梅雨明け前の夕暮れに 第29話
蒲団をかたづけたあと、蘭は十時頃まで音楽を聴いていた。
音楽を聴いているときの彼は真剣そのもので、眸を閉じ、一音も聴き逃すまいとしているようだった。
十時を過ぎると彼は煙草を一本吸い、ピアノの練習をするため階下に降りた。休日はこうして三時間ほど過ごしてからピアノの練習を始めるのが彼の習慣になっていた。
指から肩までのストレッチをすませ、惨めさと虚しさ、そして吐き気を堪えながら椅子に坐る。
その貌は痛ましいほど苦しげだった。
いくつかの運指をし、深く、重い吐息をこぼす。
「……」
指がおもうように動かない。指の関節が支えられない。指の感覚が――遠い。
ピアノを弾ける手ではなかった。
そんなことは彼にもわかっている。
だが、それでも彼はピアノを弾く。
明日、いや、今日、自分は死ぬかもしれない。
そうおもうと弾かずにはいられなかった。ピアノを弾きたかった。
鋭い、なにかに挑むような眸で彼は深呼吸をし、
「……」
鍵盤に手を伸ばす。
紡ぎだされる旋律。
かなしい音色。
だが、しばらくすると、
「っ……」
ミスタッチが目立ち始め、音が濁りだした。
弾けるはずの曲が弾けない。
簡単なミスをしてしまう。
音色が乱れる。
「フッ」
曲を弾きつづける彼の口から不意に、笑い声がもれた。
「フフ……フフフ……」
笑うように、泣くように、顔が歪んでゆく。
そして彼はついに堪え切れなくなったように、
「アハハハハハ!」
面をふせ、笑いだした。
「ハハハッ……フッ……フフッ……フフフフッ……ハハ……ハッハッ……フッフフッ……」
背もたれに寄りかかり、両腕をだらりと垂れ上げる。
「フッ……フッフッ……無様だなあ……」
面をふせたまま嘲笑するように、疲れたように、あきらめたように呟いた。
笑いがおさまると彼は嘆息をこぼし天井を見上げた。
前髪をかきあげる。
額には冷たく嫌な汗が滲んでいた。
叶わぬ夢にすがりつづけている自分はさぞかし滑稽にみえるのだろう。いったい自分はなんのために生まれたのか。なんのために生きているのだろうか。なぜ、生きているのか? 自分にはなにがあったのだろう……? 思い返すと辛く、嫌なことばかりで死にたくなる。きっと、このまま生きていてもなに一つ報われず死んでゆくのだ。
――虚しい。
そんな人生にどれほどの意味があるというのか。……意味などない。価値のない無駄な人生だ。なぜ自分は生まれてしまったのだろう。こんな人生なら生まれたくなどなかった。……生まれたく、なかった……!
――悔しい!!
背を丸め、無意識に息を止める。
……苦しい……!!
苦しくて、苦しくて、仕方がなかった。
いますぐナイフを胸に突き立て、引き裂いてしまいたかった。
「っ!」
真っ白な光が、弾けた。
拳を振り上げ、殴りつけるように鍵盤に振り下ろす。
が、寸前のところで蘭はその手を止めた。
「……」
呼吸を何度か繰り返し、震える手を膝の上に載せ握りしめる。
強く、手が白くなるほど強く、握りしめる。
「フッ……フフッ……惨めだなあ……」
手をほどき、小さく呟いた。身体から力が抜けてゆく。
どうしてこんなにも音楽を愛してしまったのだろう……? いや、もしかしたら自分は音楽を愛しているわけではないのかもしれない。他にはなにもなかったから音楽を愛していると思い違いをしているだけなのかもしれない。他にはなにも見つけられなかったから、音楽に執着しているだけなのかもしれない……。わからない。もう、わからない……。音楽への愛を、妄執を忘れることができれば、きっと……。
だが、忘れることなどできるわけがなかった。
呆然と鍵盤を見つめ、うなだれる。
「……死にたい……」
しばらくの間、彼はそのまま身動き一つしなかった。
やがて左右の指を動かし、
「……」
面を上げ、冷たく美しい鍵盤に手を伸ばす。
彼は弾きつづける。
どれだけ無様で、惨めで、滑稽であろうと。
涙に宿った光のような音色が、今日も部屋に満ちてゆく……。




