梅雨明け前の夕暮れに 第9話
「みなさんは、お互いのことをお名前で呼び合うほど仲がよろしいのですね……」
眉尻を下げた笑みで、さゆりはいった。
親しげに名前で呼び合う彼らがうらやましかった。はじめは気にならなかったが、名前で呼
ばれないことに、彼らを名前で呼べないことに彼女はさびしさをおぼえた。
「ええ。わたしたちは仲良しさんなんですよ。ね、蘭くん?」
「え、ええ……」
うれしそうにほほ笑む翼に蘭が躊躇うようにこたえると、
「蘭くんは、翼さんやわたしと仲がいいとおもわれるのがお厭ですか?」
「そんなことありませんよ。むしろ、光栄におもってるぐらいです」
志摩子にさびしげな貌をされ、蘭はごまかすように笑いながら紅茶を一口飲んだ。
「一条さん」
「はい」
三人の会話をさびしげに聞くさゆりに翼が笑みをむけた。
「わたしは先生ではありませんから、名前で呼んでください。よろしければわたしも一条さんのことを、さゆりさん、とお呼びしますから」
「え、ですが……」
「わたしのことも名前で呼んでくれていいのよ」
「常緑様……。ほんとうによろしいのですか……?」
「もちろんよ。できればわたしも一条さんのことを、さゆりさん、て名前で呼ばせてほしいわ」
「それはかまいませんけれど……」
「あのー、さっきから気になってたんだけど、どうして志摩子さんだけ様付けなの?」
不思議そうに蘭が尋ねた。
「わたしが通っていた女子校では上級生の方を様付けで呼んでいたので……」
「うわあ……。ほんとうにそんな学校があるんだ」
素直に驚く。
「もしかして、上級生を『お姉様』とか呼んだりする人もいた?」
「はい。仲のいい上級生と下級生はほんとうに姉妹のような関係でしたから。転校しない限り、大学までいっしょですし。ほんとうの姉妹のように深い絆で結ばれた方々は、卒業後も、ずっとお付き合いがつづいているそうです」
どこか、神聖なものに憧れるような調子でいい、さゆりは胸の前で指を組み合わせた。
……冗談のつもりで訊いたのに……。
少しあきれながら蘭は、挨拶は絶対『ごきげんよう』だとおもった。
「それじゃあ、一条さんは今度から志摩子さんのことを志摩子さまって呼ぶの?」
「お名前でお呼びしてもいいのなら、そのつもりですけれど……」
「さゆりさん、せめて『さん』にしてくれないかしら。ここはあなたの通っていた学校とは違うのだから……」
困惑したように志摩子がいうと、
「御迷惑でしょうか……」
不安に揺れる眸で見つめられた。
「……わかったわ。お好きになさい」
「ありがとうぞんじます、志摩子さま。わたしのことは、さゆりとお呼びください」
「さゆり」
「志摩子さま……」
「見つめ合うふたりは、どちらともなく白い指を重ね合わせた。触れあう肌から互いのぬくもりを感じる。うっすらと上気した顔にかかる吐息が互いの鼓動を早くし、相手を想う愛しさが溢れてくる。やがて、そうすることが運命であるかのように、紅くやわらかな薔薇の花弁がゆっくりとふれあった。はじめは恐る恐る、だが、すぐに、深く激しくなってゆく。ふたりの邪魔をする者など、どこにもいない。ふたりは互いに求めあい、何度も唇を重ね、抱き合う。そして、沈むような、溶けてゆくような感覚の中、ふたりは冷たい床の上に横たわった。「いいのね?」「はい。お姉さま……」その日、誰もいない放課後の司書室でふたりは結ばれた……。こんな感じですかね、翼さん?」
「わたしに振られても困るのですけれど……」
苦笑。
「そ、そんなんじゃありません! ひどいです小日向くん!」
「でも、いまのふたりのバックには、絶対花の絵が出ていたとおもうなあ。ぼく、ちょっとドキドキしちゃったよ」
「たしかにふたりが見つめ合っていると、なんといいますか、こう……、独特な美しさがありますね」
「ふふ、こうゆう世界も悪くないかもしれないわね」
「志摩子さま!?」
「わたしのこと、『お姉さま』と呼んでもいいのよ?」
微笑み、さゆりの肩にふれる。
「そ、そ、そんな、わた、わたしは、べつに! そんなつもりでは!」
「うふふ、冗談よ」
「うう……、みなさん、わたしのことをからかっていらっしゃるのですね……」
羞恥に頬を染め、さゆりがうつむくと、
「ごめんなさい、さゆり。あなたの反応がかわいかったものだから、つい悪のりしてしまったわ。でも、そうね。志摩子さまより、お姉さまと呼ばれるほうがいいかもしれないわね」
志摩子がさゆりの髪を梳くように耳にかけた。
「え、ですが、それは……」
今日、初めて話をしたような人を『お姉さま』と呼んでいいのだろうか? 自分なんかが志摩子の妹になってもいいのだろうか? さきほどのように冗談をいうような軽い気持ちでいってくれているだけなのではないか? ……いや、おそらくそうなのであろう。彼女はたんに、そう呼ばれるほうがいいとおもっているだけなのだ。だが、ほんとうに彼女が自分の『姉』になってくれたら……。
志摩子が自分の『姉』になってくれたらどれほど心強いだろう、とさゆりおもった。
学校に親しい友人がいないさゆりは、学校に来るのを辛いと感じていた。慣れない環境のなか、ひとりでいるのがさびしくて、ずっとこころぼそかった。それゆえ、こころの拠り所となるような存在を、彼女はほっしていた。
「わたしを姉と呼ぶはいや?」
「いえ、そのようなことはないのですけれど……」
「いいなあ、一条さん。ぼくも志摩子さんにお姉さまになってほしい~」
ふざけた調子で蘭はいったが、彼の胸のうちは複雑だった。
いままで三人で過ごしていた時間に、これからはさゆりが加わるかもしれない。いや。このようすでは、ほぼ確実にそうなるだろう。自分は、彼女がこの穏やかな時間に割り込んでくることを、正直、疎ましいとおもっている。そう、おもってしまう。
べつに、彼女のことが嫌いなわけではないのだが(それなら初めから話しかけたりはしない)、いまのところ彼女に対して特別な興味や関心を持ってはいない。必要以上に親しくなりたいとはおもっていないのだ。なぜなら、彼女は自分なんかとは住んでいる世界がちがうと感じているからだ。精神的にも、物質的にも。そう、彼女はおそらく恵まれた人なのだ。なんとはなしにそういった雰囲気を感じる。彼女のような人が近くにいると感情が、死体にわくウジ虫のように醜く蠢く。
――劣等感。
生れながらのブルジョワジーに感じるような、これは、たぶん、そういった感情の揺れ。恵まれた者に対する、持たざる者の惨めな気持ち――ルサンチマン。ようは、彼女が羨ましいだけなのだ。なんと浅ましく、卑しい気持ちだろう。そして自分は、自分よりも劣る不幸な人を視て、自分を慰めるのだ。最低だな……!
……一条さんのそばにいたら、ぼくは自分の醜さに堪えられないかもしれない……。
吐き気に襲われ、蘭は呻き声をあげそうになった。
「いいですよ、蘭くん。家は女系家族ですし、わたしは四人姉妹の末っ子ですから蘭くんが弟になってくれたらとてもうれしいです。これからは、わたしのことを姉さんと呼んでください。もちろん、お姉さまでもいいですよ?」
「スミマセン、ぼくには無理です」
即答だった。
「うふふ、それは残念……。でも、弟になりたくなったらいつでもいってくださいね」
おおげさに頭を下げる蘭に、志摩子はさみしさをふくんだ声で、慈しむようにいった。
「さゆり、あなたはどう?」
「わたしは……」
「ただの呼び方よ。そんなに難しく考えないで。ああ、でも、無理強いするつもりはないの。だから、さゆりの好きなように呼んでちょうだい」
「……はい」
「いまはまだ話したばかりの先輩後輩かもしれないけれど、これから仲良くなってゆきましょう。それこそほんとうの姉妹のように。大丈夫よ。あなたとわたしはきっと合うわ」
志摩子はさゆりの手をとり、そっと両手でつつみこんだ。
「志摩子さま……」
ひんやりとした志摩子の掌から、ぬくもりが伝わってくる。
……あたたかい……。
さゆりはやすらぎを感じながら、ふと、母のことをおもいだした。
……お母さまのようなぬくもり……。
母に会いたくなった。
母に抱きしめてほしくなった。
「……お――志摩子さま……」
いままで堪えていた不安やさびしさが、さゆりの眸からあふれだす。
「どうしたの、さゆり……?」
さゆりの瞳からつうっと流れ落ちた一条の光に、志摩子は戸惑う。が、すぐに、志摩子は
さゆりの目尻をやさしくぬぐうと、さゆりを引きよせ、自分の胸に抱きしめた。
「……志摩子、さま……」
抱きしめられたさゆりは、尊い命のぬくもりを感じた。このまますべてをゆだねてしまいたいとおもった。
「……ほんとうにお姉さまなってくださるのですか? わたしを妹に、してくださるのですか?」
志摩子の胸に抱かれたまま、ふるえる声でいった。拒絶されるかもしれない、とおもうと怖くて面を上げることができなかった。
スカートの端をぎゅっと握りしめる、さゆりの手が志摩子の眸に映った。ふるえているのが伝わってくる。さゆりのことばに、志摩子はただならぬおもいを感じた。が、志摩子はすぐに、覚悟を決めた。さゆりの『姉』となる、覚悟を。
「……もちろんよ。うれしいわ」
抱きしめる腕におもいをこめ、志摩子はいった。
さゆりのいう『姉妹の関係』は、おそらく自分がおもう以上に、尊い関係を結ぶことなのだろう。彼女は、翼がこの部屋に招くような人なのだから親しくなれるだろうとはおもっていた。そこには、ひそかな願望もあったが、それをぬきにしても友人になれるとおもった。
だが彼女は、それ以上の関係を望んだ。互いのことをほとんどしらないのにもかかわらず、彼女はいったのだ。ふるえる声で。姉になってくるのか、妹にしてくれるのか、と。そんな彼女のおもいを自分は切り捨てることなどできない。
だから、覚悟を決めた。姉妹ごっこではなく、ほんとうの、血のつながった姉妹以上の姉妹になろうと。これはたんなる勘にすぎないが、彼女とはきっとそうなれるとおもう。それに、こうなることは、彼女を抱きしめたときに決まっていたのだろう……。
抱きしめるさゆりを愛おしくおもいながら、これもきっと運命なのだ、と志摩子はおもった。
「ありがとうぞんじます……お姉さま……」
さゆりは志摩子に身をゆだね、彼女の身体に腕をまわした。
「お姉さまはまるで、マリア様のような方ですね……」
「っ……ありがとう。けれど……」
「お姉さま?」
「わたしは――」
マリアではないわ、と己の無力さを責めるような、かなしい声で志摩子は呟くようにいった。
志摩子の胸に抱かれたさゆりには彼女の貌はみえなかった。




