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梅雨明け前の夕暮れに   作者: 伊達と酔狂
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梅雨明け前の夕暮れに 第46話

 夕食後、美夏、操、義一の三人は客間兼居間である和室で、座卓を囲み、食後のお茶を飲んでいた。

 部屋の広さは十畳半ほどあり、水墨画の掛け軸が一幅かざられ、その近くには青磁の花瓶に白い夏椿が活けてある。他にある物は部屋の中央に置かれた美しい木目の座卓だけだ。縁側の障子と庭につづくガラス戸は開けられ、ときおり吹く風が室内に涼をはこんでくる。


「それにしても残念ねえ。蘭くんもいっしょに晩ごはんを食べられればよかったのに」

「しかたないわよ。蘭のお母さんだって晩ごはんを作るでしょうし、蘭は小食だから、うちで食べて行ったら絶対食べられないわ。そんなことになったら、蘭のお母さんにもうしわけないもの」


 蘭が帰ったことを残念がる操に、美夏は嘆息まじりにいった。


 ……でも、できればもう少し、いっしょにいたかったわね……。


 麦茶のはいったグラスを見つめ、美夏は胸のうちで呟いた。


「はあ~。わたしも蘭くんと、もっとお話したかったわ。美夏ちゃんが蘭くんを独り占めするから、ぜんぜんお話しできなかったんだもの」

「べ、べつに独り占めなんてしてないわよ」

「いーえ。してました。わたしがおやつを持って行ったとき、いっしょにお話ししましょうっていったら、美夏ちゃん、わたしをすぐ追い出したでしょう。蘭くんはいいですよっていってくれたのに。ごはんを食べているときだって、わたしが蘭くんに話しかけたら、美夏ちゃん怒って邪魔するし……。ひどいとおもいませんか、義一さん?」

「……」


 冗談めかした口調で操が義一に同意をもとめた。が、彼はなにも答えなかった。眸を閉じ、腕を組んだまま、動かない。眉間にはあさく皺がきざまれている。


「義一さん?」


 もう一度、操が声をかけるが、義一は口を開こうとはしなかった。

 そんな義一を視て、美夏は不安を覚えた。


 ……もしかしたら、お父さんは蘭のことが気にいらないのかしら……。


 しかし、もしそうなら、義一は蘭のことをさっさと家から追い出していたはずだ。そうしなかったということは、蘭のことが気にいらないから黙っているわけではないのだろう。では、なぜ、義一は黙りつづけているのだろうか。

 声をかけにくい雰囲気をまとう義一のようすを、美夏が不安そうにうかがっていると、義一は眸をあけ、


「……美夏」

 

 重く、静かな声で美夏を視ていった。


「なに、お父さん」

 

 無意識にかたちただし、応える。


「おまえに覚悟はあるか」

「覚悟?」


 予想もしていなかった言葉に戸惑う。


「おまえがいま以上に蘭くんと親しくなりたいとおもっているのなら、覚悟がいる。おまえに覚悟がないのなら、これいじょう、蘭くんに近づいてはならない」

「な?! なによ、それ。意味がわからないわ!」


 おもわず浮いた腰を落ち着かせ、美夏はいった。一方的な義一の言葉に怒りを覚える。


「わからないか?」

「わからないわよ」

「わからない、ということは、おまえには蘭くんの姿が視えていない、ということだ」

「………………お父さんに、蘭のなにがわかるっていうの……?」


 怒りのあまり声がふるえた。

 覚悟がいる? 蘭のことが視えていない? 冗談ではない! 今日、はじめて彼に会ったばかりの義一に、いったい、彼のなにがわかるというのか。自分はあの日からずっと、彼のことを視てきたのだ。義一よりも自分のほうが彼のことをわかっている。

 美夏が眸を焔のように煌めかせていると、


「言葉にするのはたやすい。が、それはかるがるしく口にしていい言葉ではない」

 

 彼女の未熟さを諭すような声で義一はいった。


「おまえは私より自分のほうが蘭くんのことをわかっているとおもっているのだろう。だが、それならばなぜ、おまえは蘭くんの心を乱すようなまねをするのだ」

「私が蘭の心を……?」

「おまえがやっていることは、ほんとうに蘭くんのことをおもってやっていることなのか? 蘭くんの身になって考えているのか? 蘭くんのことおもうのなら、蘭くんのことをもっとよく視ろ。もっと考えろ。おまえは自分のおもいを優先しすぎだ」

「そんなこと! ないわよ……」

 

 反射的に答え、眸をそらす。


「美夏。なにを焦っている」

「焦ってなんか……」

 

 思い当たる節があるから言葉を濁したのではないか、と義一はおもったが、あえて問い詰めるようなことはしなかった。焦っているといえば、義一自身にも焦りはある。だがそれは、美夏とはちがう理由で感じているものだったが。


「美夏。おまえはもっと誠実にならなければならない。そうでなければ蘭くんから信頼を得ることはできないだろう。それに、いまのおまえでは、いたずらに彼を傷つけるだけだ」

「……」

「彼のやさしさに、甘えるな」

 

 黙りこむ美夏にいって、義一は席を立った。

 道場へ行く、と言い残し彼は部屋を後にする。

 残された美夏は面をふせ、膝の上で手を握り締めたまま、凝然と動けなかった。

 道場へ向かう途中、義一は風の変化に気づき空を見上げる。

 

 ……雨がふるな……。

 

 風に雨の匂いを感じた。

 彼の予想通り、夜半過ぎから霧のような雨が降り始め、町は雨のヴェールにつつまれた。


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