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梅雨明け前の夕暮れに   作者: 伊達と酔狂
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梅雨明け前の夕暮れに 第37話

 図書室の前で、蘭は美夏の言葉をおもいだし、ため息をついた。


「これから月、水、金と私がお弁当を作ってもってくるから必ず食べなさい。いいわね」

「いや、いいよ! そんなの悪いから!」

「なにが悪いのよ? あんたがいつも病人みたいな顔をしているほうが、私の身体によっぽど悪いわ。いっしょにいるこっちまで病気になりそう。だいたい、蘭は痩せすぎなのよ」

「そんなことないとおもうけど……」

「蘭。あんた、いま、体重いくつ?」

「……五十四キロぐらい、かなあ?」

「?! なにそれ、自慢つもり?」

「美夏が訊いてきたんだろう……」

「ふん。おもったとおり、あんたは痩せすぎよ。いーい? 私が絶対、あんたを太らせ――健康的な体重にしてあげる。これからは、つべこべいわず、私の作ったお弁当を食べなさい。残したら私に花形切りにされるわよ。しかも――ねじり梅」

「美夏はそんなにぼくを切りたいの……?」


 弁当の礼を美夏にいって司書室へ行こうとしたとき、不機嫌そうな声で彼女にいわれたのだが、彼としてはありがた迷惑だった。


 ……悪い娘ではないんだけど……。

 

 強引すぎる。

 再びため息をついて彼はドアを開けた。

 相変わらず利用者がほとんどいない室内を見回し司書室へと足をむける。


「失礼します」

「いらっしゃい、蘭くん」

 

 ノックをし、司書室のドアを開けると、翼がいつものように彼を出迎えた。

 室内にはさゆりと志摩子が坐っており、食後の紅茶を飲んでいた。


「今日はパウンドケーキを焼いてきたのですけれど、いかがですか? 残りものでよろしければ、おにぎりとかもありますよ」

「いえ、今日はちょっと、食べすぎで……」


 席に着いた蘭はもうしわけなさそうにことわった。

 

 ――これ以上食べたら逆流しそう……。

 

 おくびをこらえ、胃のあたりをおさえながら苦笑する。


「そうですか……。紅茶はお飲みになりますか?」

 

 彼の様子をうかがい、食べ物をすすめないほうがいいだろう、と判断してから翼は尋ねた。


「はい。ストレートティーを、お願いします」

「わかりました」


 ほほ笑みをみせ、翼は紅茶を淹れる。


「珍しいこともあるのですね。蘭くんが食べすぎるなんて……」

 

 ストレスだろうか、と心配しながら志摩子がいった。


「ハハ。美夏が、お弁当を作ってきてくれたんですけど、その量が多くて……」

「東堂さんが?」

 

 驚き、隣に坐るさゆりを視る。


「あ、あの、蘭くんは学食へ行かれたのではなかったのですか……?」


 動揺を隠しながらさゆりは尋ねたが、その声はわずかにふるえていた。

 先を越された、とおもった。


 彼女は、蘭が翼や志摩子の手料理を食べるのを視て、いつか自分も、彼に自分の手料理を食べてもらいたいとおもうようになった。そうおもうようなってから、彼女はひそかに料理の練習をしていたのだが、美夏に先を越されたことで動揺し、焦りを感じた。


 美夏は蘭に恋心を抱いている。


 そのことに彼女が気づいたのは、美夏が蘭と友人になりたいといった日から、しばらくたってからのことだった。はじめは美夏のことばを疑った。また、蘭のことを傷つけるのではないかとおもった。


 だが、美夏のことを視ていると、たしかに、美夏は蘭を傷つけるのではなく、彼と親しくなろうとしていることがわかった。そしてそこには、友人、ということば以上のおもいがあるこにさゆりが気づくまで、そう時間はかからなかった。


 特別なことがあったわけではない。それは美夏を視ていれば、おのずとわかることだった。

 美夏が蘭といるときの貌。

 蘭を遠くから見つめる眼差し。

 それらを視て、さゆりは美夏も自分とおなじように、蘭に恋をしているのだとおもった。

 そんな相手に先を越されれば動揺し、焦りもするだろう。


「うん。そのつもりだったんだけど、あのあと美夏に捕まって、半ば強引に食べさせられたんだよね……。ホント、新手の嫌がらせかとおもうぐらい、量が多くて食べるのが大変だったよ」

「そ、そうですか……」

「しかもこれから月、水、金と作ってきてくれるらしいよ。そんなの悪いからって断ったんだけど、ぼくの意見は聴き入れてもらえませんでした」

 

 苦笑しながら嘆息をこぼす。


「三日も……」

 

 美夏の積極的な行動力にさゆりは焦りをつのらせた。


「そう、三日も。ぼくは痩せすぎだから、もっと食べて太れってさ」

「そうですね。太る太らないはともかく、蘭くんはもう少し食べたほうがよろしいかとおもいます。それから――翼さんも。お二人とも痩せ気味ですから……」

 

 憂いをにじませた声で志摩子がいった。

 紅茶を持ってきた翼は淡くほほ笑み、蘭のまえに紅茶をおく。


「たしかに、志摩子さんのいうとおりかもしれませんね。蘭くんもわたしも、もう少し食べるようにしたほうがいいのかもしれません」

「そうですね……」

 

 隣に坐った翼と同じように、蘭も淡くほほ笑み、ティーカップを口に運ぶ。


「お二人とも、ほんとうに、ちゃんと食べてくださいね」

 

 眉尻を下げ、志摩子はふたりを心配そうに見つめた。


「……あの、蘭くん。どうして東堂さんは月、水、金にお弁当をもってくることにしたでしょう? なにか、理由でもあるのでしょうか?」


 おずおずと口を開き、さゆりは尋ねた。


 ……東堂さんなら毎日でも作って持ってきそうなのに……。


 積極的な彼女なら、それぐらいのことはするのではないだろうか。


「月、水、金ってぼくがお弁当を持ってこないことが多いんだよね。そのことを美夏はしってたみたい。だから、その三日間を選んだんじゃないかな?」

「そうだったんですか……」

 

 しらなかった。そんなこと、自分はまったく気がつかなかった。いや、気にしていなかった。だが、美夏はそのことに気づいていた。ゆえに、彼女は彼を気遣って弁当を作ることにしたのだろう。彼女は自分よりも、彼のことをしっているのかもしれない……。彼女は彼のことをいつから視ていたのだろう? いつから彼のことをおもっていたのだろう? 

 

 だが、たとえ彼女ほうが自分よりも先に彼のことを視ていたとしても、彼のことをおもっていたとしても、そんなことは関係ない。彼へのおもいの強さなら、負けるはずがない。

 溢れそうになるおもいを堪えながら、さゆりは蘭の顔を見つめる。


「……」


 胸が痛いほど苦しくなった。

 

 ……ああ、この人といっしょにいたい……。


 おもいが溢れる。


「……蘭くん」


 おもわず、声がこぼれてしまった。

 その声は、花の蜜よりも甘く、散りゆく花が最期に聴かせる歌のように、せつない声だった。


「なに?」

「あ……いえ……」

 

 翼と志摩子に愚痴をいっていた蘭がこちらを向いてやさしげな笑みをみせる。

 その笑みを視て、さゆりの胸が跳ね上がった。


「きょ、今日も、蒸し暑いですね」

「蒸し暑いよねー。あー、嫌だ、嫌だ。早く秋にならないかなー」

「うふふ。蘭くんは気が早いのですね。まだ、梅雨も明けていないのに」

「そうなんですけど、ぼく、夏ってあまり好きじゃないんですよ」

 

 ふんわりと笑う志摩子に蘭は苦笑しながらいった。

 夏は、眩しすぎる光が、孤独の影をいっそう強く、映し出しす。焼けたアスファルトに色濃く映し出された、自分の影を視るたびに、ああ、自分はひとりなんだな、と感じてしまう。そして、ふと、鮮やかな空を見上げれば、空ろな影法師が、そんな自分を見おろしている。自分はあの影法師のように空っぽで、なにもなく、そこでも自分はひとりなのだとおもいしらされるのだ。きっと、こんな自分には居場所なんてどこにもないのだろう。


 ――影法師といっしょに消えてしまえばいいのに。


 夏が好きではないというより、蘭はそんなふうに感じてしまう自分が嫌いであり、また、かなしかった。そして、そのかなしみを、彼は、彼らのまえでいうことができなかった。


「夏には夏の良さがありますよ、蘭くん。暑さ寒さが厳しい季節は星がとても奇麗です。星の輝きは……、よき友人になってくれるではないでしょうか」


 乳白色の月明かりのような声で翼はいった。かなしみやさびしさを、はにかむような笑みでつつみ、彼は蘭を見つめる。

 孤独なひとは誰にもいえないおもいを、星や草花に語りかけるしかないのではないだろうか。


「そうですね……。ほんとうに、そうおもいます……」

 

 夏の夜空におもいを馳せる。

 美しい、とおもった。

 涙がこぼれるほどに、美しいとおもった。そして、なぜ、と彼はおもう。おもってしまう。


「そうだ、蘭くん。夏休み、なにかご予定はありますか?」

「とくに予定はないです。たぶん、宿題が終わったら本を読んでるだけじゃないかと……」

「それなら、わたしとどこかへ、星を見に行きませんか?」

「翼さんとですか?」

「はい。わたしとではおいやですか?」

「そんなことはありません、けど……」

 

 翼と出かけることに否はない。だが、ひとりでいたい、ピアノを弾きたい、彼に迷惑をかけたくない、というおもいが蘭に返事を躊躇わせた。


「よかった。ふと、おもいついたのでいってみたのですけれど、断られたらどうしかとおもいましたから」

 

 苦笑をこぼし、翼は安心したように吐息をこぼす。


「ジョバンニとカムパネルラのようにはいきませんが、ふたりで星の海へ旅に出ましょう」

「はい……」

 

 手に入ることのない〝ほんとうのさいわい〟をおもいながら蘭はかなしく、さびしい笑みをみせた。


「星の海へ行くなんて素敵ですね。ところで、お二人とも。わたしもごいっしょしたいのですけれど、よろしいでしょうか?」

「わたしはかまいませんが、蘭くんはどうです?」

「志摩子さんなら、大歓迎ですよ」

「ありがとう、蘭くん。さゆり、あなたはどうする?」

「わ、わたしも! いっしょに行きたいです……。あの、わたしもごいっしょして、よろしいでしょうか……?」

「もちろんですよ、さゆりさん。ね、蘭くん」

「はい」

 

 志摩子が来ると決まった時点でさゆりも来ることは予想できた。特に断る理由もない。あったとしても、おそらく、蘭は断ることなどできなかっただろう。こうして彼女がここにいることに、彼はだいぶ慣れてきていた。


「夏休みが楽しみね、さゆり」

「はい。お姉さま」

 

 夏休みに入っても蘭に会える。そうおもうと、さゆりはうれしくてたまらない。

 考えてみれば、夏休みに入ってしまったら、彼とは夏期講習(強制参加)、登校日ぐらいしか会えなくなる。夏期講習の他にも講習はあるが、それは自由参加だ。はたして、彼は参加するだろうか? なんとなく、彼は参加しないような気がする。彼が参加するにしても、いつ参加するかわかわなければ彼には会えない。つまり、夏休みに入ってしまえば、一ヶ月近く彼に会えないことになる。そのことを想像するだけで、死んでしまうのではないかとおもうほど、胸が苦しくなる……。だが、翼と志摩子のおかげで、彼に会える日がふえた。こんなにも、うれしいことはない。


 ――ありがとうございます。翼さん、お姉さま。


 胸のうちで彼女はふたりに感謝した。

 彼といっしょにすごせる時間。

 それは、いまの彼女にとって、なによりも大切な時間となっていた。


「ねえ、さゆり。あなたも蘭くんに、なにか作ってくるつもりなら、みんなで食べられるものにしたほうがいいとおもうわよ」

 

 蘭と翼が話しているのを邪魔しないよう、志摩子が小声でいった。


「……どうしてですか?」


 顔を赤面させ、同じように小声で尋ねる。


「そのほうが、蘭くんが気兼ねなく食べることができるとおもうから。お弁当を作ってきたらよろこんでくれるとはおもうけれど、蘭くんはそれいじょうに、きっと、心苦しさを感じてしまうわ」

「……」

 

 たしかにそうかもしれない。彼は美夏の弁当をあまりよろこんでいるようには視えなかった。


 ……どちらかといえば困っているように視えました。


 では、なにを作ってくれば彼はよろこんでくれるのだろう? 


「蘭くんは甘いものが好きだから、クッキーなんていいんじゃないかしら? クッキーなら、翼さんもわたしもよく作ってくるし、蘭くんも気兼ねなく食べてくれるとおもうわよ」

 

 悩むさゆりに志摩子はいった。


「クッキー……」


 一般的な料理にはまだ自信がない。だがクッキーならそれなりのものが作れるだろう。しかし、ここにはひとつ大きな問題がある。クッキーを作ってくれば翼や志摩子のクッキーと、味を比べられてしまうということだ。どうがんばっても、ふたりより美味しいクッキーが作れるとはおもえない。それに、蘭自身、料理を作るといっていたので、味には厳しいかもしれない。

 

 ……作らないほうがいいのではないでしょうか……。

 

 食べてもらうなら美味しいもの作りたい。彼によろこんでもらいたい。だが、自分の料理の腕では、それは、無理かもしれない。たいして美味しくないものを、わざわざ、彼に食べてもらうことはないのではないだろうか……。

 作ろうという気持ちが萎えてくる。


「さゆり。あなた、料理は得意?」


 苦笑しながら志摩子はうつむくさゆりに尋ねた。


「いえ、恥ずかしながら、あまり得意ではありません……」

「大丈夫よ、さゆり。心をこめて作った物なら、蘭くんは、きっと、よろこんで食べてくれるくれるわ」

「ですが……」

「蘭くんによろこんでもらいたいのでしょう?」

「……」

 

 気づかれないように蘭を視る。

 彼によろこんでもらいたい。彼によろこんでもらえたら、どれほどうれしいだろう。そして、なにより、

 

 ――蘭くんの笑顔がみたいです。

 

 あの、崩れそうな横顔ではなく。見ているこちらが、泣きたくなるような、かなしいほほ笑みではなく。彼の、心からの笑顔が、みたい。失敗してもいいではないか。たとえ失敗したとしても彼ならきっと、笑って食べてくる。彼が笑ってくれるのなら、それでいいではないか。


「……お姉さま。わたし、がんばります」

「わからないことがあれば、いつでもわたしに訊いてちょうだい」

 

 面を上げたさゆりを視て、志摩子はやさしくほほ笑んだ。


「ありがとうございます、お姉さま」

 

 志摩子に励まされ、じんわりとしたあたたかさが、胸から全身にひろがってゆくのを、さゆりは感じた。志摩子がいて、翼がいて、いま、目の前に、蘭がいる。彼らといっしょにいられる自分は、なんてしあわせなのだろう、とさゆりはおもった。


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