梅雨明け前の夕暮れに 第5話
今日の天気とは裏腹に、沈んだ貌で蘭はひとり歩いて行く。
母のいう、哲学者のような貌をしているつもりはない。そんなつもりは、ないのだ。そんなことをいえば、哲学者に失礼だろう。自分ごときが哲人などとは笑い話にもならない。
彼女もできないわよ、という言葉を思い出し不快な気持が起る。
――彼女なんてべつにいらない。
興味がないわけではないが付き合いたいとおもう女はいない。憧れている上級生はいるが、その上級生にはおもい人がいることをしっているので、恋という感情まで発展することはないだろう。それに、そのおもい人は、自分が尊敬している人でもある。
……ふたりにはしあわせになってほしいな……。
ふたりの顔を思い浮かべ、蘭はそう願った。
「彼女、か……」
自分と付き合ってくれる女の人なんて、この世にいるのだろうか? それに母を視ているせいか、あまり女の人と付き合いたいとおもえない。だいたい、死にたいと願う自分に彼女を望む資格があるのだろうか。
「……陋巷のマリア……」
呟き、視線が下がっていることに気づいた。面を上げ、背筋を伸ばす。
……救いなんてどこにも無い……。
なるべく考え事をしないよう、家々に咲く花を観ながら歩きつづける。イチリンソウ。オオイヌノフグリ。セイヨウタンポポ。シラン。ハルジオン。色とりどりの可憐な花々。いじらしくも、逞しく咲く花を観ていると、彼は泣きたくなった。
……花や木のようになれたら……。
すべてを受け容れ逞く生き、そして、潔く散ってゆく彼らのようになれたなら、と彼はおもった。
赤信号で立ち止まり、信号を見つめる。
しかし、自分はそんなふうにはなれそうにない。生きている間は、きっと、みっともなくもがきつづけるのだろう。自ら死ぬこともできずに……。弱い。あまりにも弱すぎる。些細なことで腹を立て、すぐに傷つき、そして、死を願う。生きたいと、おもえない。最低だ。愚かなのだ。心を閉ざしてしまいたい。植物のようになれないならば、せめて石のようになりたい。なにも感じない(もしかしたら感じているのかもしれないが)無機物になりたい。自分など路傍の石ころぐらいがお似合いだ。
「……」
信号が青に変わった。だが、すぐに渡ろうとはせず一拍おく。目の前を信号無視して走り去るワゴン車を見送ってから、歩道を渡り始める。車が通り過ぎるとき、携帯で話をしながら運転する女が見えた。
眉間に皺をよせ歩いていると、前方から自転車にのったふたりの男子生徒がやってきた。狭い歩道を二列なって走っている。話に夢中でこちらには気づいていないようだ。いや、気づいているのかもしれないが、避ける様子は見えなかった。縁石をまたぎ車道に出てやり過ごす。
気にするな、と言い聞かせながら歩き、蘭はいつもの公園へはいって行った。
学校へ行くには少し遠回りになるが、彼はこの場所を気に入っていた。公園にはシバザクラが一面に植えられ、ソメイヨシノ、ミズキ、フジなども観られる。ここに来れば、ささくれ立った気持ちをやわらげることができた。が、
「……」
今日はシバザクラの中にビールの空き缶を見つけしまった。
拾い上げ近くのゴミ箱に捨てる。
なぜ、当たり前のことができない?
――醜い。
己の醜さに気付かないのだろうか?
「……」
だが自分は、携帯で話をしながら信号無視した女を見たとき、狭い歩道を自転車で二列になって走る男子生徒を見たとき、シバザクラの中に落ちている空き缶を見つけたとき、なにをおもった?
死ね。
死んでしまえとおもった。殺してやるとおもった。こんなくだらない屑共など、この世界に必要ないとおもった。しかし、彼らを醜い屑だとおもいながら、こんなことをおもってしまう自分こそ、この世で一番醜いのではないだろうか。
「……」
ベンチに坐り、深い息を吐く。
こういうとき花や美しいものに接していると自分の醜さが浮き彫りになる。
激しい自己嫌悪に襲われた。
……ぼくは、醜い……!
なにも考えたくない。なにも感じたくない。苦しい。痛い。なぜ、自分は生まれてしまったのだろう。夢が叶わない運命なら、こんな世界なら、生まれたくなどなかった。世界は美しいのに、人の世はあまりにも醜悪だ。偽善とエゴイズムでできた地獄だ。他の人はどうおもい、どう感じているかはわからないが、少なくとも自分にとっては、ここは地獄そのものだ。偽善と欺瞞から吐き出される腐臭が満ちている。逃げ出したい。死んでしまいたい。なのに、自分は自殺することもできない臆病者だ。吐き気がする。吐きそうだ。
「っ……!」
こみ上げてきた胃の内容物を無理やり嚥下し、胸を鷲掴みにする。
……せめて狂えたら楽になれるのに……。
身体はすぐ壊れるのに精神はなかなか壊れてくれない。だが、このまま無様に生きつづければ、いつか、壊れる日が来るのだろうか。死ぬのが先か、壊れるのが先か、どちらでもいい、早く、早く、その日よ、来てくれ。
涙で滲む空を見上げ、蘭は祈った。
「……」
彼が背もたれに寄りかかり空を見上げていると、
「おはよう、蘭くん」
ゴールデン・レトリバーを連れた、六十代ぐらいの男が声をかけてきた。
彼の名前は秋元・洋介。この公園で蘭と知り合い、毎朝のようにここで会っている。ゴールデン・レトリバーの名前は竹青という。
「おはようございます、洋介さん。竹青も、おはよう」
なついてくる竹青の頭をなでる。
「隣、座ってもいいかな?」
「はい、どうぞ」
他人にほとんど好意を抱かない蘭だが、洋介のことは好きだった。低く落ち着いた声。目元の皺。シックな服装。滲み出る品格。そして、その中に、たしかにある、苦しみ、かなしみ、孤独。それらから逃げることなく生きる人間のやり切れない、どうしようもない、わびしさ、寂しさ、弱さ。これらを感じさせる彼が蘭は好きだった。
……洋介さんのような人が父親だったら……。
つい、そんなことを考えてしまう。
しかし、父親とはいったいどんな存在なのだろうか。
父と過ごした記憶を、あまり持たない彼にはよくわからなかった。ただ、漠然と洋介のような人物が父親であればよかったのにとおもうだけだ。それに、いまさら父親ができたところで困惑するだけだろう。
しばらくのあいだ、ふたりはなにも話さず坐っていた。互いに不要な、無責任な言葉を慎んでいた。相手を敬い、おもいやることで生まれる沈黙。
なにをいうべきか、いわざるべきか、蘭は迷っていた。わからなかった。わかっていることは、なにをいっても救われることはない、ということだけだ。それに、もし、苦しみの言葉を口にしてしまえば洋介を苦しめてしまうとおもった。
彼は厭な貌をせず、自分の話を真摯に聴いてくれるだろう。若い頃は誰でもそんなことで苦しむものさなどと、したり顔でいって笑ったりはしないだろう。誠実なのだ。デリカシーのない無遠慮なことをいって相手を傷つけることはしないひとなのだ。もし仮に、自分が彼に甘えたとしても、彼ならそれをゆるしてくれるだろう。
だが、そんなことはできない。そんなことをすれば、彼をも苦しませることになる。それがわかるゆえに弱さを晒すことはできない。好きな人にそんなことはしたくない。こうして自分なんかのそばに、歩み寄ってくれるだけで十分だ。
……洋介さんだってきっと苦しみを抱えている……。
それに、とおもう。
……洋介さんがぼくに好意を持っているとはかぎらないじゃないか……。
彼はたしかにやさしくせっしてくれる。そんな彼に自分は好意をよせている。が、好きな人が必ずしも自分に好意を持っているわけではないだろう。自分が勝手に、そう感じているだけかもしれない。すべては自分にとってつごうのいい幻なのかもしれない。もし、ほんとうにそうなら弱さの吐露は彼にとって迷惑なだけだ……。
春先の風がシバザクラの上を吹き抜けて行った。
朝露に輝く淡桃色の乙女たちが可憐にほほ笑んでいる。
その光景を眩しげに見つめながら洋介は、
……不器用な子だ……。
竹青の頭をなでながら、かなしげにほほ笑む蘭のことをおもった。
彼はひとを頼るのが下手なのかもしれない。……いや、しらないのかもしれない。大きな苦しみやかなしみは、おいそれとひとにいえるものではないだろう。だが、話してもらえないのはさびしいものだ。話したところで彼の苦しみは消えないのだろうが……。
彼を救うことは、自分にはできないだろう。人が人を救うなど傲慢な考えだ。それはわかっている。現に自分は彼を救うことができないのだから。だが、できることなら、ほんの少しでも彼の苦しみを、痛みを、やわらげたいとおもう。手をさしのべたいとおもう。たとえ、よけいなお世話だとおもわれても。そうしなければ彼はいまにも、消えてしまいそうだ。
……あいつのように……。
妻を亡くし、子供ができなかった彼にとって蘭の存在はうれしかった。こんな息子がいれば酒を酌み交わすのも楽しいだろうとさえおもう。血の繋がりなど関係ない。血の繋がりがないからといって、手を差し伸べてはならないという法はないのだ。できることがあるのなら、するべきだ。いや、しなければならない、と彼はおもう。
そして洋介が蘭を助けたいとおもう理由はもう一つあった。彼には昔、苦しんでいることがわからずにどうすることもできなかった友人がいた。順風満帆といっていい彼の人生において、唯一それだけが悔やんでも悔やみきれない過去の記憶、癒えない痛みだった。その痛みがあるからこそ、彼はここまで蘭を助けたいとおもうのかもしれない。
……あいつは私のことを恨んでいるだろうか……いや、そんな奴ではなかったな……。そんなことができるのなら自ら命を絶ったりはしない……。
誰にも怒りや憎しみをぶつけることができず、彼は自分を傷つけることしかできなかった。だからこそ、生きていることに、生きてゆくかなしみに堪えきれず自ら命を絶ってしまったのかもしれない。……助けたい。今度こそ、友を、助けたい……。
代償行為。
ふとそんな言葉が洋介の頭をよぎった。
だが、代償行為でもなんでもかまうものか、と彼はおもった。
「蘭くん。これから美術館に行かないか?」
「美術館ですか?」
「いま、印象派の展覧会をやっていてね。よかったらいっしょに行かないかい?」
「でも、学校が……」
「真面目なのはいいことだが、きみのような子はたまに息抜きをしたほうがいい。きみのことだ、どうせいま、授業でやっているところなど、とっくに終わっているのだろう? 一日ぐらいサボっても平気さ。もちろんランチも御馳走させていただくよ。美味いイタリアンの店をしっていてね、そこのパティシエが作るデザートも素晴しいんだよ。どうかな?」
とても魅力的な誘いだと蘭はおもった。
彼に絵を描く趣味はないが絵画を観るのは好きだった。それにいま、授業でやっているところは彼がいうように終わっている。だが、
……今日は図書委員の当番だ……。
学校は勉強だけではない。今日休めば誰かに迷惑をかけてしまう、と彼はおもった。
「すみません。今日は図書委員の当番なんです」
心苦しそうに彼がいうと、
「そうか……では、蘭くんはいつならつごうがいいかな?」
洋介があきらめずに尋ねた。
……蘭くんのようなタイプは少し強引にしなければ休まないだろう。
強引な誘い方をしている自覚はあるが、蘭は少し休んだほうがいい、と彼はおもった。
「え、そうですね……」
「日曜日以外で頼むよ。勝手な言い分で悪いんだが」
「どうしてですか?」
「日曜は客が多くてかなわんからさ。せっかくの名画だ、ゆっくり堪能したいじゃないか」
「はは、そうですね。じゃあ……明日で」
「明日か。わかった。明日は楽しい一日になりそうだ」
「ぼくも楽しみです」
鞄を持ち、名残惜しそうに竹青の頭をなでる。
甘えるような、淋しがるような声を出し、竹青が蘭の足に頭をこすりつけた。
「それじゃあ、失礼します。竹青も、また明日ね」
「蘭くん」
「はい?」
「……いや、なんでもない。気をつけて行くんだよ」
「ありがとうございます」
笑顔で一礼し、学校へ向かう。
「……」
蘭の背を見送りながら洋介は、
……あいつもよくこんなふうに笑っていたな……。
死んだ友人のことを思い出す。
笑っているのに、なぜか、泣いているように視える笑顔だった。
だがそれも、いまだからわかることだ、と彼はおもう。
胸が痛んだ。




