足長おじさん、もしくは人力主人公補正
抜け殻となったベットの端に、憲兵隊長アイアタルは腰かけていた。
布団の下はまだ温い。
この場所を利用していた者が去ってから、時間はそこまで経っていないようである。
「申し訳ございません、私が目を離した隙に」
副官コリンナの陳謝を受けて、アイアタルは一度ピクリと首を動かす。
「逃げた理由に心当たりはあるか?」
「彼女から、今後の処遇を聞かれました」
「何と答えた」
副官は、己の発言に語弊がない事を確認するように、何度も舌の上で言葉を転がす。
「……アイアタル様の指示通り伝えました。
教会の……孤児院に行く予定になっていると」
「うむ」
孤児を保護した際は、ゲシェフト枢機卿管理下の孤児院へ移動させるのが通例であった。
「質問をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「何だ」
コリンナが、恐る恐るといった様子で右手を挙げる。
彼女からしてみれば、今の上官ははっきり言って不気味の一言に尽きた。
保護対象を逃したことは、紛れもなく己の失策である。
普段であれば、短くも切れ味鋭い叱責を受けることは間違いない。
しかし予想に反して、この目つきの悪い上官は、こちらの説明に一言も怒りを漏らさず、思案に耽るように目をつむったまま腕を組んでいる。
まだ若い彼女では、アイアタルの心境を読み取ることは出来なかった。
「……アイアタル様はこの状況を予測していらっしゃたのですか?」
「いくつかの候補の一つには入れていた。
一応、予定通りだ」
「そう……なんですか」
返答を受けたコリンナは、現況が己の失態だけで起きたわけではないのだと理解し、表情にこそ出さないが心の奥底で安堵を覚えた。
「この一件は俺が引き継ごう。監視ご苦労だった」
アイアタルは腰を上げ、背中越しに部下へ労いの言葉を掛ける。
「どちらへ?」
コリンナの目には、彼の迷いなき足取りが、向かうべき場所を確信しているように見えた。
「心当たりが一つある」
「お供します」
追従しようとした副官を、人差し指で静止した。
「お前は監視対象を取り逃がした不始末に対する始末書を書け。
牢に入れず鎖に繋いでいなかったとはいえ、憲兵副隊長の役職を預かる者が、幼い少女に出し抜かれたとあっては他に示しがつかん」
「深く反省させていただきます……」
目に見えて落ち込むコリンナを置いて、長い廊下を早歩きで進んでいく。
前を歩いていた文官が、ただでさえ威圧的なアイアタルの鬼気迫る前進を視認して、自然と通路の端に寄った。
「事が動き出した。任せたぞ」
周囲の耳に届かぬほどの小さな独り言は、この場にいない誰かに向けて発しているようであった。
◆◆◆
小さい頃の記憶は曖昧だ。
一番古い記憶は、どこかのオンボロの小屋で、お兄ちゃんに好物をとられて泣かされていたもの……だと思う。
ある日、ヒルダお姉ちゃんって人の部下になった。
私が反撃できないことを知っているから、お姉ちゃんは気に喰わないことがあるとすぐにアチキをぶった。
でも暴力さえ我慢すれば、ちゃんとご飯と寝る場所をくれるから悪い人じゃないとは思う。
ヒルダお姉ちゃんは、アチキにナイフを持たせて、魔物や人間を倒すように命令してきた。
アキチが上手く倒すと、ヒルダお姉ちゃんは上機嫌になって暴力をあまり振るわなかった。
大きくなると、それが人には自慢できない仕事だというのが、何となく分かった。
こんなこと続けていたら、ヒルダお姉ちゃんもアチキも偉い人に怒られると思う。
やりたくないとは思っても、背中に刻まれた痛い模様が邪魔して止めることは出来なかった。
罰は思ったより早く下された。
黒い衣の死神が、お兄ちゃんお姉ちゃんまとめて命の灯を消した。
ようやくアチキ達が喰われる側になったんだと安心した。
けれど、死神はアチキの命を取らなかった。
死神はエンドウお兄ちゃんという名前で、これまで出会った人の中で一番私に優しくしてくれた。
暖かい寝床と、暴力を振るわないコリンナお姉ちゃんを用意してくれた。
ベットの上から動いちゃダメって言われて退屈だったけど、時々顔を見せるエンドウお兄ちゃんとお話するのがちょっとした幸せだった。
ある日、コリンナお姉ちゃんに聞いてみた。
「アチキはどうなるの?」
コリンナお姉ちゃんは親切に答えてくれた。
「少ししたら、孤児院……つまりこことは別の場所に移されてる予定だ」
答えを聞いて、アチキの胸の奥に何とも言えない気持ちが生まれた。
アチキが孤児院へ移送される前に、お兄ちゃんは会いに来てくれるだろうか。
それ以前に、アチキが移送されることをお兄ちゃんは知っているのか。
この部屋を出るまでに再会できる奇跡を待つくらいなら、
最後に一度ぐらい、アチキからエンドウお兄ちゃんに会いに行きたかった。
夕暮れを過ぎ、薄暗い闇の中に街灯がぽつぽつと光りだす。
男の人も女の人も、みんながどんちゃん騒ぎしている間を、アチキはするりと通り抜けていった。
大勢の人間からたった一人を見つけることは、思った百倍難しかった。
大分走ったので足の裏がとても痛い、こんなことなら靴を貰っておけばよかった。
何を準備したらいいとか、何に気を付けたらいいとか。
そんな難しい事はいつも、お姉ちゃんとお兄ちゃんに任せっぱなしだったから良く分からない。
もう一度会えたら、エンドウお兄ちゃんはなんて言うだろうか。
『どうして憲兵の言う事を聞かなかった』と怒られるかな。
だんだんと両足の感覚がなくなってきた、思った以上にアチキの体はフラフラだったみたい。
朦朧とした意識の中、誰かがアチキの手を引いている。
背は高く、必死に見上げても顔を見ることが出来ない。
遠い昔、誰かに言われたっけか。
知らない人について言っちゃいけませんって。




