梅雨明け前の夕暮れに 第38話
数日後の音楽教室。弁当箱をうけとった蘭は奏のとなりにすわった。
机の上においた弁当箱を見つめる。
……女の子から手作り弁当をもらったら、普通はうれしいんだろうけど……。
あまり、うれしくなかった。
だが、これがほかの人からだったらどうだろう?
といっても、彼の場合、おもいつくのは志摩子かさゆりぐらいしかいない。志摩子からはすでにクッキーなどをもらったことがあるので、さゆりで想像してみる。
司書室で彼女が恥ずかしげに緊張しながら弁当箱をさし出す姿を彼はおもいうかべた。
……さゆりさんだったら、うれしい、かな……?
無意識に笑みがこぼれる。ほほ笑ましい光景だとおもった。
「いつまで、そうやって見ているつもり?」
弁当箱に手をつけない彼を視て、美夏がいった。
「そ、そうだね。いただきまーす」
弁当箱に手を伸ばす。
「ねえ。いま、一条さんのこと考えてなかった?」
「?! 考えてないよ。なんで?」
「……そう。それならいいけど?」
据わった目で彼をじっと視てから、再び食べはじめる。
……なんで、わかったんだろう……?
ふしぎだなあ、とおもいながら彼は二段重ねになっている弁当箱をあけた。
上の段には栄養のバランスを考えたおかずが、ところせましとつめられ、下の段には白飯がぎっしりとつめられていた。
……多すぎる……。
見ただけで胸やけを起こしそうになった。
「おお、すげー量だな。食べられるのか?」
弁当箱をのぞきこみ奏がいった。
「奏先輩、少し食べませんか?」
「……いいのか?」
蘭が訊くと奏は恐る恐る訊き返した。
「ええ。こんなに食べられませから」
「いや、そうじゃなくて……。美夏に殺されるぞ?」
「大丈夫ですよ。残さなければいいんだよね?」
「ねえ、蘭。人のお肉って美味しいとおもう?」
「喰われる?!」
「……まあ、がんばって完食してくれ……」
御愁傷様、というように奏では蘭の肩をぽん、とたたいた。
「はい……」
肩を落とし、胸のうちで嘆息をこぼす。
もう一度、いただきます、といってから蘭は食べ始めた。
雑談をしながら、みなが弁当をたべていると、
「なあ、蘭」
「なんですか?」
「おまえ、うちのバンドで歌ってみねえ?」
遠くを視るような眸で蘭の顔を見つめ、呟くように奏がいった。
「なんですか、とつぜん?」
「いや、なんとなく、おまえの歌が聴いてみたくなったつーか……」
おもってもみなかったことをいわれ首をかしげる蘭に、奏は困ったように笑ってみせる。
「俺、バンド組んでるんだけどさ、次のライブでヴォーカルが辞めちまうんだわ……。で、いま、新しいヴォーカルを探してるんだよ」
「そうなんですか。でも、ぼく、ヴォーカルなんてしたことありませんし……」
「かまわねーよ。とりあえず一回、歌ってみてくんねーか?」
「でも……」
「そう、むずかしく考えるなって。それに、これは俺の勘だが、蘭ならいける気がする」
確信しているかのように、奏はいった。
「すごいね、蘭くん! 奏くんにここまでいわせるなんて!」
驚きながら、四葉が笑顔でいった。
「そうなんですか?」
「うん! 奏くん、音楽にはすごく厳しいひとだから、めったにこんなこといわないし」
それにね、と四葉はうれしそうに言葉をつづける。
「勘っていってるけど、奏くんには、その勘をちゃんと裏付けるだけのものがあるんだよ! 奏くん、じつはすごいんだよ? 奏くんはね――」
「四葉」
はしゃぐ四葉を、奏は静かに睨みつける。
「あ……、ごめんなさい……」
悄然とうつむき、肩を落とす。
そんな四葉を視て、奏は一度、天を仰ぎ、
「あー、もう! そんなに凹むなよ! べつに怒ってねえからさ」
なぐさめるようにいった。
「……ほんと?」
「ほんとだって。だから、な? 元気出せ!」
「うん……わかった。わたし、元気出す!」
えへへ、と笑う彼女を視て、奏はやれやれと嘆息をこぼし、蘭に向きなおる。
「まあ、なんだ。とりあえず、こんど歌ってみねえ?」
「いや、そんな、急にいわれても」
突然の誘いに蘭は困惑する。
「都合悪いか? 部活とかで」
「部活は、してませんけど……」
「もしかして、もうバンド組んでるのか?」
「バンドもなにも、ぼくは音楽経験なんてありませんよ」
「あれ? そうなのか?」
「はい」
勘が狂ったか、と奏は胸のうちで首をかしげた。
「まあ、それでもいいさ。とにかく、一回、歌ってくんねえ? 軽い気持ちでいいからさ。おまえの歌を聴いてみたいんだよ」
「そういわれても……」
「やったらいいじゃない。本ばかり読んでないで、たまにはなにか、他のことをしたら?」
隣に坐る四葉を気遣いながら美夏は蔑むようにいった。
「そういう美夏はなにかしてるの? たしか部活はしてなかったよね?」
助かったとばかりに蘭は話を逸らした。
「私は家の道場で、毎日、父に稽古をつけてもらっているわ」
「道場……?」
「いってなかったかしら。私の父は剣術の師範をやっているのよ」
「へ~、そうなんだ」
初耳だよ、とおもいながら、
――美夏の凛とした雰囲気は武術をやっているからか。
なっとく、なっとく、と胸のうちで何度もうなずく。
「剣術かぁ、美夏にピッタリだねー」
「それ、どういう意味かしら?」
「えっと……、すみません。特に他意はありません……」
睨まれ、口ごもる。
「フン。まあ、いいわ。それより、蘭。あなた音楽も好きなんでしょ。奏先輩のバンドはレベルが高いのよ。そんなバンドのヴォーカルに誘われるなんて凄いことなんだから、やってみたらいいじゃない」
「そういわれてもね……」
興味がないわけではないのだが、蘭はその気になれなかった。
「どうしてもダメか?」
「どうしてもってわけではないんですけど……。すみせん」
再び奏が頼んだが、蘭はもうしわけないとおもいながらも断った。
「そっか……。まあ、無理強いはできねからな。おまえがそういうならしかたねえか……」
残念そうに紙パックのお茶を飲む。
その手を見て、大きな手だな、と蘭はおもった。
――それに、指も長い。
楽器を弾くのに、彼の手は理想的な手をしていた。
「でも、まあ、気が変わったらいつでもいってくれよな。俺はいつでも歓迎するぜ?」
「ハハ。そうですね……」
明るい笑顔でいう彼を見て蘭は苦笑した。
……奏先輩、あきらめてなさそう。
困ったな、と胸のうちでため息をこぼす。だが、彼のような男は嫌いではなかった。彼から吹いてくる風が快いせいだろう。
「もったいないことするわね、蘭。せっかく奏先輩が誘ってくれたのに。バンドのヴォーカルをやれば、女の子にもてるわよ?」
「あ、その手があったか……」
美夏の皮肉に気づかず、蘭は呟くようにいって考える素振りをしてみせる。
「バンドのヴォーカルはもてるぞー」
にやり、と笑いふざけるような口調で奏がいった。
「ホントですか?」
「ああ。やりたい放題、はめ放題」
「どうしよう……ヴォーカルやってみようかな……」
「は? なにいってるの、蘭? あなたは今度から家で稽古をつけてもらうのよ」
「え? いつそんな話になったの?」
「たったいま、私が決めたわ」
「……」
「来週の日曜、午前八時に校門のまえに来なさい。私が迎えに行ってあげるから」
「日曜……」
また、ひとりでいる時間を潰されるのか?
「どうせ、家で本を読んでいるだけなんでしょ? たまには身体を動かしなさいよ」
「いや、日曜はちょっと……」
ピアノを弾きたい。
「なにか予定でもあるの?」
「予定は、ない、けど……」
ひとりでいたいんだ、と蘭はいえなかった。
「じゃあ、決まりね。時間厳守よ。遅れたら刀の錆にしてあげる。楽しみね。私、人を切るのは初めてなの」
「ぼくが切られることは確定なの?!」
ほんとうに自分は運が悪い、とおもいながら蘭は笑ってみせる。
が、その笑みはいつもより弱々しく、かすれているように視えた。




