梅雨明け前の夕暮れに 第43話
開け放たれた窓から、清々しい風がはいってくる。
朝のじめじめとした、まとわりつくような風は東の空に吹き抜けて行ったようだ。
蘭と義一は向かい合って坐らずに、肩をならべるようにして胡坐をかいた。蘭は正座しようとしたのだが、義一に膝をくずして坐るようにいわれたので、胡坐をかくことにした。ふたりは窓の外に見える空や、風にゆれる梢、そこからこぼれる光を眺めている。
聴こえてくるのは葉擦れの音だけだ。
「……どうだったかな、蘭君。少しは剣術に興味がわいたかな?」
「奇麗だとおもいまいた。でも……」
やるべきこと、やりたいことは他にある。
……ぼくにはピアノしか視えない……。
苦しみを眉間に刻み、わずかにうつむく。
愚かな一途さだということは彼にもわかっている。そして、時にその愚かさが招く結末も。
だが、それでも、彼はピアノを捨てることはできない。
「そうか。残念だ」
途切れた言葉の先をきかず、義一はいった。
「すみません……」
「蘭君があやまることはない。もともと美夏が強引に連れて来たのだから」
「……」
もう一度、すみません、と胸のうちで呟き彼は窓の外を藐然と見つめる。
……ぼくはどうして、生きているんだ。ここで、なにをしている……?
胸を押しつぶすような苦しみに苛まれる。
ああ、ひとおもいに、この胸を引き裂いてしまいたい。なにもかもを終わらせてしまいたい。苦しい。この苦しみはいつまでつづくのか……。きっと、死ぬまでつづくのだろう。死ぬまで、この、底なしの絶望に沈んでゆくのだろう。
……疲れた。もう、疲れたよ……。
生きていることが、かなしい、と虚ろになってゆく意識のなかで彼はおもった。
「……」
ほほ笑みながら、泣いているような蘭の横顔を、ちらと視て義一は前を向いた。
風にゆれる光を見つめる。
口を開く気はなかった。無理に会話をつづけても彼を苦しめるのではないか、と義一はおもった。
語らなくとも伝わってくるものがある。
……蘭君。君ははなにに苦しみ、なにをかなしんでいるのか……。
わかることといえば、それが言葉にできないほどの苦しみだということだ。かなしみだということだ。人間にはたしかにそんな苦しみやかなしみがある。言葉にしてしまえば聞いた者のうちに形をなし、重さを持って苦しめ、かなしませてしまうものが。
おそらく彼は、それがわかっているのだろう。ゆえに彼は口を閉ざし、語ろうとしないのだ。
救いを求め、手を伸ばしてもとどかない。
助けようと、手を伸ばしてもとどかない。
……難し。
生きることは難しい。他人を助けることも、また、然り。
人間の生きるかなしみに眸を閉じる。
……せめて、わかちあうことができたら……。
己の無力さを義一は感じた。
長い沈黙のなかふたりはおもいに沈んだ。
「二人ともなにしてるの? ぼーと窓の外なんか見て」
沈黙の時間を破ったのはシャワーから戻ってきた美夏だった。
「なにもしていない。おまえのいうとおり、ただ、外の景色をみていただけだ」
背後からの声に、義一は肩越しにふりかえってしずかな、重みのある声でいった。
「ふ~ん。なにも話さなかったの?」
ふたりの正面、三角形の頂点になるあたりに正座し、尋ねた。
「少しは話した。が、ほんの二言三言だ」
「どんな話し?」
「剣術のことだ。残念ながら、蘭君は家に、習いには来ない」
「そうなの?」
「ごめんね。せっかく誘ってくれたのに……」
「べつにあやまらなくてもいいわよ。どうせこうなるんじゃないかとおもってから」
あきれたように美夏はいった。
期待はしていなかったが、うまくいけば、これからも彼といっしょに休日をすごせるかもしれないと淡くおもっていただけに、彼女は胸のうちで残念におもった。
「それじゃあ、ぼくは帰るね。今日はありがとう」
「なによ、もう帰るつもり? せっかく来たんだから、もっとゆっくりしていきなさいよ」
「いや、いいよ。そんなの悪いし」
「なにが悪いのよ? それともなに? そんなに私といるのがイヤなわけ?」
「そんなわけじゃないけど……」
「じゃあ、いいじゃない。ゆっくりしていきなさいよ」
怒ったような、どこか、訴えるような美夏の眸。その眸に見つめられた蘭は、帰ったら悪いような気がしてきて、あきらめたように苦笑した。
「……わかったよ。それじゃあ、もう少しゆっくりしていこうかな」
「そうそう。それでいいのよ。どうせ帰ったって本を読むだけでなんでしょ?」
「まあ……そうだね……」
「それならいいじゃない。ゆっくりしていきなさいよ」
「うん……」
「それじゃあ、私の部屋へ行きましょか」
うれしそうに美夏は立ち上がった。
「え、美夏の部屋に行くの?」
「とうぜんでしょ? 他にどこへ行けってっていうのよ」
「いや、でも……いいんですか?」
戸惑い、蘭は義一に尋ねる。
「美夏がいいといっているのだから、かまわんよ」
「そうですか……」
「さ、行くわよ」
「美夏」
部屋へ行こうとする美夏を義一が呼び止めた。
「なに、お父さん?」
「襲うなよ」
「?! 襲わないわよ!」
「蘭君。なにかあったら大声をだしなさい。すぐ助けに行くから」
「は、はあ……」
「普通、逆よね?! なんでお父さんは蘭にいうわけ?!」
「視たところ蘭君は据え膳を喰わぬタイプの男の子だ。おまえが襲われるようなことはまずないだろう。どちらかというと、おまえのほうが蘭君を襲いそうだからな、一応、釘を刺しておいたまでだ」
「そんなのわかんないでしょ?! もしかしたら蘭が襲ってくるかもしれないじゃない!」
「……美夏。おまえは蘭君がほんとうに襲ってくるとおもうのか?」
「おもわないわよ!!」
「あの――」
「蘭は黙ってなさい!」
「はい……」
「だからって私が襲うわけないでしょ?!」
「ほんとうか?」
「ほんとうよ!」
襲うつもりなどない。が、そのようなことを彼女がまったく考えていなかったかといえば、少しは考えていた。
――一条さんより、蘭に近づけるかもしれない。
唇をかさねることで、身体をかさねることで、彼に近づけるのなら、そばにいられるのなら自分は唇をかさねるだろう。身体をかさね、彼を抱きしめるだろう。もちろん、そこには、さゆりよりも彼に近づきたい、彼女よりも自分に心をひらいてほしいというおもいはある。そしてなにより、自分自身がそれを望んでいる……。彼に抱かれたい。彼を抱きしめたい、と。
……蘭のすべてを抱きしめたい……。
なんでもいい。とにかく蘭のなかに存在したいのだ。彼に必要とされたい。さゆりよりも、自分を求めて欲しい。そのためなら、どんなことでもしてみせる。
満腔のおもいで彼女はそうおもった。
「……そうか。襲わないか」
義一は美夏の眸を見つめたあと、にやり、と笑った。
「蘭君。美夏は君を襲わないそうだから、安心して、ゆっくりしていきなさい」
「は、はあ……」
「話はそれだけね?!」
恥ずかしさを隠すためか、怒ったような口調で美夏は義一にいった。
「行くわよ、蘭」
肩を怒らせ歩き出す。
「うん」
失礼します、と蘭は義一に一礼し美夏のあとを追った。
「……」
ふたりの背を見送る義一の口から、
「……難し……」
言葉がこぼれた。
かすみ、ゆれる光のなか、我知らずこぼした言葉に義一は眸を閉じる。
眉間には峻嶺な山々が刻まれていた。




