八つ当たり
世界で一番有名なサレインズ湖城は、東大陸のどこかにあると噂されていた。
地域によっては伝説化、神話化されつつあり、人々は豊かな想像力を用いて思いを馳せる。どのような豪傑を従えているのだろう、どれほどの美女を侍らせているのだろうと。
場所が特定されていないにも関わらず、これほど名が売れた理由はただ一つ、世界最強と誉れ高い男の居城だからである。
ヴラド・ロシュ・ドラクルは、王座から傅く二名を睥睨していた。
刺繍に彩られた絨毯の中央にて膝をつくのは、無精髭が様になる大男。
後ろに佇んでいるのは、例の洞窟の奥で冒険者クロードの首を絞めた少女である。その出で立ちは異様であった。頭こそ下げているものの膝をつかず、突っ立っているとも言うべき姿、敬意の薄さを無言で語っているようである。城の主に対してとる礼儀であろうか。
目の前の存在は個の究極とも言うべきもの、ヴラドを知る識者が見れば恐怖で卒倒しかねない行為であった。
城主はそれを咎めることをせず『善し』としていた。
確かにおおまかな視点で見れば、彼女は勢力の傘下に与していることには間違いない。しかし、厳密に言えば彼女個人の忠義の向く先はこの恐王でないのだ。
ヴラドは内容を加味した上で美点を見出し、少女の態度を許容していた。
「――下がれ、レメント」
名を呼ばれた本人は一礼して去って行く、少しばかり肩を落とした様子であった。
情けない後ろ姿に王の眼が少々開かれた。
「――あの格好を見るにお前が勝ったか」
ビルガメスと彼女が強襲を掛ける前日、二人はどちらが先に勇者達と矛を交えるか、競っていた事を想起したのだ。
「その審判待っていただきたい」
彼女が消えた先を追っていた視線が狂戦士の頭上へと向けられる。
「負けか?」
「双方至らず、であれば引き分けが落としどころかと」
勇者達を見ることすら叶わなかったレメントと、勇者の前に立ち、攪乱したビルガメス。
ビルガメス本人はこの二つの比較による勝敗を不服とした。勝利条件を満たすにしても質というものがある。勇者達、Sランク冒険者全員を叩きのめし、護衛の騎士は皆殺しというものが、他者に反論の余地を与えず己も納得できる境界であった。
だが実際に直接武器を交えた勇者は柿本俊のみ。これを以て勝者となるのはビルガメスにとっては耐えがたかった。
成果が芳しくなかった他人と比べることでしか、勝利の美酒に酔えぬと言うのはなんと三下の思考、小さき器かと蔑視したのだ。
「それもよかろう」
ヴラドは彼の思考を悟った上で無視する。
所詮は他人同士の取り決めである。それへの興味など、今より伝えられる情報への好奇心の前では吹いて消える塵芥に等しい。
「――見定め程度は容易であろう、勇者は熟れていたか?」
この一言に魔王ヴラドとしての在り方が集約されていた。
形式上とはいえ言峰達勇者は天敵なのだ。遠くない未来こちらへ刃を向け、屠り去ろうとする可能性があるならば、未成熟である今潰すという手もある。
それを是とせずに、あえて待ちに徹したのは、勝敗よりも闘争に命を燃やす王の気質に帰結していたからである。
「充分にあらず、しかし素質は前以上かと」
「ならば善し」
ビルガメスは喜色を含んだ主の頷きと同調するように、口の端が上がる感覚を覚えた。
自らの一撃を凌いだ賢者がいた、
命を捨てて仲間を守ろうと動いた少年がいた、
そして己の誇りを守った戦士がいる。
勇者サトウの死によって、つまらぬ国になったと主から聞き及んだが、なかなかどうして。
「――しかし、その傷は勇者からではあるまい?」
王が指さしたのは臣下の鎧に刻まれた掌底の戦痕。燃えるような輝きを帯びた鉄板に亀裂を走らせ、はっきりと掌形が観察できる。
「――素晴らしいひとときを過ごせたか? 斧使い」
「四半刻にも満たぬ時ではあるが」
「語ることを許す。味は一口で終わろうとも言の葉に表せば無限の彼方に等しいのだ。
我が脳髄を震わせることに努めよ」
傲慢な物言いに対してビルガメスは非難を浴びせず、淡々と戦果を語り始める。かつて敵同士であった互いが、主従として成立している大きな理由。それは、両者が戦闘狂である一点において合致しているという、単純かつ強力な事実に収束していた。
◆◆◆
「突風悉く我に従え、廻れ廻れ風車、此即ち触れる者無」
舌を噛みそうな呪文を早口で唱えたクラマは、遠藤、バット、カレラの前で錫杖を突き立てる。
リング外へと避難した彼女ら四人を、今包もうとしているのは龍捲結界という名を持つ彼女のとっておきである。限りなく透明な暴風が周回しており、何もないと高をくくって近づけば、力士の張り手に勝る衝撃か、居合いにひけを取らぬ鎌鼬が、術者の気分次第で襲い掛かる。
……風体を表すならば、怒髪天を衝いているという言い方が似合う。
先ほどまでの少年の面影は、もはやどこにも残してはいない。
「中村……ではないな」
「AAAAAAAAA……」
話しかけると返事の代わりに、怒りに満ちた貌がこちらを睨み、怒気がすべてこちらに叩きつけられる。そのなんと荒々しいことか。人はしばしば激怒した他人を『鬼』という人外に見立てたが、確かに目の前の男の刺すような気迫を受ければ頷ける話である。
尤も、彼の姿は鬼よりも龍に近しいのだが。
状況を整理する。
最も重要な項目として、今中村賢人の身体を突き動かす意思は中村本人の者なのか?
謎を解く鍵は疑いようもなく制御術式。
それらしい過程を立てみる。
制御術式被術者は、Lvを挙げても大して強くはならない。
Lvアップ時のステータス上昇やスキル獲得など、本来得るはずだった力を術式が妨害し、体内に閉じ込め留まらせるためである。
憶測になるが、一定以上のレベルを上げた後術式を解除すると、溜め込んだ力が一気に身体へ反映されるのではないだろうか。
ここで問題になるのが当人の精神面である、即ち身体の劇的な成長に心が追いついていかないのだ。血糖値の急激な変化によって気絶してしまう症状に近い。
ならば、本人の意識が開けた席に居座わったのは、身体中に満ちあふれている力そのもの。
それらしい過程を立ててみた。
……だから何だというのだ。
仮にこの推論が正しいとするのであれば、中村自身の心がこの場を収める切り札となるのだ。
心の揺らぎを獣の本能にて鋭敏に捕らえたのか、右拳がこちらの顔面を捉えていた。
首を傾けて躱すと、予想出来ていたのか左手の巨大化した爪が、アッパーの要領で自分の喉元に突進する。これもまた半歩引いて躱す。
やむをえまいと、鳩尾に狙いを定めると目の前の存在が上へと移動した。
見上げると、中空に優雅に翼を広げてこちらを見下ろしている。口が大きく広げられ、喉の奥に光が見え隠れした。
一瞬の閃光、次にこちらの軽防具の前半分が大きくえぐれ、胸の辺りに熱を感じ、目の前が朱で塗りつぶされ、耳がしばらく使い物にならなくなった。
左足で石タイルを割りながら、前からの圧力に何とか持ちこたえる。
力のブレスは数秒で途絶えた。
視界良好とは言い難い周囲へ、すぐさま尖らせた神経で探りを入れる。
気を緩めてはいけない、煙炎の中よりこちらへ急降下する気配が一つあるのだ。
煙をかき分け出てきたのは、あびせた当人である。再び大きく開けている口には、鋭く研がれた牙が左右上下ずらりと並んでいる。あれを肌に突き立てられれば無事では済まないだろう。
腰を落として身を低くすると、鋭い風切り音が頭上を通過していく。
着地の瞬間を狙って、彼との距離を一気に詰め寄った。
「中村! 聞こえるか!?」
左右の肩を両手で鷲掴み、身体の奥へとなりを潜めた中村の心に訴える。
あまり効果のない手段であったかもしれない。しかし他に策もない今、彼の覚醒のために人事を尽くしたかった。
その瞬間、偶然彼の瞳と視線が合う。
烈火のごとき朱い攻撃色である。しかし、ここまで近づいたからこそ殺意以外の何かを奥底から読み取れた。
焦燥感に駆られていたのかもしれない、急激に心が冷めて頭がはっきりとする。
「……そうか」
今まで中村本人の心に焦点を置いて、事を進めていた。
目の前の力の気持ちなど『そういうものだ』と片付けて、真っ先に考えることを止めていた。解決したいならば中村と並んで、取り組むべき事柄であるはずなのに。
言うべき言葉が自然と心に湧いた。
「……怒りの矛先がこの場に誰もいなくて寂しいか?」
尻尾がピクリと反応する。
「むなしいのだろ? 八つ当たりがしたいのだろ?」
構えを解いて自然体で数歩下がる。
敵意とはまた別の感情が伝わったのか、相手は何もせず向かい合っている自分の行動を見届けた。
二歩程度の距離まで離れたところで、握りしめた右手を前に差し出す。すると、赤い硬皮で覆われた巨拳が突き合わせてきた。
「……もう避けない、耐久力には自信があるんだ」
今日一番の獣の咆哮が轟いた。
戦術や防御をかなぐり捨てた、正真正銘全力の拳がこちらにめがけて飛んできた。
あえて無防備を晒すと、視界が僅かにぶれ、右頬に鈍い痛みが残る。
こちらも彼の腹に喰らわせる。
この日二回目の殴り合いである。今回は鎧という壁はない。
二度としないと心に誓ったはずなのだが。