梅雨明け前の夕暮れに 第42話
ひんやりとした空気が蘭の頬を静かになでた。
道場の戸を開けた美夏がなかにはいっていく。靴を脱いで揃える彼女の姿を見て、彼はふと、彼女から、はじめて、女らしさを感じた。だが、それで彼女を異性として、意識するほどのものではなかった。
彼女が一礼し板張りの道場にあがる。彼もそれに倣って一礼し、わずかに緊張しながら道場にあがる。
独特の空気感。
神聖な雰囲気を彼は感じた。
――こういう雰囲気、好きだな。
心のなかが清められてゆく。
誰もいないかのような静寂に、深く、沈んだ室内。だが、そこにはひとりの男が胡坐をかいて坐っていた。瞑想でもしているのか、男は眸を閉じている。
「お父さん」
その男の正面に正座し、美夏は声をかけた。
眸を閉じていた義一は眸をあけると、
「お帰り、美夏。君が――蘭君か……」
美夏のとなりで同じように正座する蘭を視た。
「はじめまして。小日向・蘭です」
容を端し、一礼する。
「話はいつも娘から聞いています。ご迷惑をおかけているようで申しわけない。父の義一です」
「お父さん。私はべつに迷惑なんてかけてないわよ。ちょっと、蘭。なに笑ってんのよ」
「いや、アハハハ……」
「言葉を慎め、美夏。重ねがさね申しわけない、蘭君。どうも幼いころから男に交じって剣術をやっているせいか、男勝りなところがあってね……ときどき、乱暴な言葉遣いをしてしまうときがあるんだよ。だが、そこは多めにみてやってくれないか。これでも根はやさしい、思い遣りのある娘なんだ」
「ちょっ、お父さん。なに恥ずかしいこといってんのよ!」
「恥ずかしい? 私はなにも恥ずかしいことなどいってはいない」
ところで、と前置きし義一は蘭を視て言葉をつづける。
「今日は見学したいとのことだが、それは君が望んだことなのかな?」
「……いえ。ちがいます」
嘘をついてもすぐにばれるだろうとおもい、蘭は苦笑しながら正直に答えた。
「そうじゃないかとおもったよ。君を視たとき、武術をやるようなタイプには視えなかったからね」
美夏、といって彼女を視る。
「おまえはたしか、こういったな。稽古を見学したいといっている友人がいるから連れてきてもいいか、と。なぜ、すぐにばれる嘘をついた?」
「……蘭は部活もしてないし、本ばかり読んで、なよなよしてるから、少し強引にでも身体を動かして鍛えたほうがいいとおもったのよ……」
「ほんとうにそれだけか?」
「それだけよ」
蘭を無理やり誘ったのは、奏や四葉といっしょに昼食を食べていたときに、彼が他の女のことを口にしたからだ。冗談だということはわかっていたが、腹が立って、つい、強引に決めてしまった。それに、彼と休日に会えるということにも強く、こころ、魅かれた。
そういう目論見もたしかにあったが、彼が剣術を習えばいいとおもったのもほんとうだ。
たまに視えてしまう彼の消えそうな横顔。あのかなしい貌をなんとかしたかった。道場で、めいいっぱい身体を動かし、頭を空っぽにすれば、少しは気が晴れるかもしれないとおもった。彼がなにをかなしんでいるのかはわからない。なにを考えているのかはわからない。けれど、なんでもいいから打ち込めるものを見つけて、悩みや、かなしみを、一時でもいいから忘れることができればいいとおもったのだ。
本人を前にしてそんなことをいえるはずもなく、美夏は怒ったように顔をそむけた。
「……まあ、いい。話はわかった。すまなかったね、蘭君。美夏が無理矢理、君を連れてきてしまって。だが、どうだろう? せっかく来たんだ、よかったら少し見て行かないか? もし、それで剣術に興味がわいたら、そのときはまた、改めて、ここに来ればいい」
懐の深さを感じさせる笑みをみせると、義一は美夏に着替えてくるよう、いいつけた。
彼女が着替えてくるとふたりは木刀を使用した打ち合いをはじめた。
ぶつかりあう木刀の音が木霊のように響く。
ふたりの踊り子が舞っているようだった。
一方的に美夏が攻めつづけるが、そのすべてを、義一は木刀で受けながし、時には身体を動かし躱してゆく。
しばらくすると舞のような剣戟に乱れが出はじめてきた。
――美夏のテンポが悪くなってきたな。
呼吸が荒くなってきた美夏を視て蘭がそうおもっていると、果敢に攻める美夏の一撃を、義一が軽く下に打ち払い、彼女の体勢を崩した。
「あ!?」
前のめりに倒れそうになる美夏。
義一はその横に回り込み、彼女の首に木刀を打ちおろす。
寸止め。
打ちおろされた木刀は彼女の首にあたる直前で止められた。
「……ま、参りました……」
悔しげに美夏がいうと、
「力みすぎだ。馬鹿者」
静かな声でいって義一は木刀をおろし、ちらと蘭のほうを見て苦笑。
「まあ、無理もないか」
「ありがとうございましたっ……」
一礼しながら怒るようにいって美夏は木刀をかたづける。木刀をかたづけると彼女は道場の出口へ足を向けた。
「汗をかいたから、シャワーを浴びてくるわ」
蘭の横を通るとき、彼の顔を見ないで彼女がいうと、
「カッコよかったよ、美夏」
眩しげに眸をすがめ、彼がいった。
「私は負けたのよ。カッコよくなんてない……!」
「たしかに美夏は負けたけど、ぼくはカッコイイとおもったよ。打ち合っているときの美夏は奇麗だった」
「っ……シャワー浴びてくる」
わずかにうわずった声。
平静を装い、彼女はシャワーへと向かう。
遠のく背を視ながら、彼女もまた自分とはちがって恵まれているのだな、と彼はおもった。
眩しい光のなかで手のとどかない、かすむような幻を視ているような気がした。
自分のような出来損ないには、彼女のような存在は眩しすぎる。彼女には剣の才能があり、生きる才能がある。そして、それを育てる環境もある。自分なんかとはちがうのだ。彼女は将来、きっと、なりたい自分になれるだろう。夢を叶えるだろう。
「……」
彼女は絶望に崩れたことがあるだろうか。死にたいと、泣きながら願ったことがあるだろうか。醜く嗤い自分の存在を消してしまいたいとおもったことは? ……おそらく、彼女はそんなことをおもったことなどないだろう。彼女は自信に溢れ、明日を信じている。明日がないなどとおもったことなどないのだろう。あったとしても、それは、ほんの一瞬。気の迷い。つぎの瞬間には忘れてしまうようなものだろう……。
それにしても、彼女はなぜ、自分と友人になりたいなどとおもったのか。できれば、そっとしておいてほしかった。彼女はもっと付き合う相手を選んだほうがいい。自分なんかと付き合っていては時間を無駄にしてしまう。
それは翼たちにもいえることか、とかれは弱々しく自嘲した。
「蘭君」
「はい……」
「美夏が戻ってくるまで、少し話でもしないか」
振り返った蘭に、義一はあたたかな声でいった。




