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梅雨明け前の夕暮れに   作者: 伊達と酔狂
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梅雨明け前の夕暮れに 第28話

「残念ですが、左腕は切断しなければなりません……」

「先生、ぼくは腕を切るつもりなんてありません」

「……お気持ちはわかります。ですが――」

「ピアノしかなかった」

「?」

「ぼくにはピアノしかなかったんです。それがすべてです。ほかにはなにも――なにも、ありませんでした。ほんとうに笑ってしまうぐらい、なにもありませんでした……。ピアノがなければ、ぼくはとっくに自殺していたでしょう。ピアノが弾けなくなるぐらいなら死んだほうがましです。だからぼくは最期までピアノを弾きます。それがぼくの生きる意味、生きた証です。悔いはありません」

 

 ピアノに逢えてよかった。

 ピアノを弾けてよかった。

 

 ――ぼくはピアノを――


 目覚まし時計が不快な音を奏でる。

 時刻は午前六時五十五分。

 瞬時に目覚ましを止め、蘭は右手を左腕に添えた。


「……夢ぐらい、いい夢みせてよ……」


 長い息を吐き、弱々しく笑う。


「……」


 暗澹とした気持ちで窓のほうを見れば、カーテン越しからでもわかるほど白い絶望が溢れていた。

 生きていることをかなしくおもいながら煙草に火を点け、ミニコンポの電源を入れる。

 ショパンの前奏曲、第十五番『雨だれ』がしずかに流れ出す。


 ……今日は、さゆりさんの家へ行かなきゃいけないんだっけ……。

 

 天気とは合わないが、そんなことは彼には関係なかった。

 晴れていても雨が降っていても聴きたい曲を聴く。それだけだ。

 眸を閉じればいつでも雨が降っている。

 しずかに、しずかに、雨が降っている。

 雨はやがて雪に変わり、彼のこころから生きる熱情を奪っていく。

 そして力尽き、音もなく、涙もなく、倒れる彼の姿を雪が覆い隠してゆく。

 しずかに、しずかに、雪は降りつづける。

 永遠に、降りつづける。


 ……眠りたい。それだけなのに……。


 たよりなく揺れ、消えていく紫煙を、彼は空ろな眸で見上げた。



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