梅雨明け前の夕暮れに 第36話
四時限目の終わりを報せるチャイムが鳴ると同時に、静かだった教室がいきいきとした声で騒がしくなった。多くの生徒にとって、昼休みはうれしい時間なのだろう。だが、蘭にとっては微妙な時間だった。
……さて、今日はどうしようかな……。
今日は弁当を持って来ていないので学食にしようか、購買部でパンを買おうか悩む。そのうち考えるのが面倒になって、食べなくてもいいか、と彼はおもってしまう。最近は特に食欲がなくなってきているので、食べることなどなおさらどうでもよかった。
「蘭くん、今日のお昼はどうなさるんですか?」
椅子に坐ったまま、どうしようかと悩んでいる彼に、さゆりが笑顔で話しかけてきた。
「今日はお弁当を持ってきてないから学食にするよ」
「そうですか……。では、司書室でお待ちしていますね」
「うん」
恒例となった会話をかわし、教室を出て行くさゆりを笑顔で見送る。
「……」
なぜか、少しはあった食欲が失われていた。
口ではああいったものの、けっきょく、今日は食べなくてもいいかとおもった。
……さてと、どこかで適当に時間を潰してから司書室に行こうかな……。
どこで時間を潰そうか考えながら、緩慢な動きで席を立つ。
「ちょっといいかしら、蘭」
こちらの様子をうかがっていたのか、さゆりがいなくなると、今度は美夏がやってきた。
「なに?」
警戒するような堅い声。
彼女とどう接すればいいのか、蘭はいまだにわからない。
「いまから私に付き合いなさい」
彼の手首を掴み、強引に歩き出す。
「ちょ?! ちょっと待って! ぼくはいまから学食に――」
彼女が急に立ち止まる。
「……その必要はないわ」
振り返り、彼の顔を見つめながらいった。
「え?」
「いいから、黙ってついてきなさい」
再び、強引に歩きだす。
「いやー! おーかーさーれーるー!」
「人聞きの悪いこといわないで。殺すわよ」
「こーろーさーれーるー! 誰か助けてー!」
当然というか、さわらぬ神に祟りなしというか、クラスメイトは誰ひとり、彼を助けようとはしなかった。蘭を助けようとしたり、ふたりの関係を茶化したりしようとすると、美夏の苛烈な反撃が来ることを、クラスメイト(特に男子生徒)はこの数日間で思い知らされている。それゆえ、周りの男子はわずかな憐れみと僻みや妬みの混じった声で無責任な言葉を投げかけ、女子は蘭の反応を見て可笑しそうに笑うだけだった。
教室を出てしばらくすると、蘭はあきらめたのか、おとなしくなった。美夏に手首をつかまれ歩く姿は、まるで、すべてをあきらめた囚人のようだ。
……どこへ行くんだろう?
ぼんやりと彼女の背中を見ながら考える。
進む方向から特別教室がある棟へ行こうとしているのだろう、とおもった。
「……」
なんとなく、不安になった。
だが、まさかな、ともおもう。
彼女が知っているはずがない。
――ぼくがピアノを弾いていることは誰も知らない。
翼や志摩子さえ知らないことを(もしかしたら、うすうすなにかを感じているかもしれないけれど)彼女が知っているわけがない。
……考えすぎだな。
苦笑。
しかし、足を進めるたびに不安は大きくなってゆく。
「着いたわよ」
「……」
第一音楽室。
なぜ、彼女は自分をここへ連れて来たのだろ、と彼はおもった。
不安や焦りを抑え込む。
ドアをノックする彼女を見ながら、彼女はべつに意図があって自分をここへ連れてきたわけではない、と彼は自分に言い聞かせる。
――これは、偶然だ。
手をひかれ教室にはいる。
「よっ」
「いらっしゃーい、美夏ちゃん」
先に来て昼食を摂っていた奏と四葉が美夏を見て声をかけた。
「お邪魔します、奏先輩、四葉先輩」
「失礼します……」
挨拶を返し、ふたりは奏と四葉が昼食を摂っている席へと足をすすめる。
「美夏の彼氏?」
「美夏ちゃんの彼氏さん?」
興味深そうに蘭を視ながらふたりがいうと、
「ちがいます。そんな怖いこといわないでください」
げんなりした貌で蘭は答えた。
「はじめまして。美夏と同じクラスの小日向・蘭といいます」
「はは! 俺は二年の榊・奏。奏でいいぞ。俺も蘭ってよぶからさ。よろしくな、蘭」
「わたし、瀬名・四葉。四葉でいいよ! よろしくね、蘭くん!」
「よろしく、お願いします……?」
自分のおかれた状況がよくわからない彼は歯切れ悪くいった。
「ちょっと、蘭。さっきげんなりした貌で否定したけど、なに? そんなに私の彼氏扱いが嫌なわけ?」
眸を細め、美夏は蘭を視る。目容に怒りが表れていた。
「え?! いや、ぼくなんかを彼氏とおもわれたら美夏が怒るかなー、なんて……」
「そんなに睨むなよ、美夏。蘭が怖がってるだろ?」
「ダメだよ~、美夏ちゃん。蘭くんを怖がらせちゃー」
「蘭が悪いんです。失礼なことをいうから。ああ、もう。ストレスで蘭の胃を壊しそう」
「なんでぼくの胃が壊されるの?!」
「私の健康のために決まってるでしょ」
「ぼくの健康はどうでもいいわけね……」
「なにいってるの? 誰もそんなこといってないじゃない。はい、これ」
小さな手提げ袋から取り出したものを蘭に突きだす。
「……なに、これ?」
突っ込みを入れるのも忘れて、突きだされた物を呆然と凝視する。
「憐れ人ね。これがなにかわからないなんて。いいわ。説明してあげる。これは弁当箱といって、なかにごはんや色とりどりのおかずを入れて、持ち運べるようにした画期的な発明品よ」
「ぼく、いま、もの凄く馬鹿にされてるよね?」
なんだか、悲しい気持ちになってきた。
もう少し、他のいいようはできないものだろうかと彼がおもっていると、
「蘭。あなた、時々ごはん食べてないでしょ」
いい逃れを許さないような眸で彼女がいった。
「……」
「月曜日、水曜日、金曜日は、お弁当を持ってこないことが多いわよね? 学食で食べてるところなんてめったに見ないし、購買でパンを買って司書室で食べることも稀よね? たいていの場合、中庭でぼーとしてたり、職員室で先生に質問したりして時間を潰してる。そんなことしてるから、いつもそんな病人みたいな顔をしてるのよ」
「奏先輩! ここにストーカーがいます!」
「ふざけないで……!」
怒気を抑えた、静かな声で美夏はいった。目が完全に据わっている。
「お弁当がないときがあるのはわかるわ。お家の方が忙しいとかあるでしょうから。でも、パン代ぐらいはもらってるんでしょ? なんでちゃんと食べないの? なにか理由でもあるの?」
「理由? 理由なんてとくにないよ」
なぜ、美夏にそんなことをいわなければならないのかとおもったが、いえば場の空気が悪くなるとおもい、蘭はいわなかった。それに、ほんとうのことをいったところで彼女に理解されるとはおもえない。いったところで話がややこしくなるだけだ、と彼はおもった。
「ただ、なんとなく食べないだけ。ぼく、そんなにお腹すかないし。まあ、浮いたお金で本やCDを買ったりするから、あえて食べないときもあるかなあー」
「馬鹿じゃないの? っていうか馬鹿ね。あきれてものもいえないわ。ちゃんと食べるものを食べないから頭が悪いのよ。なに? あの中間テストの結果。私に教えてもらいながら、あのていどの点数しかとれないってどういうことなの? 嫌がらせのつもり?」
「そんなに悪い点数じゃなかったとおもうけど……」
さゆりさんも教えてくれたけどね、という言葉を飲み込み自分の成績をおもいだす。
クラスで十三番。
だいたい狙い通りの成績をとれたので、彼としては満足だった。
「あのていどで満足してるんじゃないわよ。そんなんでどうするの? もっと上を目指しなさい。大学だっていいところに行きたいでしょ?」
「大学?」
不快気に、片方の眉がわずかに動いた。
「まさか、大学に行かないつもりなの……?」
嘘でしょ、といった声。いつも毅然としている彼女の貌がゆれた。
「さあ? どうするんだろうね……。ちゃんと考えたことないから、わかんないなー」
「わかんないって、自分のことでしょ。ちゃんと考えなさいよ!」
「……そうだね」
うるさい。
ふせた眸の奥に一瞬、冷たい光が輝いた。
「用件はもう済んだんだよね? それじゃあ、ぼくは図書室に行くから」
踵をかえし蘭は教室を出ようとする。煩わしい美夏から一刻も早く離れたかった。
が、その手を美夏に掴まれた。
「蘭。あんた、真正の馬鹿なの? 勝手に用件を済ませてるんじゃないわよ」
もう一度、弁当箱を突きつける。
「私が作ったの。残したら、食べられることのありがたさがわかるまで、あんたの口を針で縫うから。泣いてあやまっても赦さないわよ」
「口を縫われたらあやまれないよ……」
食べたくないなあ、とおもいながら彼は弁当箱をうけとった。




