻水でてかてかにしている子供も消えていた。モンペ姿の女性も見当たらない。みな着飾り、ここが日本とは思えない出で立ちに変容していた。

 イイズナと顔を見合わせ唖然としていると、見覚えのある紳士とすれ違った。

 あの少年だ。

 彼がどうして東京に戻らずここにいるのかわからない。あのとき老人と和解したようなので、跡を継いで実業家になったのかもしれないし、廃墟となった東京を見限り戻ってきたのかもしれなかった。

 ただ彼は私に気づかなかった。もう見えないのだろう。

 人は年齢を重ねるごとに純真さを失う。幼かった頃に見えていたものも欲を身につけるたび薄れさせていく。そして大切だったものが大切と感じられなくなり、物欲に支配されていく。そうなると、もう元へ戻れない。

 街がお洒落になったよう、彼も心に化粧を施した。寂しかったが、それが人の本性。

 私はイイズナに言った。森へ帰ろう、と。

 

 

        了




「雨ふり娘」


 暑い日が続くと、なぜか故郷を思いだす。

 山間の侘しい村落。山を一つ隔てた南に栄えた宿場があり、東西に故郷と似た貧しい村落があった。そして北には天を突くような山脈の尾根が塞ぎ、その麓は絶えず霧に覆われた樹海。修行する山伏以外、猟師すら立ち入らぬ禁断の地だった。

 そこで暮らしていた頃は、毎年夏になると日照りが続き稲穂は収穫が危ぶまれるほど貧弱になった。でも村の北側に流れる川だけはなぜか枯渇せず、たゆたゆように流れていたのを記憶する。

 当時わたしはまだ三歳の幼児で、顔の輪郭のはっきりしない父と母と兄、十二歳になる姉と暮らしていた。質素というより極貧で、食事は日に一度。それも野草を混ぜた粟と稗の雑炊が主だった。それすらも儘ならずに木の皮や根っこを食べて凌ぐ日々が続いた。

  

 夏の昼下がり。父と母と兄は出かけ、家の中にわたしと姉だけが残されていた。

「誰かがくる」

 わたしが人の気配を察すると、姉が答えた。

「迎えにきたのよ」

「誰を……」

「サヨ、あなた川を見たことがないの」

「あるよ」

 遠いけど、川ならしじゅう見に行く。唯一の御馳走である魚が泳いでいる。

「魚以外に、何が流れてくるかしら」

 姉が謎めいた言葉を投げかけたとき、目つきの悪い男が戸をこじ開け押し入ってきた。とっさに姉の後ろに隠れると、姉は男を見すえて言った。

「両親とは話がついているのね」

「ほう、俺が誰だか知っているのか。察しのいい娘だ。器量がいいとは聞いていたが頭のほうも満更ではなさそうだ。なら話が早い」

 男がにわかに下世話な目をさせ、姉の身体をまさぐった。胸を揉みしだいて尻を撫でると裾の中に手を入れた。

「商品の価値を下げる真似をしていないだろうな」

「あなたがしていること、それこそが価値を下げる行為よ」

 姉が毅然と男の手を払う。

「いいだろう。道中は長い。町へ着くまでに女郎の心得をたっぷり教えてやる」

 姉は男に連れ去られた。

 その後、よそよそしく帰宅した両親に姉のことを伝えても、口をつぐんで何も答えてくれなかった。

  

 夏の終わり頃。裏山で野草を摘んでいると、ぼろぼろの蓑傘みのがさを纏う裸足の少年に出会った。空ろな目をわたしに向けていた。

「どうかしたの」

 近寄り声をかけた。

 すると少年は、空ろだった目を見開き「きみは、ぼくが見えるの?」と、驚きの表情を向けてきた。

 どういう意味かわからなかったが、どうやら少年は雨ふり小僧といって、雨を降らせては人を困らせる妖怪らしい。けど雨を降らせたくても蓑傘が破れているからと躊躇っていたようだ。

「あなたは雨を降らせることができるの」

 妖怪をよく知らないわたしは怖さも感じず、逆に喜んだ。「だったら、あたしが新しい蓑傘と藁靴を持ってきてあげる。その代わりに雨を降らせてくれる」

 少し遅い気もするけど、雨が降れば稲が元気になる。そうすれば木の皮と根っこの食事から解放される。村の少女らも売られなくて済むようになる。

 わたしは「すぐ持ってくるから、ここで待ってて」と言い添え、走った。

「靴もくれるのかい。だったら、もう一つ願いを叶えて上げるよ」

 少年の声が背に貼りついた。わたしは喜び勇んで取りにいった。

  

 蓑傘と藁靴を身につけると、少年は天を睨んで雨を降らせた。たちまち大粒の雨が大地に溜まり、沁みこんでいく。人も樹々も、村全体が潤いを取り戻す。

 わたしは空を見上げ、大きく口をあけながら雨を飲み込み帰途に着いた。しかしこの慈雨も、肝心なときの日照りが響き稲の収穫にはさして影響を与えなかった。

  

 季節が秋から冬に変わる。草花も枯れ、食事の量も減る。母が黙り込むと、乳が不意に川へ行こうと誘ってきた。

「魚を捕まえるんだね。あたし得意なんだ」

 想像しただけで焼き魚の香ばしい匂いが鼻を突き抜けた。以前、口の中に頬張ったときの感触も蘇る。わたしは嬉々として父と並んで歩いた。

 目の前に大きな川が累々と横たわっていた。水は空の青さに反射して浅黄色に染まり、所々に水紋を浮かび上がらせていた。ときおり水飛沫も上がり、大きな魚の尾ひれも覗けた。

 でも糸しか道具のないわたしには到底手も出せない大物だ。小物を狙うべく、イネ科の草が密生する岸辺で昆虫を捕まえ、重しをつけて糸を巻きつけると水中に垂らした。そうすることで運がよければ川エビが釣れる。何としても家族四人分釣り上げたかった。

 父を見た。魚を掬おうとも手伝おうともしない。それどころかわたしを呼び寄せ、風呂敷を広げて食べたことのない白米のおむすびを手渡してきた。

 でもおむすびは一つだけ。横で、わたしが食べるのをじっと見ている。

 わたしは首を傾げた。

「半分あげようか」

 父は目を赤くして首を振った。

  

 その後の意識は消え、よく思いだせない。気がつくとわたしは水の中でもがいていた。苦しくて何度も必死に顔を上げようとした。けれど頭を強い力で押さえつけられていて動かなかった。

「赦してくれ」

 ごぼごぼとわたしの口から出る泡に混じり、悲傷な声が聞こえた。その声が……父だと気づいたとき、これが間引きなんだと悟り抵抗する気力が失せた。今にして、姉の謎めいた言葉の意味も理解できた。

 力を抜いた。家族が望むのなら間引かれても仕方がない。

  

 かなりの時がすぎた。わたしは下流に向かって流されていた。でも死んではいなかった。家族の望みとはいえ、どこかに生きたいという願望が残っていたのだと思う。息がとぎれる瞬間。雨ふり小僧と交わしたもう一つの約束を思いだし、どんなにおぞましい姿でもかまわないから死にたくないと叫んでいたのだ。

 浅瀬まで流されると、わたしは立ち上がった。手で水を掻き分け岸へ上がった。

 遠くから声がする。

「今日から、きみは雨ふり娘だよ」

「うん」

 わたしは頷いた。北の禁断の地へ向かって歩きだした。

 

 

   おしまい





「頭上を飛び越えて」

 

 空が急速に色彩を失わせていく頃、僕は意識を宙へ浮遊させたまま、うす暗い市民病院の長椅子で膝を抱えていた。

 すでに救急隊員も去り、医師や看護師の姿も集中治療室の中に消えている。耳をそばだてても話し声さえ漏れてこない。ときおり守衛さんらしき人の足音が薄暗い通路に響くけれど、それすらもすぐに途絶え、僕は無音の中に一人取り残されていた。

 おそらく感覚を麻痺させているのだと思う。病院に到着してからかなりのときがすぎ、外は凍りつくような夜気につつまれているというのに、寒さも感じず、一心に処置室の扉を見つめている。たえきれずに扉から視線を横の小さな本棚へ移すと、絵本の表紙に描かれたマッチ売りの少女がそんな僕を切なそうに見ていた。

 たまらなく目を背けたとき、ぎぃぃと扉の開く音がした。僕は屈めていた背を伸ばし、ぴくんと立ち上がる。処置室から慌ただしく看護師さんが出てきた。僕に目もくれず、足早に廊下を通りすぎていく。

「お姉ちゃん、死んじゃうの」

 恐る恐る、白い背中に問いかけた。けれど看護師さんは僕の声があまりにか細かったからなのか、それとも守秘義務というものがあって、たとえ家族であろうと患者の容体を漏らしてはいけないのか、きょろきょろ辺りを見回し不可解な表情をさせる。それでも「意識はもうろうだけど、頑張り屋さんだし、何とか助かってほしいわ」と、ひとり言のようにつぶやき、ばたばた走り去っていった。

 意識が、もうろう? 放たれた言葉を頭の中で反すうし、僕は喉をふるわせる。

「お願いです。どうか、お姉ちゃんを死なせないでください」

       

 僕と姉には父親がいない。父は三年前、東京へ出稼ぎに行ったまま消息不明になり、それっきり帰ってこなくなった。元々農家の三男で田畑があるわけでもなく、かといってこつこつ勤め上げるタイプでもなく、母が身を粉にして働いても家計はいつも火の車だった。そのため姉は帰宅の遅い母の代わりに夕食の支度をし、高校入学と同時に新聞配達をはじめた。働きたくても働けない僕は、そんな姉の背中に寄りかかり甘い夢を見続ける。

 野球が好きだった僕は、姉に後押しされて少年団へ入り、思いがけず活躍したのだ。それで自信をつけ、叶うならいつか野球選手になりたいと思うようになり、家の手伝いをせず練習に励んでいた。そのときも姉の帰りを待ちながら黙々と公園で壁当てをしていた。

 しかしここ数日晴天が続いたものの、まだ所々に雪が残っている。そのせいで足を滑らせ、ボールは的の端に当たって横に逸れた。捕りそこない柵の外へ出してしまう。

 段差の激しい坂道を転がったボールは舗道で大きく弾んだ。まずいと思った僕は、道路を渡りきったばかりの姉の姿を見つけ、つい「捕って!」と叫んでしまったのだ。

 家族思いの姉は、配達を終えたばかりで疲れているみたいだったが、見すごすことができなかったのだと思う。買い物袋をさげたまま、ジャンプしてボールを取ろうとした。

 けれども、まだ雪が舗道のあちこちに氷状になって残っている。みごと飛び上がってキャッチしたまではよかったが、着地をした際に足を滑らせ車道側へ転んでしまった。

 運悪く、そこへ車が突っ込んできたのだ。

 あっ! と僕が叫んだとき、すでに姉の身体は激しくバンパーに当たり、急ブレーキをかけられた状態のまま数メートル引きずられた。頭もアスファルトに強く叩きつけられたようで、車体の下から泣き声すら聞こえてこない。袋からこぼれた野菜が事故の悲惨さを物語るよう、いたいけに散乱していた。

 全身から一気に血の気が引く。今まで経験したことのない寒々とした震えが走る。夢だ、現実じゃない、事故なんか起きていない。オール否定の中で、僕は身体の熱を奪われていった。

 そうしてしばらく心を凍りつかせた後、ふっと正気を取り戻す。これは現実で、僕が引き起こした事故なんだ。早く助け出さないと――姉が死んでしまう。

 一目散に駆けよった。車の下へ這い「お姉ちゃん!」と、声をかけた。返事がなかったので、喉に指を当て脈があるか確認した。脈はあった。でも、頭の後ろの白い雪が赤く染まっている。どんどん広がっていく。すぐに、その場に立ちつくし同じように放心させる運転手の身体を揺すった。

「お願いだから、救急車を呼んで」と懇願し、四方から集まってきた大人の人に、一緒に車を持ち上げてと必死に声をかけた。

       

 待合室での祈りが通じたのか、姉はかろうじて命をつなぎとめている。まだ危険な状態は変わりないが、急変しない限り大丈夫とのことだった。ただ、回復しても脳の損傷が大きく以前の生活はできないらしい。のみならず足を切断しなくてはいけないという。

 その話を扉越しに聞き、悲嘆にくれた僕は「ごめんなさい」と壁に向かって泣きむせび、顔を蒼白にさせて入ってきた母と入れ替わるよう病院を飛びだした。母は僕に見向きもしなかった。

 外へ出たとたん、冷たい空気が胸をえぐってきたが、かまわず市街地を走り抜けた。しでかしたことを考えると家へ帰れるほど神経がずぶとくなかったし、どこを走ったのか記憶のないまま、気がつくと見知らぬ場所へ来ていた。でもよく見るとそこは慣れ親しんだ家の前で、光景が、いつのまにか激しく降りだした雪によって一変していただけだった。


 玄関へ近づいた。しんとしていた。灯りもついておらず人声も漏れてこない。誰もいないのだから当然だと思いつつ、僕にはこれが現実とは思えなかった。これまで、こんな時間に誰もいないことはなかったからだ。それに何より、辺りに人っ子一人見当たらないし生活感もかんじられない。まるで架空の世界に連れ去られたようだった。そう考えると、どこか不思議な力が作用して現実から引き離されているとしか思えない。もちろん中学生にもなっていない僕に、それが何なのかわかるはずもない。けれど空も地上も何もかもが白一色につつまれ、目の前の外灯も雪にかすんで幻想的に滲んでいる。北国のあたり前すぎる光景だと思えば自然なのだが、新学期を目前に控えた三月下旬にしては異様すぎる。

 ふっと病院の本棚に立てかけてあったマッチ売りの少女の物語を思いだした。雪の中、少女は寒さに耐えかねて、あの外灯のような滲んだマッチの火をつけた。そうしていろいろ楽しいことを想像していくうち、その光は大好きだった祖母の言葉になっていった。

 架空の世界でも何でもいい、僕も姉の笑顔を見てみたい。足をとめて外灯を見つめた。

 ぼうっとした外灯の光は、いっとき大好きな姉の笑顔を形づくったものの、瞬く間に表情を暗くさせた。直後ちかちかして消え、耳底にマッチ売りの少女の囁きを響かせる。

 ――誰かが死んだのよ。

 僕はそれが自分で創り上げた幻聴だとわかっていたが、真剣に聞き返す。「お姉ちゃんじゃないよね」

 ――もちろんよ。

 ほっとして胸を撫でおろす。家に背を向けて奥へ進む。一段と雪がます。

 歩くたびに黒く残っていた足跡もつかなくなり、いよいよスニーカーがすっぽり埋まるくらいの積雪になった。歩道と車道の区別も、音も生活の息づかいも、すべて降りしきる雪に掻き消された。そんな状態でも決して見間違えることのない場所が迫ってきた。僕は丘の麓にある、あのいまわしい公園へ来ていたのだ。


 横断歩道脇の舗道に雪と同色の白い花がたむけられている。ホットココアの缶も雪に覆われながらも供えてあった。でも、まだ意識が朦朧としているだけで死んだわけじゃない。僕はやるせなく背を向ける。そしてその場所から離れながら、どうしてホットココアなのかと首をひねる。姉はそれを嫌いじゃないが好んで飲むということをしなかったからだ。むしろ好んだのは僕で、それを知る姉が途中の自動販売機でよく買ってくれた。

 え……?

 その瞬間、浮遊していた時間が戻される。麻痺していた感覚の意味も知る。

 事故に遭ったのは僕だったのだ。

 ――あのとき、横断歩道を渡る姉を見て凝りもせず頼ろうとした。その甘えがどんな事態を起こしてしまうか考えようともせずに。

       

 逸らしたボールが坂を転がって、横断歩道を渡りきったばかりの姉の前で大きく弾む。僕は大きな声で叫んだ。

「ボールを捕らないで! 絶対に捕っちゃ、だめ」

 大切な姉をこんなことで失いたくなかった。たとえ頭をよぎった一コマが妄想であろうと、それを打ち消すには頼ってばかりいないで、僕が自分で変わらなければいけないのだ。ようやくそのことに気づいた。

 だがそれには姉にジャンプさせないことが絶対条件だった。姉の優しい性格を考えると、僕が願う願わないに関わらず反応してしまう。それでは何一つ変わらない。よぎったことに見合う代償こそが肝心なのだ。

 僕は走りながらタイミングを見計らい、足の裏に全体重をかけると坂の上から交差点へ向かって思いきりジャンプした。

 ――姉の頭上を飛び越えて。

 

               了


 『蝶の紋章』

 

 

 冬の明け方に決まって夢を見る。その夢の中で私はくすんだ灰色の馬をあやつり、遥か前方にたたずむ森へ向かって一直線に疾走させている。でもしばらくすると森は小川の手前で突然ゆがみ、ふわふわ霧のように空間を漂ったあげく消滅してしまうのだ。

 行き場を失くした私は、消え去って無と化した森の残像を馬上からいつも悄然と見つめる。

 エンディングもなく夢は毎回そこで終わるが、どこか何かを暗示しているような気がしてならない。

 どうしてだろう。消え去った森と私に何の関連があるというのだろう。

 ひとしきり考えたのち、ふっと夜具を払いのけ、薄暗い部屋の中を歩いて真っすぐ机に向かった。脳裏に刻みつけた夢の映像と幼い頃母から伝え聞いた記憶を整理して地図を広げた。一点を凝視し、ここしかないと見当をつけた場所にペン先を当てた。

 そこは深い霧に閉ざされた森。かつて平家の落ち武者らが家名再興のためにひっそり集い、怨念の塊となって生き延びたという森。侵入者は住民が煎じた秘薬で例外なく記憶を消されたらしい。様子を窺いに来た者も小川で溺れるか発狂して哀れな末路をたどったようだ。

 でもその森は1333年、鎌倉幕府が滅んだと同時に忽然と消滅したという。今は南国の花ハイビスカスが咲き誇る楽園となっている。

 父と別れた母は幼い私を連れ、故郷から遠く離れた最果ての地に居を構えた。こんな辺鄙な場所は嫌だと私が言うと、母は口を真一文字に結んだあと「運命なのよ」と、蝶の紋章をあしらった古い草履を私に見せた。さらに押し花にしたノートを手渡してきた。言葉は都会の雪のように湿っていた。

 

 今となっては手渡された花がハイビスカスかどうかわからないが、蝶の紋章はあの一族の証で間違いないだろう。そして私はその一族の末裔。

 だが、たとえそうだったとしてもそれがいったい何になるのか。刀や槍で戦う武士の時代はとっくに過ぎ、覇王となった他の歴代の家系もみな埋没しているのだ。

 私はベッドに戻る。もう一度眠りにつく。

 いつのまにか雪が降っていた。ぼた雪が私の真偽を問いかけるよう、溶けながら窓ガラスにはりついていた。

 

 

     おしまい




『大蛇』


 

 長年暮らし続けてきた薄暗い洞窟を這いでると、そこはまばゆいばかりの光に満ちていた。じめっとした洞窟の奥底で生まれ、蝙蝠などの小動物や虫をついばみながら暮らしていた彼にとって初めて見る下界の景色だった。

 丘の斜面に緑色をした木々と草が茂り、所々に色とりどりの花が咲いている。風がそよぐとそれらは陽光でうねり、これまで嗅いだことのない臭いを運んでくる。見るものすべてが新鮮で圧倒されたが、彼は一緒に暮らしていた兄弟たちの臭いを嗅ぎながら、くねくねと腹を地面に当てて進んだ。

 けれど兄弟たちから醜悪、奇形と、いじめ続けられてきた突起物のせいで思うように進めない。皮膚もみんなのようにすべすべしておらず、硬くごつごつしているうえ、さらに背に奇妙な突起物も出現している。そればかりか兄弟たちと比べて成長が極端に遅く、半年をすぎても大きさは半分にも満たなかったのだ。もうここまで惨めであれば、滑稽を通り越して憐れというしかない。

 彼は哀しくなって歩みをとめる。

 母さんのように、みんなのように凛々しい大蛇になりたい。

 彼は思いの丈をふりしぼって泣いた。ひとしきり泣くとあきらめたのか、また腹をくねらせゆっくり歩きだす。

  

 草がまばらにしか生えない草原にやってきた。不意に羽音が聞こえた。見上げると前方の空に大きな鷲が旋回していた。彼は本能で身の危険を察知した。だが歩みは亀のように遅く、鷲の格好の標的でしかなかった。

 鷲が彼に狙いを定めた。いきなり急降下してきた。万事休す。そう感じたとき、兄弟たちから罵られてきた奇妙な突起物が反応する。腹の突起物がずんずん伸びて先端が鋭利な爪になり、背中の突起物が膨らんで、神々しいまでに広がっていったのだ。

 腹の突起物は足であり、背は羽だった。

 彼は後ろ足二本で立ち上がり、羽を広げて吠えた。すると空気が震え、大地が裂けんばかりに揺れた。彼は大蛇の子という名を返却して咆哮し続けた。

 俄かに鷲が怯え、急旋回して去っていく。彼は大きく羽をはばたかせ、炎を噴きながら空を舞った。

 

 

    おしまい



『こだま』



 冷たい風が吹きすさぶ、秋の夕暮れ。わたしはブレザーの襟を立て、何かに突き動かされるよう、ふらふらと森の中へ入り込んでいった。

 小径は鬱蒼とした木々で薄暗く、光もとどかず、さむざむとする闇だった。その闇の中から梟なのだろうか。目だけを異様に赤くさせ、ほーう、ほぅーんと、犬の遠吠えにも似た薄気味悪い鳴き声を響かせる。

 めったに人が入り込まないという、森。もしかしたら侵入者を知らせる警戒音なのかもしれない。


 でも、いったい誰に?

 考えただけで、ぞぞっと背筋に身震いが走る。

 案の定、左右の茂みからがさごそと葉を揺らす複数の音が聞こえた。ぼっーと光り、わたしが一歩足を踏み入れるたびに彼らも動き、とめると、彼らもとまる。まるで監視するかのように。


 視線を断ちきり、素知らぬ顔で奥へ進んでいく。すると頬に蜘蛛の糸らしきものがねばっと絡みついてきた。きっと蜘蛛もいるのだろう。嫌な感触が頬から顎に移動し、首すじを這う。それを手で拭いながら、足もとの隆起した木の根っこを慎重に跨いで歩いた。

 しだいに梟の鳴き声が遠ざかる。

    

 闇に目が慣れると、眼前に黒っぽく光る湿地が広がっていた。降り続いた雨のせいなのか、それとも元々そういう場所なのか、足もとの浮き出た木の根は緑色の苔でぬめっとし、黒土がいっそう軟らかくなっていた。踏み出した足が、枯れてどす黒く変色した落ち葉ごとずぶずぶ膝までめり込んでいく。

 引き上げようにも足が抜けない。まったく身動きが取れなくなった。むしろどんどん沈んで、見る見る胸まで埋まってしまう。


 潮どきだ。

 どのみち事業に失敗し、ライバルにも妻にも愛想をつかされ、死のうと思っていたのだ。まして導かれるようにやってきた。ここで朽ち果てるのならそれも運命かもしれない。無機質な高層ビルから飛び降りるより、どれだけましか。

 

 観念して辺りを見まわすと、たぶん監視していた正体なのだろう。無数の妖しげな光がわたしを取り囲んでいた。死の世界へいざなうように。

 

 でも、なぜか懐かしさが募る。

 遠い昔、まだ物心がついたばかりで無垢だった頃。愚者も賢者も、金持ちも貧乏人も、生者も死者も、すべてが平等に見えていたことを思いだした。

 

 遊ぼ。

 不意に一つの光が湿地をはねるように近づいてきた。

 むかし、よく遊んだよね。と語りかけてきた。


 その瞬間、幼い頃の記憶を蘇らせる。忘れていた方言までも。

「したらば、木霊?」

 わたしは首を伸ばし、喘ぎながら問いかけた。

 そうだよ。きみは大人になって、ぼくらのことを忘れてしまったんだ。故郷もね。ずっとそばにいたのにさ。

「だども、見えなかったど」


 と、反射的に言葉を返したとき、わたしは木霊が見えていた頃の純粋な気持ちを失くし、逆に木霊へ背を向けていたことを思い出した。

 だから、事業に失敗したのだって利益しか追求しなかった結果。愛想をつかされた妻のことだってそうだ、年月を重ねるにしたがい家政婦ぐらいにしか考えなくなっていた。すべて生きるのに必要なのは金、そう思い込んでいたからに違いない。

 

 たまらなく涙が溢れてきた……とまらない。

 お帰り。

 無数の木霊が寄り添い、そんなわたしを引き上げる。

 その温かな光に抱かれて、ふわふわと心地よく宙を舞っていく。

 たぶんわたしは……木霊に戻るのだろう。           

 

 

『思い出の海』

 

 目前の夏を控え、さわやかな陽光に反射した海面が金色にきらめいている。沖へ目を向ければ、豆粒にしか見えないタンカーが水平線にのみこまれるかのよう航行している。

 水平線、あの先には何があるのだろう。


 私は少し湿った砂の上に座って、渚で砂遊びをする娘をじっと眺めていた。打ち寄せる波と戯れ、黙々と何かをつくっている。私はある感慨に耽りながら、その仕草を見つめていた。


「ねえ。あの子……最近あなたに似てきたと思わない」

 私は夫へ言った。

 一拍置いて、いつものように穏やかな声が返ってくる。

 そうかな。どちらかといえば君に似ていると思うよ。ほら目元なんか、君と見間違えるくらいだ。

「そうかしら。輪郭はあなたそっくりだし、鼻すじだって通っているじゃない」

 じゃ、僕と君は似ているのかもしれないね。夫が笑う。

「どうして。娘が自分に似ているのが、そんなに嫌なの」

 私は口調を荒げる。夫は黙った。

 

 六年前、この海へ二人で来たときもそう。夫はいつだって私の言うことに黙ってしまう。確か、あのときも残業続きで疲れていた。だから断ろうと思えば断れたはず。だって私は、新作のビキニを着て二人で砂浜を歩きたかっただけなのだから。

 黙って頷いた夫。一度我儘が通ると要求はエスカレートする。


「沖のほうへ行ってみたい」私は言った。

「だめだよ。妊娠しているんだし」夫はとめる。

「まだ二か月なんだから、平気だよ。それにゴムボートから降りないから」

 夫は黙った。受け入れた証拠だった。

 

 けれどゴムボートは突然の高波で転覆してしまう。夫は私の名を必死に叫び、捜し当てるとゴムボートに乗せる。縁をつかみながら浜へ誘導していく。私は少し塩水を飲んでしまったのか、ボートへしがみつつも、げほげほ咳き込んでいた。

 ボートは何事もなかったかのように浜辺に着く。でも……夫の姿はなかった。

 灰になってしまったのだ。私と、お腹の娘を助けるために。

   

「あのね」と、娘が私の腕を引っ張る。「今、パパに似た人がいたよ。一緒に、お城を作ってくれたんだ」

「パパって、パパの顔がわかるの?」

「うん。ママの携帯にシールが貼ってあるもん」

「それって、プリクラ?」

 そういえば、すっかり色褪せてしまったけど、無邪気にピースサインをする私の横に夫が写っている。込み上げるものがあった。


「そう……ほかに何か言ってた?」

「さよならって、言ってたよ。そしてママに、自由に生きてだって」

「え……?」

 じつは再婚話が進んでいる。そのため私は、区切りをつけるため今日ここへ来た。

 知ってたんだ。でも最後まで黙るなんて、ずるい。

 

 私はバッグから携帯を取り出すと、泣きながらシールを剥がす。

 沖の入道雲が、形を崩しながら微笑んでいた。

 

          

 

 

『家族の肖像』

 

 母の遺品を整理していたら、引き出しから、ひどく古い一枚の写真が出てきた。

 おそらく戦後まもない頃なのだろう。五歳くらいの母はおかっぱ頭で、見るからに粗末な衣服を着ていた。同じように祖母も。それでも母は、依怙地なほど笑顔を弾けさせている。

 横に祖母がいるからだと思う。

 

 親戚から聞いた話だと、祖母は戦争で伴侶を失い、親戚にも実家にも頼らず一人で母を育てていたらしい。美人なので水商売に転じれば、少しは生活も楽になったはずなのに、娘の将来を考え頑なに美術教師を続けていたという。

 けれど慰問にきた米兵に見初められ、熱心なプロポーズの後、祖母は母を日本に残して単身渡米したのだ。


 どうして連れていかなかったのだろう。 私には事情も理由もわからない。でも鬼畜だ。娘の将来など考えてもいない。

 子を捨て、自分の幸せだけを追い求める親なんて鬼畜と同じ、最低だ。子を産む価値などない。そう断言してもいい。私は写真を放り投げる。二度と見るもんか。

 

 しかし待てよと、ふっと母の残した作品を思い出す。

 母は仕事と雑事の傍ら独学で絵を描き続け、晩年、その奥深い筆づかいが絶賛され数作を世に出した。けれども母には生涯の傑作としながら唯一手放さなかった絵があったのだ。どこか、それと似ている気がする。

 私は投げすてた写真を拾い、母が他界してから一か月、すっかり人気の絶えたアトリエへ向かった。扉を開け、閉じっ放しだったカーテンを引いた。待ちかねていたかのように軟らかい光が広がり、部屋の片隅に置かれる安楽椅子の先に、その絵が映し出される。

 

 桜の木の下で寄り添う少女と犬が描かれていた。犬は少女に身体をすり寄せ甘えているが、少女はじっと空を見つめている。とても哀しそうに。

 写真と見比べた。

 母と娘、犬と少女。まるっきり構図も違うけど流れる感情はたぶん同じに違いない。きっと母は、祖母の気持ちも犬の気持ちも理解していたのだ。だから本当は甘えたいのに依怙地に笑顔を弾けさせた。裏付けるかに祖母の手は、血管が浮き出るほど強く母を抱きしめている。


 祖母にしてみても、当時の日本人に対する差別や感情を考え、何も海を渡るだけが娘の幸せとは思えななかったのだろう。リスクの先に真の幸せが隠されていようとも、母という生きものは愛する子の危険を事前に回避する。トラブルと隣り合わせの満点の幸せより、六十点でも確実な幸せを願うものだ。

 

 私は母が愛用していた安楽椅子に座る。ゆっくり揺らせながら、じっと絵を眺めた。そうして、もしかしたら祖母は日本に戻っていたのかもしれない。そんな想いを巡らせた。

 アメリカでは子育てを終えると子に頼らず、夫婦二人で暮らすのが普通だ。だから連れ合いに先立たれた祖母は帰国し、静かに母を見守っていたような気がする。

 そう思ったとたん、写真の母から依怙地な笑みが消えた。絵の少女からの切なさも。

 

          

 

 

『ナホバへ』


  雨の少ないダラスが煙っている。バスの窓硝子に水滴が張りついている。十五歳になったばかりのジョン・タイラーは、肩に凭れかかって眠る弟の重みを感じながら、前方に敷かれる検問を凝視した。


 二台の警察車両と四、五名の警察官が湿った視界の中で蠢いていた。車内を懐中電灯で照らして覗き、入念にトランクの中を確かめていた。それがダラスではごく日常的なことであっても、ジョンの胸に空虚な風が吹き抜ける。思わず右手で拳銃を握りしめた。

 かすかに火薬の臭いがする。


 ジョンは、ことあるごとに難癖をつけて弟を折檻する義父を、右手に隠し持つ拳銃で撃ち殺してきたばかりだった。

 弟を守りたかった。これ以上、弟を苦しめたくなかった。それで飛びかかった。すると義父は払いのけざま拳銃をつかみ、いきなり発砲してきた。

 運よく弾は脇腹をかすめただけで逸れたが、ジョンが腹を押さえて蹲ったため義父は動転した。血も滲み出ていたし、まともに命中したと思ったに違いない。

 ジョンはその隙を突いて再度飛びかかった。拳銃を奪いとり、躊躇いもせず眉間を撃ち抜いた。


 生まれ故郷のアリゾナへ、ナホバヘ行く。そう弟へ言い残して家を出た。

 が、弟はついてきた。やむなく二人でバスに乗った。弟は押し黙ったまま窓を見つめ、暗くなると声を立てずに泣いた。泣き疲れたのだろう。今は隣で寝息を立てている。


 ナホバヘの道のりは長い。人を殺した苦悩は、それよりも遥かに長いのだろう。雨がやまない。




『帰郷』

  

 夏には顔を見せておくれ。母が電話をよこしたのは半年前、ちょうど届いたばかりの蜜柑を息子と二人で食べているときだった。

 故郷はうら寂れた東北の寒村。そこで私は二十七年間両親と暮らしていた。村にはこれといった産業もなく、実家の生業でもある酪農を妻と一緒に手伝っていた。妻は幼馴染で、小さい頃からたがいを意識していた仲だった。

 おそらく運命というものに定められていたのだと思う。私たちは他の異性に目もくれず、一途に関係を貫いた。

 その妻が七年前、病死した。

 あまりに突然で何の兆候もなかった。まるで気まぐれな死神の思いつきで、半ば強引に連れ去られたようなものだった。だから医師の言葉が信じられなかった。嘘をついているのだと思った。

 しかし事実というものは揺るがない。どんなに否定しても、いなくなった人間は二度と甦らないのだ。

 私は働く気概を失くした。生きる気力も見いだせなかった。それで息子がおむつを外されたのを機に、心機一転東京へ出てきた。母が言うことには、その後、村はますます過疎の一途をたどり、鉄道も廃止されたという。

  

「廃線になったんだろ」私は面倒臭そうに言う。「車を持っていないんだ」

「そうだけど……」

 いつもなら気配を察してあきらめるのに、その日に限って母は食い下がった。

「七回忌なんだよ」

「考えとく」

 そう言って受話器を置こうとすると、母は執拗に付け足す。

「夕子さん、寂しがってるよ。命日には、必ず顔を見せてね」

  

「夏休みに田舎へ行くの?」

 息子が私の真意を探るように訊いてきた。物心ついてから一度も帰省していなかった。祖母はもちろん、母親と接した記憶すらないはずだ。

「行きたいか」

 尋ねると、息子が少し間を置いて答える。「決めるのは僕じゃない。だけど、親の意見は尊重したほうがいいよね」

 暗に祖母の言葉を指しているのだろう。それは行きたいという願望でもあり、成長した証しでもある。私は決断した。

  

 夜行列車に乗った。最寄りの駅に朝七時に着いた。駅前で朝食をとった後、片道十キロの道のりを廃線沿いに歩いた。

 村に近づくにつれ夏草の薫りが充満する。見渡す限りの緑がうねる。廃道と化したトンネルに入ると、レールに反響した靴音が静寂な森の中へ吸い込まれていく。少なくともここに都会の喧騒も煩わしさもなく、圧倒的な静けさだけがあった。


 そういえば小さい頃、妻と一緒にこの線路を通って遊んだ。耳をレールにつけ、どきどきしながら列車の振動を楽しんだ。二人で映画の一場面を真似たのだ。それが殊さら懐かしく、夢見心地で耳を澄ませた。

 次々と記憶が溢れてくる。

 そっと息子の顔を見た。何かを感じているのだろう。同じように耳を澄ましていた。

 躊躇いながら手を差し出すと、息子が手を握ってきた。

 その瞬間、失ったはずの空白が埋められていく。

 同じ血の通う、愛すべき手。私は強く握り返した。

  

「ねえ、お母さんってどんな人だったの」

 不意に、妻と同じえくぼを不器用そうにつくって聞いてきた。

 私は息子の頬をさする。

「えくぼの素敵な、明るい女性だったかな」

「僕に似てる?」

 ややもすると消え入りそうな声で言う息子の肩を、思わず引き寄せる。もちろんだ。

「もうすぐだね。あのトンネルを抜けたら、お母さんの、お墓があるんでしょ」

 ああ、そうだと肯いたとき、緑の蔦が揺れた。やわらかい風が私たちを包み込むようにして吹き抜けていった。


 

       了





『マジック』

 

 彼から終わりにしようと告げられて以来、ずっと頭の中で向日葵が揺れている。これまでも哀しみと遭遇するたびに、なぜか私の中で向日葵が揺れた。あのとき、感情を思い出の丘へ閉じ込めてしまったせいだと思う

 私は類のない泣き虫だった。心配した兄が、その都度マジックを見せて慰めてくれたのを覚えている。

 ある日、ふと一面の向日葵に埋もれたいと思い立ち、缶いっぱいの種を集めて手渡した。すると兄は戸惑いを見せた。今考えると、兄にはそうしてあげたくても、種を蒔く時間も観る時間も残されていなかったのだ。

 主の消えた机の上に、向日葵の種のつまった缶が無雑作に置かれていた。私は半ば無意識にそれを掴み、無我夢中で家を飛び出した。恋にも似た切なすぎるほどの憧れ、そのすべてを丘の土の中へしまい込みたかったから。そうすれば涙を封印できると信じていた。

 兄と私がいなくなり、庭の植木の手入れもしなくなったのだろう。すっかり生活臭の消えた実家の前を無言で通りすぎる。そうして稲刈りを目前に控えた畦道も無表情で抜け、思い出の丘へ続く草地の坂に差しかかったとき、私の背に真夏の日射しが容赦なく照りつけてきた。まるで親不孝と罵るかに。

 否定できない。その通りだと思いつつ無感覚を装った。

 登りきると葉をたくさんつけた椎の木が、思いがけず、昔と変わらぬ佇まいで私を迎えてくれた。風速計も歓迎するかに翼を揺らせている。それのみか、まさか咲いているとは予想もしなかった向日葵が、私へ向かいようこそと、揃って健気に背伸びをしてきた。

 瞬間込み上げるものを感じ、一度でいいから、彼らにすべてを包まれてみたいと夢想した。

 が、すぐに自分の愚かさを思い知り、へなへなと膝を地面へ落した。

 日が西へ移動する。ふいに強かった夏の日射しがやわらかくなり、風が時を揺り戻すかのよう丘の下から夏草を撫で上げてきた。きらきらと枯草も舞い、風速計が勢いよくまわり出す。

 向日葵が揺れた。椎の木の葉が揺れた。頭の中の向日葵も前を向けとばかりに私の心を揺さぶってくる。不思議というより心地よい感覚。まるで光と風に抱かれる揺りかごのような気持にさせられた。

 その直後、とつぜん辺りが背の高い植物に覆われた。

 蹲っていた私は思わず目を見張る。緑の茎と葉の隙間から覗くわずかな色しか見えないが、それがぜんぶ向日葵だと理解できたからだ。

 困惑して立ち上がると、西日に照らされた視界のすべてが黄色い向日葵一色に埋めつくされていた。

 もしかして兄のマジック? 空になった缶をしみじみ見つめ、私は封印していた涙を解き放った。泣きながらロープを遠くへ投げすてた。

 

       了




           

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