梅雨明け前の夕暮れに 第30話
さゆりが迎えに来る、待ち合わせのバス停へ行く前に、蘭は花屋によって花束を買った。
花はトルコキキョウを主体に、バラ、ストック、ライスフラワーといった白い花で統一されおり、そこにアルケミラなどの緑をふんだんに添えてある。全体的にふんわりとやわらかい感じの花束だ。
青空の下を歩きながら、両手で持つ花束を見て蘭は苦笑をこぼした。
予想外の出費だが仕方がない。招かれて手ぶらで行ったのでは失礼だろう。それに、翼と志摩子はなにかしら手土産を持ってくるはずだ。そこへ自分だけが手ぶらで行ったのでは、はなはだ気まずい。考えただけでもいたたまれない気持ちになる。
気をとりなおして彼は花の香りを吸い込む。
かすかにこころが慰められ、自然と貌がやわらかくなった。
たしかに予想外の出費だったが悪い気はしなかった。
……あ、翼さん。
バス停が近づいてくるとほっそりとした翼の姿が見えてきた。手にはホールサイズのケーキが入る箱を持っている。箱にはレースを模した白い紙と淡い黄色のリボンでラッピングしてあった。おそらく中身は彼の手作りケーキであろう。
少し早足で蘭は翼に近づき、
「こんにちは、翼さん」
親しみをこめていった。
「こんにちは、蘭くん。今日はいいお天気ですね」
やわらかな笑みでこたえ、翼は花束を視る。
「素敵な花束ですね」
「ありがとうございます。翼さんはケーキを持って来たんですね」
クンクン、とおどけて匂いを嗅ぐマネをしてみせる。
「とても、いいにおがします」
「ふふ、今日はザッハトルテを作ってみました」
オーストリアを代表する銘菓、ザッハトルテ。
地味な見た目とは裏腹に高度な技術が要求される難易度の高いケーキだ。
1832年、クレメンス・メッテルニヒに使える下級料理人のフランツ・ザッハー(当時、十六才)が、飽食した貴族たちのために新しいケーキを作れと命じられ生まれたケーキ。現在ではチョコレートケーキの王様ともいわれている。
「ザッハトルテかー……。きっと美味しいんだろうなー」
「美味しくできていればいいのですけれどね」
「美味しいに決まっていますよ! 翼さんが作ったケーキで美味しくなかったものなんてありません!」
「ありがとございます」
はにかんだ笑みを浮かべ、翼は蘭の顔を視る。
「……ところで蘭くん、ごはんは食べてきましたか? 顔色があまりよくないようですが……」
憂いをおびた眸。
「ちゃんと食べてきましたよ?」
苦笑し答える。
……カロリーメイトとミルクティーだけど……。
蘭は休日、基本的に夜まで食事を採らない。だが、今日は出かけなければならなかったので軽いを食事をとっていた。
……お腹が鳴ったら恥ずかしいしね……。
「そうですか。それならいいのですけれど……」
「ぼくなら大丈夫ですよ、翼さん。心配してくれてありがとうございます」
「……」
「……」
相手がいま、どのようなことをおもっているのか察してしまい、ふたりはなにもいえなかった。
互いに眉尻を下げほほ笑みあう。
「そうだ、ぼく、昨日から『銀河鉄道の夜』を再読しているんですけど、やっぱりいいですよね『銀河鉄道の夜』」
「ええ。わたしもそうおもいます。何度読んでも、やさしくて、せつなくて、かなしくて、涙がこぼれてしまいますよね」
ふたりは、なぜ、ブルカニロ博士は削除されてしまったのか話していると、
「翼さん、蘭くん、こんにちは。お二人ともお早いのですね」
日傘をさした志摩子がやってきた。手には紫色を主体とした花束を抱えている。
ふたりは彼女に笑みを向け挨拶を返した。
「かわいい花束ですね、蘭くん」
「志摩子さんの花束には敵いませんよ。華道や花のアレンジについては詳しくありませんけど、その花束には志摩子さんのような落ち着いた気品があって、奇麗だとおもいます」
「うふふ、お上手ですね。蘭くんはお花を御自分でお選びになったのですか?」
うれしそうにほほ笑みながら、彼女は尋ねた。
「いえ。店員さんに選んでもらいました。はじめはぼくの好きな花でまとめようとおもったんですけど、それだとどうも、さゆりさんのイメージに合わなくて……。だから、さゆりさんのイメージを店員さんにいって作ってもらいました」
「では、蘭くんはさゆりをイメージして、花束を選んでくださったのですね?」
「一応、そうなんですけど……。変ですか?」
「いいえ。さゆりに合っているとおもいますよ。……よろこぶでしょうね、さゆり」
愛しげに花束を見て志摩子は顔をほころばせる。
「そうだといいんですけど」
苦笑し、蘭は花束を抱えなおした。
三人が雑談をしていると黒のロールス・ロイス(ファントム)がバス停に近づいてきた。
速度を落とし車はバス停よりやや後方に停車。
通行人やバスの利用客が注目する中、運転席から壮年の男が降りてくる。
車から降りた男は雑談している蘭たちに近づき、
「お話し中、失礼いたします。春霞様、常緑様、小日向様でございますか?」
恭しく尋ねた。
「はい。そうです」
年長者である翼が応じると男は、
「わたくし一条家に仕える大石という者でございます。皆様をお迎えに参りました」
会釈し、淀みなくいった。
「さゆりさんはどうかされたのですか? 姿が見えないようですが……」
姿の見えないさゆりを心配して翼が尋ねた。
「申し訳ございません。予定ではお嬢様も御一緒に来るはずだったのですが、歓迎の準備のため、こちらに来ることができなくなりました。ついては、お嬢様から言伝を預かっております。〝迎えに行けなくなってごめんなさい〟とのことです」
「そうですか。それならいいのですけれど……。体調を崩されたわけではないのですね?」
「お気遣い、ありがとうございます。ですが、御心配は及びません」
安心させるような笑みをみせ、
「では皆様、こちらの車にお乗りください」
止めてある車を示す。
先導する大石の後を歩きながら、蘭はぼんやりと、どこか冷めたような眸で車をみる。
……まさかこんな高級車で迎えが来るとはね……。
想像していなかったわけではないが、まさかほんとに来るとはおもっていなかった。彼女の家は家格の高い、本物の上流階級なのかもしれない。深窓の令嬢。真のお嬢様だ。やはり、彼女は恵まれている。……なぜだ? なぜこんなにも、この世は不公平なのだろうか……。生まれた瞬間から、こうも差があるのはなぜだろうか……。
資本家階級に対する妬みと、あまりに不公平で理不尽な運命(または神に)対する憤りを感じながら、彼は車に乗り込んだ。




