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梅雨明け前の夕暮れに   作者: 伊達と酔狂
45/50

梅雨明け前の夕暮れに 第45話

「ああ、もう! お母さんの天然にはホント腹が立つわ!」


 蘭を連れ、部屋に戻った美夏はクッションに坐ると開口一番、文句をいった。


「美夏のお母さんって、天然なんだ」


 ガラスのテーブルを挟んで対面に坐る蘭がおかしそうにいうと、


「毎日毎日ボケたおされて、大変なんだから。文句をいっても本人には自覚がないし、悪気がない分よけい性質が悪いわ」

 

 嘆息をこぼし、彼女は頬杖をついた。

 彼女の部屋は八畳ほどの広さがあり、綺麗にかたづいている。部屋にはガラステーブルのほかに、エアコン、机、デスクトップ型のPC、本棚、液晶テレビなど一通りの物がそろっていた。女の子らしさを感じさせる物がないので一目見ただけでは、この部屋が女の子の部屋だとはわからないかもしれない。

 所在無いようすで彼がなんとなく部屋を見回すと、


「あんまりじろじろ見ないでよね。失礼でしょ」

 

 恥ずかしいでしょう、とはいわずにあくまで不機嫌そうに彼女はいった。

 彼女がこの部屋に同年代の異性を入れるのは、はじめてのことだった。しかも相手が、自分がおもいを寄せている異性なだけに、緊張と恥ずかしさで落ち着かなかった。だが、彼女はそれを素直に表すことができるような性格ではなく、つい虚勢をはってしまった。


「ああ、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど」

「なに、ニヤニヤしてるのよ」

「いや、美夏らしい部屋だなー、とおもって」

「どうせ女の子らしくない部屋だとかおもってるんでしょ。悪かったわね。女の子らしい、かわいい部屋じゃなくて」

「べつにいいんじゃない? ぼくは好きだよ、こういうシンプルな部屋」

「そ、そう……?」

「うん。美夏にはかわいい部屋なんて似合わないからね」

「殺す」

「ウソウソ、冗談です! だからすわって、すわって!」

「……」

 

 一睨みして美夏は坐りなおす。


「アハハハハハ。ところでさー」

「なによ?」

「これからどうするの?」

 

 引きつった笑みで蘭が尋ねた。


「べつに。とくになにも考えてないわ」

「そうなの?」

「だって予定ではまだ、蘭を道場でいぢめていたはずだから」

「……それじゃあ、そのあとは? どうするつもりだったの?」

「みんなでいっしょにお昼ごはんを食べる」

「え、いや、いいよ。そんなの悪いし」

「なにいってんのよ、いまさら。悪くなんてないわよ」

 

 あきれたように彼女はいった。


「でも――」

「ちゃんと蘭の分も用意してあるんだから。それを無駄にするつもり?」

「……」


 さゆりの家で食事を摂ったとき、家族のだんらんを邪魔しているようで、いたたまれない気持ちになった。なんだか気不味くて、どのように振る舞えばいいのかわからなかった。そして、ここは自分なんかがいていい場所ではないとおもった。


 ……苦手なんだよね、ああいう雰囲気……。


 自分のような出来損ないには、あの世界はあまりにも眩しすぎて辛い。だが、そんな感覚を彼女にいっても理解されないだろう、また、理解する必要もないのだろう。それに、できることなら、もう帰ってひとりになりたいのだが、彼女のことだから断っても強引に引き止めるにちがいない。


「……わかったよ。それじゃあ、せっかくだから、御馳走になってうこうかな」

 

 逃げ出したい気持ちを抑え、彼はあきらめたように、そして、申しわけなさそうにいった。


「そうそう。それでいいのよ。どうせ蘭のことだからお昼ごはん、食べるつもりなんてなかったでしょ」

「そんなことないよ」

「噓」

「嘘じゃないよ。帰ったらなにかてきとうに食べるつもりだったんだ」

「フン。見え透いた嘘ね」

「なんで決めつけるかなあ……」

「他の人にはわからないかもしれないけれど、私には、わかるのよ……」


 まっすぐに彼を見つめ、

 

 ……あの日以来、私はずっと蘭を視てきたんだから……。

 

 彼女は思い出す。蘭をはじめて意識した日のことを。

 それは忘れもしない、高校に入学した、次の日の放課後のこと。それはまるで彼が好きな小説のワンシーンのようだった。放課後、帰ろうとして玄関へ向かうと、彼が下駄箱のところで、ひとりで立っていた。噓みたいに他には誰もいなかった。そこには自分と彼だけ。生徒たちの喧騒はどこか遠い世界のように感じられた。


 そのときは彼の名前をおもいだすことができなかった。ただ、クラスメイトの男の子が靴も替えずに立ちつくしているのを見て、なにをしているのだろう、とおもったぐらいだ。彼を気にすることなく、挨拶をして帰ればよかったのだが、なぜか、そんな気にはならなかった。いや、できなかった。動けばなにかが――、


 壊れるとおもった。


 不思議と彼はこちらに気づくことがなかったので、自分は息をひそめ(無意識に息を止めていたのかもしれない)彼を見つめつづけた。そのときはまるで、世界が止まっているようだった……。どれほどそうしていただろう? ふと気がつくと彼の瞳から――涙がひとしずく、こぼれおちたのだ。その涙を視た瞬間、なんともいえない感覚に全身を支配され、胸を締めつけられた。息が苦しくなり、鼓動が速くなるのを感じた。


 その涙をきっかけとするように、止まっていた世界が動き出した。

 彼の肩がわずかに動いた瞬間、自分はとっさに下駄箱の影に隠れ、そっと彼のようすをうかがった。彼は繊細な動きで涙をぬぐうと、かなしくほほ笑み、靴を替え、なにごともなかったかのように帰ってしまった。


 逆光でよく視えなかったが、彼はたしかに、笑ったのだ。

 かなしく、ほほ笑んだのだ。


 ……私は、いまでもおぼえてる……。


 夕暮れとともに沈み、消えてしまいそうな、あの笑みを。

 彼が帰ったあとも自分はしばらく下駄箱に寄りかかり動けずにいた。衝撃的だった。彼の涙は。いままでに何度か男の人の涙を見たことはあるが、彼の涙は、どこか特別だった。


 呆然とせつなく痺れた頭で、どうして彼は、涙を、流したのだろう……? とおもった。

 帰りながら彼のことを考えた。帰ってからもずっと彼のことを考えていた。蒲団のなかで、彼のことを考えていたら、いつのまにか眠ってしまった。とにかく、彼のことが気になってしかたがなかった。

 次の日、おせっかいかもしれないとはおもいながらも、彼に話しかけてみた。なにか力になれるかもしれないとおもったからだ。


「小日向君、ちょっといい?」

「東堂さん、だっけ? なに?」

 

 彼を廊下に連れ出し、昨日のことを尋ねた。


「……昨日、あなたが辛そうにしているのを見かけたのだけれど……なにか、かなしいことでもあったの?」

「かなしいこと? べつになにもないよ」

「でも――」

「心配してくれてありがとう。でも、それはきっと、東堂さんの見間違いだよ」

 

 そういって彼は笑ってみせた。

 信じられなかった。彼の言葉を。彼の笑顔を。彼の言葉が真実なら昨日視た、あの涙はなんだというのか? 夕暮れが見せた幻だったとでもいうのだろうか? ……そなんはずはない。自分はたしかに視たのだ。彼の涙を。彼がかなしく、ほほ笑むのを……。

 

 その日からだ。自分が彼の姿を追うようになったのは。

 そして、しばらくして気づいた。彼は自分にだけではなく、周囲にいるすべての人に笑顔で噓をついている、ということに。あの笑顔は彼のポーカーフェイス、仮面なのだ。そのことに気づいてからは、彼のことがより視えるようになった。

 

 彼は誰とでも話しをするが必要以上に親しくなろうとはしなかった。このころの彼が、学校のなかで好意をよせていたのは、司書の春霞と三年の常緑だけだろう。彼が図書委員になってからは、仕事もないのに足繁く司書室に通っていたことからも、それは推測できる。ただ、そのときはなぜ、他人と距離をおく彼が、あのふたりに限って、親しくなろうとしたのか不思議におもえた。

 だが、彼と春霞を視ていたらその理由がなんとなくわかった。似ているのだ。ふたりは。容姿とかではなく、彼らが持つ独特の雰囲気が。だからだろう。ふたりの間で通い合うものがあったのかもしれない、と自分は妙になっとくしたのを憶えている。


 常緑に関してはわからない。もしかしたら、ただたんに彼女が彼の好みのタイプだっただけかもしれないし、他に理由があるのかもしれない。少なくとも彼女がそばにいても彼は辛そうではないし、不快なおもいはしていないのだろう。いくら春霞に好意をよせていても、居心地が悪ければ、彼は足繁く司書室に通うことはしないだろう。彼女に関しては、彼と付き合っていなければそれでいい。視ているかぎり、ふたりはそういう関係になってはいないはずだ。


 雰囲気といえば、あのかわいい一つ年上の先輩、四葉も彼と似た雰囲気をもっている気がする。……思い返してみれば、稀に彼女も彼と同種の笑顔を見せるときがあった。うすうす、なにかあるのではとおもっていたけれど、あえて訊くようなことはしなかった。人にはいえないことなのかもしれないし、立ち入ってほしくないことかもしれない、とおもったからだ。

 それに、いまの彼女には奏がいる。彼がきっと彼女をささえてくれるだろう。もちろん、自分だって、彼女になにかあれば力になりたい。なりたいと、おもっている。


『美夏ちゃん、わたしね――』


 突然、四葉の笑顔が頭をよぎった。

 いいようのない不安を美夏は感じた。

 

 ……なに、これ……?


 しらないうちになにかを見落としているのではないか、という焦燥感。

 不安の正体を探ろうとすると、


「どうしたの、美夏。急に黙って?」

 

 彼女に見つめられ恥ずかしそうにしていた蘭が不思議そうにいった。


「な、なんでも、ないわ……」

 

 彼から一度、目を逸らし、言葉をつづける。突然感じた不安がうやむやになってゆく。


「とにかく、私にはなんとなくだけれど、蘭の嘘がわかるのよ」

「なんとなくで決めつけられてもね……」

 

 苦笑してみせるが、じっさい彼女のいうとおり、彼は昼食のことなど頭になかった。


「まあ、べつにいいけど……それより、これからどうするの?」


 彼女のいうとおり、これ以上、噓の反論をしても彼女には通じなさそうだなとおもった彼は話題を逸らした。


「そうね、どうしようかしら……あ、そうだわ。私、蘭に聴かせたいCDがあったのよ」

「へー、誰のCD?」

「奏先輩のよ」

 

 棚から一枚のCDを取り出す。


「あるの?! 聴きたい、聴きたい!」

「……」

 

 うれしそうな彼の貌を視て、

 

 ――ああ、もう! かわいいわね!

 

 胸が高鳴るのを感じた。

 たまに見せる彼の無邪気な笑顔は彼女にとってとても魅力的だった。


「蘭ってほんとうに音楽が好きなのね」

 

 CDをセットし、美夏はいった。


「好きだよー。あ、ジャケット見せて」

「文学よりも?」

 

 CDケースを渡し尋ねる。


「……そうだね。文学よりも、好きだよ……」

 

 面をふせ、CDのジャケットを視ながら蘭はいった。


「へ~、一曲目はストリングスの前奏からはいるんだ。……いいな。ぼく、こういうアレンジ好きなんだよね」

 

 歌詞を視ながら曲に集中していく。


「……」


 そんな彼を彼女は黙って見つめながら、文学よりも音楽が好きというのなら、なぜ彼は、奏の誘いを断ったのだろう、とおもった。

 彼は自分で歌ったり楽器を弾いたりしたいとおもわないのだろうか? まさか自分が邪魔をしたからというわけでもあるまい……。ならばなぜ、彼は奏の誘いを断ったのだろう? 音楽が好きなら、奏の誘いをうけそうなものだが……。彼は自分で好きなことをしたいとおもわないのだろうか? 

 

 わからない。彼がなにを考え、なにをおもっているのか……。

 彼の抱えるかなしみがそうさせているのだろうか。そのかなしみがあのとき、彼に涙をながさせたのだろうか。そのかなしみがあるから、彼は笑顔で噓をつくのだろうか。これからさきも彼はずっとそのかなしみを抱え生きていくのだろうか。彼のかなしみを癒すことはできないのだろうか……?


 彼のかなしみとはいったいなんであろうか? 

 しりたい。

 彼のかなしみを。

 彼はなぜ、かなしんでいるのだろうか?

 訊きたい。

 だが、訊いたところで、彼はまた、笑顔で噓をつくのだろう。

 わかっている。いまの自分に彼はなにもいってはくれない。

 では、自分はどうすればいいのだろう。自分はなにができるのだろう?


 ああ……無力だ。自分はこんなにも無力だ……。だが、それでも、自分は彼のそばにいたい。彼のかなしみを癒したい。


 ……ねえ、蘭。いまはまだ、無理かもしれないけれど……。


 いつか、そのかなしみを私におしえて、と美夏はこころから願った。


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