梅雨明け前の夕暮れに 第47話
雨が花をなでるように降っている。
ここ数日、いまが梅雨であることを思い出したかのように、町は雨につつまれていた。
蘭は最後の客を送り出すと、窓辺に立ち、ガラス越しに見える夜の庭を眺めた。雪乃が育てた花たちがサロンからこぼれる淡い光を受け、闇のなか、浮かぶように咲いている。花は雨と光で織られたドレスを、その身にまとっていた。
庭を眺める蘭の横顔からはいっさいの感情がうかがえない。このとき、彼の心は潮の引いた海辺のように、しずかだった。誰もいない。誰の足跡もない。波に荒らされることもない、まっさらな白い砂浜。意識がないわけではない。庭を視ている、という認識はしている。だが、いまの彼は自分すらも忘れて、ただ、そこにいて認識するだけ存在になっていた。
しかし、そんな時間は長くはつづかない。
……どうしてぼくは生きているんだ……。
渺茫とした意識で繰り返される自問。
生きる意味も、希望も、すでに失われている。人を愛することも、自分を愛することもできない。それなのに、なぜ、自分は生きているのだろう。死にたいと常におもっているのに……。滑稽だな。死んでしまえばいい。どうせ自分など生きていても邪魔なだけだ。やさしいあの人たちに迷惑をかけるだけなのだ。この世界に自分の居場所などない。どこにもない。
だが仮に、誰かを愛することができたなら、自分は生きたいと、生きていたいとおもえるのだろうか?
……馬鹿ばかしい。そんな仮定に意味はない。ぼくには愛がわからないのだから……。
かすかに聞こえてくる雨音。
蘭は、ふと、ガラスに映る自分の顔を視て、自分が笑っていることに気づいた。
……醜い貌だな。
面をわずかにふせ、力なく苦笑する。
しょせん、できそこないの自分にとって『愛』とはたんなる言葉でしかない。むなしい、音の響きでしかないのだ……。
そうおもいながらも彼は考える。
ひとはなぜ、愛を求めるのだろうか、と。
「……」
雨にうたれる花を見つめ、蘭は泣くのを堪えるように、嗤った。
愛を求める理由。それは、ひとりで生きていくのが、さびしいからだ。さびしくて、さびしくて、しかたがないからだ。人は愛をしり、愛をえても、誰かと完全にひとつになれるわけではない。ずっと孤独なままだ。だが、愛によって人はそれを忘れることができるのだろう。だから人は愛を求め、誰かを愛そうとするのだろう。
それに、ひとりきりで生きて行くには、ヒトの世はあまりにも辛すぎる。苦しすぎる。傷つけられ、貶められ、嘲笑われる。利用されるだけ利用されて、最後には捨てられる。またはその逆の立場になる。そんなかなしい世界で、たったひとり。誰からも愛されず、誰も愛せないまま、ひとりきりで生きて行くのはとても……とても、さびしいことだ。そして、自分すら愛せなければ、自分など生まれてこなければよかった、死んでしまえばいいとおもってしまう。胸が張り裂けそうな痛みに苦しめられる。誰もいないところで、ふいに涙がこぼれてしまう。
……惨めだな……。
愛もなく、夢を叶えることもできなかった。酷い人生だ。なにもない。ほんとうに、なにも、ない。
……ぼくはいったい、なんのために生きてきたんだ……。なんのために生きていけばいいんだ……。
しずかなかなしみが全身をつつんでゆく。
……救いなんてどこにもない。
どうせ、なにをしても無駄なのだ。報われずに終わるのだ。しあわせになんてなれない。しあわせになれない者は、孤独とかなしみに苛まれ、その苦しさと痛みに堪えながら生きてゆくしかない。だが……堪えられるだろうか? 愛もなく、夢もなく、生きていけるのだろうか?
……堪えられなくなったら死ぬだけだ……。
そう、死ぬだけだ。死んでしまえばいいのだ。
「……」
意識と感覚が曖昧になっていくのを感じながら窓の外を見つめる。
淡く、いまにも消えてしまいそうな意識のなかで、このまま消えてしまえばいいのに、と蘭はおもった。
「……蘭君」
外を見つめる蘭の背に雪乃がそっと声をかけた。
蘭の空ろな眸に光が戻る。
はい、と返事をし彼が振り返ると雪乃は、
「お疲れ様、蘭君。紅茶を淹れたからいっしょに飲もう」
ほほ笑みかけ、テーブルに誘う。
蘭の肩を抱くように手をそえると、雪乃は歩き出し、彼をアンティーク調の椅子に坐らせた。
テーブルの上におかれたマイセンのティーポットを両手で持ち、雪乃は三つの白いティーカップに紅茶をそそいでいく。このとき、一つのティーカップごとにそそぐのではなく、三つのティーカップを順番に、少しずつそそいでいった。こうすることによって、いっしょに飲む人のたちの味や香りに差異が生まれにくくなることを、蘭はアルバイトを始めた日に雪乃から教わった。
蘭と雪花のまえにティーカップをおくと雪乃は自分も椅子に坐った。
それを見て、蘭は左手でティーソーサーを、右手でティーカップをもち、顔に近づける。(このテーブルマナーも雪乃から教わったものだ)ティーカップの美しさを愛で、香りを楽しみ、深い紅色の水面に感嘆の吐息をこぼす。そして、やわらかく繊細な唇で彼は紅茶を口にふくんだ。夏が近いとはいえ、冷房で冷えた身体には、紅茶のあたたかさと渋みが快く感じられた。
「……美味しい……」
最初の一口をゆっくりと味わったあと、ささやくような声で蘭はいった。その声が水面をわずかに揺らし、水面に映る彼の顔を滲ませた。
「……とても美味しいです。雪乃さん」
「ふふ。ありがとう、蘭君。そういってもらえると私もうれしいよ」
水面から面をあげ、ほほ笑む蘭に、雪乃は笑みをかえした。
……波間にただよう、一輪の花のような笑みだな……。
はかなく、いまにも波間に沈んで消えてしまいそうだ、と雪乃はおもった。その笑みだけではなく、彼自身さえも。
「最近、学校の方はどうかね? 忙しいのかな?」
「いえ。そんなことはありませんけど」
「ふむ。そうかね? 私には君が酷く疲れているように視えたのだが……」
湯気越しに蘭の貌を視る。
……困ったような笑みを視るところ、自覚はあるようだな。
さきほど何度か声をかけたのだが、彼はそれに気づくことなく窓の外を見つめていた……。彼は自分でおもっている以上に自分が疲弊していることに気づいていない。それも、深刻なまでに疲弊しきっているということに……。
危ういな、と雪乃はおもった。
彼のような人間は多少無理にでも休ませないと、ほんとうに身体を壊すまで休まないことが多い。それゆえ、彼に休むよう、いおうとおもったのだが……。いま、彼をひとりにするのはかえってまずいかもしれない……。
しばらくは様子見か、と雪乃はなにもできない己の無力さを嗤いながふせていた眸をあげる。
「?!」
息が止まった。胸を締めつけられ、狂おしいまでの痛みを感じる。
雪乃の眸に映ったのは窓の外を見つめる蘭の横顔。その横顔には、かなしいまでに美しい影がさしていた。
「……蘭君」
「……雪乃さん、雨っていいですよね……」
「……ああ。そうだね……」
雪花の手に自分の手をかさね、雪乃も窓の外を見つめる。
雪乃はしずかに降りつづける雨を見ながら、この雨は降り止まないのではないか、とおもった。そして、ほんとうはずっと――ずっと前から、この雨は降りつづけているのではないか、とも……。
降りつづける雨のなか、白い花が一輪、その花びらを散らした。




