梅雨明け前の夕暮れに 第50話
放課後の図書室は濃い陰影のなかに沈んでいた。
図書室は本が痛まないよう西日がはいらない場所にある。そのため、いまの時刻は外よりも室内のほうが暗く視える。明るい外と暗い室内を視ていると、浮遊感のようなものに襲われ、まるで異世界にいるような、すべてが書割でできた世界にいるような、そんな錯覚に陥ってしまいそうになる。
室内を見回しても人影はない。
ここにいるのは貸し出しカウンターの席に坐る蘭とさゆりのふたりだけだった。
蘭はヘッセの『郷愁』を読み、さゆりは蘭から薦められた武者小路実篤の『愛と死』を読んでいる。時折、さゆりは本から顔をあげて隣に坐る彼の横顔をそっと見つめていた。話しをしたい、声を聴きたい。そういうおもいもあったが、彼の横顔を視ていたいというおもいのほうが強く、自分から話しかけることはしなかった。話しかけなかった理由の中には、自分には彼のように面白い話などできはしない、という消極的なおもいもあったのだが、たとえ面白い話ができたとしても彼女は本を読む彼に話しかけるようなことはしなかっただろう。
彼女は、彼が本を読んでいる姿が好きだった。本を読む彼の隣に坐り、彼の横顔を見つめる。ただそれだけのことで彼女のこころは満たされた。そして、ふと、彼女は気づいた。
自分がいま、彼を独占している、ということに。
ふたりだけで過ごす時間。その時間の間だけは、世界中でただひとり、自分だけが彼を独占していられる。光がすべりおりる髪を、ふるえる睫毛を、真剣な眼差しを、彼の横顔を、自分だけが視ていられる。
そしていま、彼の眸に映るのは――自分だけなのだ!
そうおもったとたん、胸が高鳴り、息が苦しくなった。
しらなかった。こんなしあわせがあることを。恋する人といっしょにいられることが、こんなにも、しあわせなことだったなんて……。恋をすると人はこんなにもしあわせになれるものなのか。これでもし、このおもいが叶ったら自分はどうなってしまうのだろう? しあわせ過ぎて死んでしまうのではないだろうか? ああ、もしそうだとしても、彼と結ばれたい。彼とひとつになりたい……!
甘く、苦しい、せつない時間をすごしながら彼女は彼へのおもいを募らせていった。
おもいは溢れて止まらず、このままではとんでもないことをしてしまいそうだ、とおもった彼女は本に集中しようとする。が、文章がさっぱり頭にはいってこない。何度も読み返してはなんとかページを進めてゆくが、このまま読み進めても、この本を薦めてくれた彼に悪いとおもった。
花びら一枚、散らすような吐息。
さゆりが苦しそうに熱い吐息をこぼし、潤んだ瞳を彼に向けると、
「?!」
たまたまこちらを向いた彼と眸があってしまった。
きりのいいところまで読んだのか、蘭は本を閉じている。
「どう? おもしろい?」
ほほ笑みながら彼が尋ねた。室内が薄暗く、彼は彼女の変化に気づかなかった。
「え?! えっと、あの、おもしろいです! 蘭くんがおっしゃっていたとおり、読みやすいですし……」
羞恥に頬を染めながらも笑顔で答える。彼にほほ笑みかけてもらえたことが、彼の声が聴けたことが、うれしかった。胸の奥からあたたかなものが滲み出て、身体の隅々まで広がる。
「そっか。それならよかった」
なんとはなしに彼女が広げているページを見る。あまり進んではいないページを見て、彼は淡く苦笑をこぼした。
「ちが! ちがうんです! これはけっしておもしろくなかったとかではなくて! あの! ほんとにおもしろいとおもいます、この本! でも、その……読んでいるさいちゅうに、考えごとをしてしまって……物語に集中できなくなってしまって、それで……」
「あー。あるある。そういこと。そういうときって無理に読んでもダメなんだよねー。文章が頭にはいってこないし、何度も読み返しちゃうから、なかなか進まない。ぼくもたまにそうなるよ」
「すみません……せっかく蘭くんが薦めてくれた本なのに……」
本を閉じ、うつむく。
「気にしないでいいよ、そんなこと。さゆりさんの好きなペースで読めばいいんだから」
「……そ」
肩をかすかにふるわせ彼女は声をもらした。
「そ?」
「あ、えっと……そ、そういば! どうして蘭くんはこの本を薦めてくれたのですか?」
おもいを飲み込み、彼女はべつのことを口にした。
……そんなことではありません。わたしにとって大切なことです……。
彼にとっては些細なことなのかもしれない。だが、彼女にとっては大切なことだった。彼が薦めてくれた、彼が自分のために選んでくれた本なのだ。大切に決まっている。それなのに、そのことをないがしろにするようなことをしてしまった自分に、彼女は自己嫌悪をおぼえる。と同時に、彼がそのことを、なんでもないようにいったことに対して(自分のことを気遣ってのことだとわかっていても)彼女はほのかに憤りをおぼえた。
彼女から尋ねられた彼は、
「どうしてって……ぼくが読んだ恋愛小説のなかでは、これが一番、さゆりさんに合うかなあっておもったから」
少し考え、いった。
「蘭くんはわたしのことを考えて、この本を選んでくださったのですね。うれしいです」
心からうれしそうな笑み。
「え、うん、まあ、そうだけど……。普通そうじゃない?」
「そんなことはありませんよ。自分の好みを押し付けるだけの人もいますから」
彼のやさしさを感じながら、さゆりはことばをつづける。
「蘭くんはこの作品のどのようなところがお好きなのですか?」
「夏子さんにモエられるところ」
「萌えられる……?」
「そう。夏子さんモエー」
「萌え……」
モエの意味がよくわからなかったが、
……好き、ということでしょうか?
彼の言葉のニュアンスからちがう言葉に置き換えて、彼女なりにモエを解釈した。
「夏子さんって素敵な女性ですよね……明朗快活で、まるで――」
東堂さんのようだ、とおもった。
「まるで?」
「あ、いえ! なんでもありません。蘭くんは夏子さんのような女性がお好きなのですか……?」
不安を隠し、なにげない調子で尋ねた。
「好きだよ?」
「っ……」
「でも『罪と罰』のソーニャみたいな女性も好きなんだけどね」
「ソーニャさん……」
哀しい運命に翻弄されながらも懸命に生き、そして、罪を犯したラスコーリニコフを愛した少女。ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ(愛称はソーニャ、ソーネチカ)。夏子のような眩しい輝きはないが、ひっそりと咲く美しい花のような少女として物語には描かれている。夏子とはまったく逆の印象の受ける少女だ。
……夏子さんのようにはなれないですけれど、ソーニャさんのようになら……。
彼がソーニャのような女性も好きだというのなら、自分にもまだ、望みはあるかもしれない。
彼女がそうおもっていると、
「小説のヒロインってみんな魅力的だよねー」
他にも、といって彼は好きな小説のヒロインの名前を次々と挙げていった。
「あ、あの、蘭くんはどの女性が一番お好きなのですか?」
「一番? ……う~ん、一番は決められないなー。どのヒロインも魅力的だし」
「そ、そうですか……」
蘭の言葉に拍子抜けしながらも、
……でも! それなら、わたしにもチャンスがあるってことですよね!
さゆりは落ち込んでいた自分を励ました。
「でもね。その作品を好きな理由は、夏子さんモエだけじゃないんだよ? ほかにも好きな理由があるんだ」
「え、えっと……それはどのような?」
「共感できるところが、あったんだ……」
「共感、ですか?」
「そう。ぼくと同じようなことを考える人がいるんだなあって」
「蘭くんは、どのようなところに共感なされたのですか?」
「ひみつ」
「教えてはくださらないのですか……?」
「教えちゃうと読んでるときにそこを意識しちゃうかもしれないからね。初めて読む作品は、なるべくそういうのがないほうがいいとおもうよ?」
「そ、そうですよね……。蘭くんのおっしゃるとおりだとおもいます」
彼がこの作品のどのようなところに共感したのか、彼女はとても気になった。だが、彼のいうとおり、それを訊いてしまったらこの作品を純粋に楽しめなくなるだろう。それは作品に対しても、この本を選んでくれた彼に対しても礼を失することになる。そうおもった彼女は、馬鹿なことを訊いてしまった、と恥じ入りながら胸のうちで反省した。
「……」
「……」
ふと、会話が途切れ、夏の空気がふたりをつつんだ。
時刻は午後五時十一分。
開け放たれた窓から蝉の声が聞こえてくる。二、三日前から鳴きはじめた蝉の声は、まだ、それほどうるさく感じられない。ときおり、蝉の声に交じって生徒たちの楽しげな声も聞こえてくる。目前に迫った夏休みというイベントに胸を高鳴らせ、漠然とした期待を隠した声だ。
夏という季節は不思議と人に、なにかを期待させる。特に一ヶ月以上も休みがある学生ならなおさらだろう。休みの間に、なにかあるのではないか? と漠然と期待し胸の高鳴りを覚えるのだ。だが、ほとんどの生徒には特別なイベントが起きることもなく、苦笑しながら二学期を迎えることになる。
もちろん、なにかが起こる生徒もいるだろう。しかしそれは、必ずしも楽しいこと、うれしいこと、しあわせなこととは限らない。残酷な運命はいつでも、どこでも、ふいに人を襲うということを忘れてはならない。
「……」
さゆりは蘭の隣で面をふせ、なにか話さなくては、と焦っていた。沈黙がつづけば、つまらない奴だ、と彼におもわれてしまうかもしれない。そうおもったからだ。だが、考えても考えても、なにを話せばいいのかわからない。気持ちばかりが先走ってしまう。もともと人と話すのが苦手なこともあるが、いつも彼が話しかけてきてくれるので、自分から彼になにを話せばいいのかわからなかった。
なにか、なにか彼に訊きたいことはないのだろうか?
……東堂さんのことをどうおもっているのか、訊いたら教えてくださるでしょうか……。
彼は彼女のことをどうおもっているのだろう? こんなことを訊いたら変におもわれるだろうか? でも、気になる。彼は彼女のことが好きなのだろうか? もしかしたら、自分が知らないだけで、ふたりはもう付き合っているのだろうか?
訊きたい、とおもったがほんとうにふたりが付き合っていたらとおもうと怖くて訊けなかった。
沈黙という名の圧力に耐えかねて悪いことばかり考えていると、
……あ……。
さわやかな風が彼女の頬をなでていった。
強張っていた身体から力が抜けてゆく。
そっと彼の様子を窺うと、彼は気持ちよさそうに眸を閉じ、この快い風を楽しんでいた。
「……」
彼に倣うように眸を閉じ風に身をゆだねる。
……気持ちいい……。
身体の火照りとともに焦っていた気持ちが消えてゆく。
沈黙も悪くない、とおもった。
無理に話さなくてもいいのではないだろうか。自然とことばが生まれてくるの待てばいいのではないか。たとえ話さなくても、彼は自分のことをつまらない奴だとおもうような人ではない。それに彼はいま、この風を楽しんでいる。それを邪魔するようなことをすれば、それこそ彼につまらない奴だと、風情をわからない奴だとおもわれてしまうのではないだろうか? いまは、彼とともにこの風を感じ、身をゆだねていればいいのだ……。
しばらくの間ふたりは快い風を楽しんだ。
やがて風が止むと、
「……夏休み楽しみだね」
おだやかな声で蘭がいった。
「ぼく、はじめてなんだ。星を見に行くの」
「わたしもはじめてです。星を見に行くのは。……蘭くんやお姉さま、翼さんといっしょに星を見に行けるなんておもってもいませんでした」
夏期講習が終われば一ヶ月近く彼に会えないとおもっていたので、この星を見に行くイベントはさゆりも楽しみにしていた。もちろん、機会があればもっといっしょに彼と夏休みを過ごしたいのだが、その口実を彼女はまだ、見つけられていない。たとえ見つけられたとしても、自分からは言い出せるかどうかはわからなかったが。
「蘭くんは星がお好きなのですね」
彼が翼と、よく星の話をしているのを思い出しながら、彼女はいった。
「うん。好きだよ……」
この季節になると、彼は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に出てくるさそり座の話を思い出す。そして、宮沢賢治の有名な詩『雨ニモマケズ』を思い出し、涙がこぼれそうになる。
「わたしは星を見る習慣がないのですけれど、蘭くんはよく星を見ているのですか?」
「そうだね。星が見える夜はいつも見てるかな」
孤独を強く感じる人ほど星を見上げる。彼女はきっとほんとうの孤独をしらないのだろう、と彼はおもった。
「わたしは夏の大三角形ぐらいしかおぼえていないのですけれど……だいじょうぶでしょうか?」
「大三角を見つけられるなら、だいじょうぶだとおもうよ」
「……見つけられないかもしれません」
「えーと、夏の大三角形は東(南東)の空に見えるんだけど、目印になるのはこと座のベガ。一番明るく見える星だからすぐわかるとおもうよ。ベガから視線を下のほうに移していくと、わし座のアルタイルがあって、そこから視線を左上のほうに戻していくと天の川のところに白鳥座(北十字星)のデネブが見えるよ。デネブは他の一等星よりも暗いからちょっとわかりにくいかも。でもね、白鳥座にはデネブのほかにも魅力的な星があるんだ」
「魅力的な星ですか?」
「そう。白鳥座にはね、美しい二重星があるんだよ!」
二重星? とさゆりは首を傾げる。
「白鳥座の頭になっている星は、肉眼ではひとつの星にしか見えないんだけど、望遠鏡や双眼鏡で見ると、その場所に金色の星(主星)と青色の星(伴星)が見えるんだよ。このふたつの星(二重星)は、その美しさから『北天の宝石』ともよばれてるんだ」
「白鳥座にはそんな奇麗な星があるのですね。わたし、見てみたいです!」
「ぼくも写真でしか見たことがないから、すごく楽しみ」
無邪気な笑顔で蘭はいった。
さゆりは彼の笑顔を視て、
――蘭くんはほんとうに星が好きなのですね。
よろこびを感じた。彼の笑顔がうれしかった。
「他にはどのような星座が見られるのですか?」
「南の空に視線を移すと、赤い星が見えるんだけど、それが、さそり座のアンタレス。この星も目立つからすぐわかるとおもうよ。そのとなりにはいて座(南斗六星)があって、あとは、へびつかい座、ヘルクレス座、いるか座とか」
「そんなにも見えるのですか? わたし、いるか座があるなんてしりませんでした……」
「他にも見える星座はたくさんあるけど、まあ、星座なんてそんなに詳しく授業でやらないからね、受験とかに関係ないし」
残念そうに苦笑しながら、彼は本の表紙をかるくなでた。
「お詳しいのですね」
「そんなことないよ」
それに、と彼は言葉をつづける。
「星座をしらなくても星は楽しめるよ。ただ夜空を見上げて、奇麗だなあっておもうだけでもいいんじゃないかな? 星座や神話をしっていれば、楽しみ方も広がるけれど、すべての星が星座になっているわけじゃないんだから。見上げた星が、星座になっていない星だとしても、その星は視る人を十分楽しませてくれるんじゃないかな」
むしろ蘭は星座に含まれない星におもいをはせることが多い。星座の星と星の結びつきが、人の結びつき、関係のようにおもえてしまうときがあるからだ。自分は誰とも結ばれない。暗い宇宙で孤独に光る星のようなものだ、とおもってしまう。そして、星は光り輝くことができるが、自分にはなんの輝きもない、とかなしく笑うのだ。
「見上げるだけでもいいのですね」
「うん。ぼくはそれでもいいとおもう。でも、これを機会に星座や神話を覚えるのもいいかもしれないね」
「蘭くんはギリシア神話もお詳しいのですか?」
「全部しっているわけじゃないけれど、有名な話ならしってるよ。星座は神話で覚えると覚えやすいから」
「教えて、いただけますか……?」
「べつにいいよ?」
そうだなー、と彼がどの神話の話をしよかと考えていると、
「……」
かすかに、ピアノの音が聞こえてきた。
彼の意識が否応なしに、ピアノの音に向けられる。
「蘭くん?」
急に黙り込んだ彼を不思議におもい、彼女は声をかけた。
「あ……ごめん。神話だよね」
どの話がいいかなー、といって彼はまた黙り込む。
「……」
なかなか話しださない彼に、彼女はどことなく不自然さを感じた。
どうしたのだろう、とおもいながら彼を視ていると、
「……ピアノの音……」
彼女の耳にもピアノの音がとどいた。
――このピアノが気になっているのですね。
彼の態度が変わった原因に気づき、彼女は微笑した。彼は特にピアノ曲が好きだから、このピアノを聴いていたいのだろう、と彼女はおもった。
眸を閉じ、耳を澄ます。
「きれいな曲ですね」
「……」
「それにこの方……とてもお上手です……」
「……」
蘭は驚愕しながら、さゆりのことばを聞いていた。
上手? 冗談じゃない。これはそんなものではすまない。そんな演奏技術ではない。この音は、習い事レベルで出せる音ではない。この音は幼いころからプロを目指し、ピアノを弾きつづけた者だけが出せる音だ……! なぜだ……? なぜ、これだけ弾ける者がこんなところにいる?!
――なんでこんなとこにいるんだよ?!!
これだけの音を出せるなら、これだけの才能をもっているのなら、こんなところにいてはいけない! いけないんだ!! こんなのはまちがっている……やめてくれ。やめてくれ。もう、やめてくれ……!!!
……これいじょう、ぼくを惨めにしないでくれ……。
羨望と憎しみとかなしみの嵐が吹き荒れる。
嵐が過ぎ去ると彼のこころは――
絶望の終わりへといたった。
美しかった。
絶望するほどに、この音は、美しかった。
「蘭くんはこの曲をご存じですか?」
「……」
「蘭くん?」
なにも答えない彼を視ると、
「?! ……蘭くん……」
彼の瞳からひとすじの涙がこぼれていた。
「蘭くん、どうかなさったのですか……?」
「……アハハ。ゴメン。ぼく、ちょっとトイレに行ってくるね」
席を立ち、蹌踉と図書室を出てゆく。
「蘭くん……」
出てゆく彼の背中を見つめる。
追いかけようとしたが、追いかけることができなかった。
涙の理由にふれていいのか、わからなかった。
そして、彼女はこの日のことを後悔しつづけることになる。
彼女は彼が帰ってくるの待った。
だが、彼が図書室に帰って来ることはなかった。
「……蘭くん……」
ふせられた眸に、左手にまかれた時計がうつる。
午後五時三十六分だった。




