梅雨明け前の夕暮れに 第33話
挨拶がすんだあと、蘭たちは二階にある広間にとおされた。
部屋に入って蘭の視界に映ったものは二台の美しいグランドピアノ。
――C・ベヒシュタインとプレイエルのグランドピアノ……!
もしかしたらグランドピアノが置いてあるかもしれない、とおもっていたが、まさか二台もあるとはおもっていなかった。高価な調度品などいっさい目に入らない。用意された席に坐るまで、そして、席についてからも、蘭のこころは二台のグランドピアノに強く惹かれていた。
――弾きたい。
C・ベヒシュタインはリストが最高だと褒め称え、プレイエルはショパンがもっとも愛したピアノとして有名だ。ピアノ奏者なら、一度は弾きたいとおもうピアノではないだろうか。
……あのピアノで愛の夢(第三番)や夜想曲を弾けたら……。
だが、人前で弾くことはできない。人に聴いてもらえるレベルの演奏は、もう、できない。
それでも、せめて音だけでも出したい、と彼はおもった。辛いおもいを、惨めなおもいをするだけだとわかってはいる。そんなことをしてなんになる、と冷めた目で嘲笑う自分がいる。しかし、それでも、彼は弾きたいとおもってしまう。が、彼はいいだせない。
過去の自分にたいする執着がそれをゆるさなかった。
動かない指。現在の自分が過去の自分よりも技術が劣っているという現実。ミスタッチ(演奏ミス)にたいする極度な怖れ。羞恥心。劣等感や惨めさ。これらに縛られ、彼はピアノを弾かせてほしいとはいえなかった。
弾く前からこころが折れてしまっていた。
くだらない、といわれればそうかもしれない。だが、これらを捨てることが、忘れることが、彼にはできなかった。ピアノに関してだけは道化を演じることができなかった。
……道化としてもぼくは三流以下のできそこないか……。
かなしく、笑う。
「蘭くん?」
「は、はい?」
上の空で会話を聞いていた蘭に翼が声をかけた。
蘭が無意識に見つめていた紅茶の水面から面をあげると、
「大丈夫ですか?」
心配そうに翼が尋ねた。
「……すみません。なんだか、ぼーとしちゃって」
「テストが終わったばかりですし、疲れているのかもしれませんね。今日は無理せず、早めにお暇させていただきましょうか」
「っ待ってください、翼さん。その……帰るにしても、もう少し休んでからのほうがいいのではないでしょうか……。すこし休めば、蘭くんの体調もよくなるかもしれませんし……」
もう帰ってしまうのか、と驚き寂しげな貌をするさゆりを視て、志摩子が心苦しげにいった。蘭の体調のことをおもえば早めに帰ったほうがいいのはわかっている。だが、さゆりが今日という日をどれだけ楽しみにしていたかを考えると、彼女はいわずにはいられなかった。
「体調が優れないのなら、はやく帰って休んだほうがいいでしょう。ごめんなさい、蘭くん。みなさんといるのが楽しくて、気づかなかったわ。すぐに車を用意しますから」
あかりがもうしわけなさそうにいった。
「いえ、お気になさらず……翼さん。せっかくですから今日はもう少し、ゆっくりしていきましょう」
早く帰りたい気持ちはあったが、蘭は志摩子やさゆりの貌を視ると、帰りたいとはいえなかった。
「ですが……」
「ぼくなら大丈夫ですよ」
心配する翼に蘭は笑ってみせる。
「さゆり」
何食わぬ顔で戻ってきていた道貴がさゆりの名を呼んだ。
「はい」
「蘭くんたちにヴァイオリンを聴いてもらってはどうかな?」
「え、ですが……」
「いいですね。ぼく、さゆりさんのヴァイオリン聴いてみたかったんですよ」
「わたしもさゆりのヴァイオリンを聴いてみたいわ」
「……お願いできますか、さゆりさん?」
「みなさんがそういうのでしたら……」
躊躇いながらもさゆりは席を立ち、準備を始める。
チューニングをすませると彼女は一礼し、
「では――」
といって、弾き始める。
バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ、第一番(BWV.1001)
――ずいぶん難しい曲を弾くんだな。
ヴァイオリンの音色に集中しながら、蘭は素直に驚いた。
バッハの無伴奏によるソナタ(とパルティータ)はヴァイオリニストたちの間では聖典といわれおり、 難易度が高い名曲だ。
曲が終わるとさゆりは一礼し、
「お耳汚しでした」
頬を朱に染めながら軽くスカートの裾を持ち上げた。
「ブラーボー! ブラーボー!!」
「とてもいい演奏でしたよ、さゆり」
「凄いわ、さゆり!」
「素晴らしい演奏でした、さゆりさん」
「さゆりさん、カッコイイ!」
皆が拍手するとさゆりは恥ずかしげにほほ笑んだ。
「あ、ありがとうございます。でも、途中、何回か失敗してしまいました」
ヴァイオリンをかたづけ席に坐る。
――失敗はありましたけれど、いい演奏ができました。
言葉とは裏腹に、満足げに吐息をこぼし、蘭の反応をうかがう。
「いい演奏だったよ、さゆりさん。それに、いい音だった」
眸が合うと蘭はあらためて彼女に賛辞をおくった。
恋焦がれるような、憧れるような眼差しで彼は彼女を視る。
――苦しい。
予想以上の演奏技術、音色、恵まれた環境。そして、これからも弾きつづられるということが苦しいほど羨ましかった。
胸の奥が軋み、彼のなかでせつない音を奏でる。
「蘭くんにそういってもらえると、うれしいです……」
しあわせで堪らないといった笑顔をみせ、わずかに面をふせる。
「ですが、できればもっと上手く弾きたかったです」
「さゆりさんならもっと上手くなれるよ」
「次はもっといい演奏ができるようにがんばります。ですから、その……また、わたしのヴァイオリンを聴いてくださいますか?」
「もちろん。ぼくなんかでよければ、よろこんで聴かせてもらうよ」
痛みをともなう苦しさを笑顔でつつみ蘭はいった。
「……蘭くん、キミはピアノが好きなんだよね?」
紅茶を飲む蘭に気づかれないよう、彼の指をみていた道貴が尋ねた。
「はい」
「好きな作曲家はいるかい?」
「そうですね……ピアノ曲なら、ショパンが一番、好きです」
「私もショパンは好きだよ。ショパンの旋律は詩的で美しいよね。どんな曲が好きなんだい?」
「好きな曲……。夜想曲でしょうか……。作品九番の第一番や第二番とか……他にも好きな曲はたくさんありますけど」
「理由を聞いてもいいかな?」
「理由……」
それは、あの世界に溶けてしまったから。
音そのものに自分がなってしまったから。
だが、このような感覚を蘭はことばでは伝えられないような気がした。
「ショパンを一番強く感じられるから、でしょうか。夜想曲はショパンが語りかけてくるような……ショパンのおもいを隣で聴いているような感じがしますから……。夜想曲はショパンをとても近くに感じられるような気がするんです……。ピアノを弾けないぼくが、こんなことをいうのもおこがましいかもしれませんけど」
「そんなことはないよ。ショパンもよろこんでいるのではないかな。きみにそう感じてもらえるのなら。……ところで、あそこにあるピアノは知っているかい?」
部屋におかれた二台のグランドピアノを視て道貴はいった。
「世界三大ピアノメーカーの一つといわれているC・ベヒシュタインとショパンが愛用していたプレイエルですね」
「さすが、ピアノ曲が好きだというだけあって詳しいね」
「いえ、そんなことは……」
「少し弾いてみるかい?」
「っ……さゆりさんから聞いているとおもいますけど、ぼくはピアノが弾けません」
弾かせてください、という言葉を飲み込み、彼は苦笑した。
苦しい。
胸を掻き毟りたくなる。
「ああ、そういえば、そうだったね……」
……弾けない?
彼はほんとうにピアノが弾けなのだろうか。彼の爪は深く切られていた。まるで、ピアノ奏者のように。
彼の指先を思い出しながら道貴は疑問におもった。
「だが、興味はあるんじゃないかな? ショパンが使っていたピアノはどんな音がするのか」
「それは、ありますけど……。ぼくなんかがさわっていいピアノではありませんよ」
「ピアノが好き、という気持ちがあれば十分だよ」
席を立ち、蘭をピアノへと誘う。
みなの視線が集まる中、蘭は逡巡した。
ここで断るのは不自然ではないだろうか。少し……一音ぐらいなら、音を出しても問題ないのではないか。いや、しかし、そんなことをしても虚しいだけだ……。だが、もう二度とこんな機会はないかもしれない……。
それなら、とおもい蘭は一度、ハンカチで手を拭いてから席を立った。
道貴が鍵盤の蓋を開ける。
――ずいぶん使い込まれているな。
白鍵の色を視て蘭はそう感じた。
緊張するこころを抑え、指を伸ばす。
「蘭くん、ピアノは坐って弾くものだよ」
立ったまま音を出そうとする蘭に道貴がいった。
「音を出すだけですから、このままでも――」
「まあまあ、そういわずに」
「……」
坐るよう、うながされ、蘭は椅子に坐った。
……少し低いかな……。
椅子の高さが合わない。だが、演奏するわけではないので気にする必要はないだろう。そのまま椅子をなおさずに、気持ちを鍵盤に向ける。
蘭の貌が変わった。
力を抜き、
「――」
羽が舞い降りるように鍵盤を押さえる。
美しい、一音が部屋に響きわたった。




