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梅雨明け前の夕暮れに   作者: 伊達と酔狂
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梅雨明け前の夕暮れに 第25話

 力強く凛とした鈴の音。

 カウンターに置かれた呼び鈴の音だ。


「? 誰かいらっしゃったみたいですね」

 

 誰も来ないであろうとおもっていたので苦笑まじりに翼がいった。


「ぼくが行きますよ」

 

 腰を浮かせた彼より先に立ち蘭はカウンターへ向かう。


 ……ちょっと強いけどいい音だったな……。

 

 嫌いな音じゃない、とおもいながら司書室の扉を開け、


「!?」

 

 カウンターのまえに立っている人物を視て、蘭は足を止めた。

 

 ……なんで……?

 

 ここには絶対、来ないであろうとおもっていた人物――東堂・美夏がそこには立っていた。

 不機嫌そうな貌でこちらを見ている。


「なにやってんの? カウンターにいないなんて職務怠慢じゃない?」

「あー、ごめんね、東堂さん。まさか誰か来るなんておもってもみなかったから……」

「フン! まあいいわ。……そんなところで突っ立ってないでこっちに来なさいよ」

「そ、そうだね」

 

 疑問符が飛び回る頭でなんとか応じる。

 いままで一度も本を借りに来たことのない彼女がなんの用だろうか。少なくとも自分がいる日には来ないだろうとおもっていたのに。本を返しに来たのだろうか。しかし、彼女は本を持ってはいない。教師からの言伝でもあるのだろうか。それとも他になにか用事が……。

 いつものようにカウンターの椅子に坐ろうとおもったが、彼は止めた。

 立ったまま彼女と向き合う。


「ちょっと小日向に訊きたいことがあるんだけど」


 射抜くような眸。


「なに?」

「小日向の好きな本を教えて」

「? ぼくの好きな本を? なんで?」

「私が借りるからよ」

「……」

 

 しばし言葉を失う。彼女の行動が理解できなかった。


「あのさ、東堂さんってぼくのこと嫌いなんだよね? なんでわざわざぼくの好きな本を借りるの?」

 

 好きな本を貶すつもりだろうか。だとしたら、たちが悪い。

 不快さを、蘭は苦笑でつつんだ。


「私がいつ、小日向のこと嫌いっていったのよ?」

「え、だって――」

「そんなこと、私は一言もいったおぼえがないわ」

「……」

 

 たしかに、いわれたおぼえはないが嫌われているとしかおもえなかった。

 

 ……じゃあ、どうして東堂さんはぼくに絡んでくるんだろう?


 嫌っていないのならそっとしておいてほしい。

 

 ……それともぼくに嫌われたいのか?

 

 彼女の言動がまったく理解できない。ますますわけがわからなくなった。


「ふんっ。勝手に思いちがいしてるんじゃないわよ」

「……」

「さあ、これで私が小日向のこと嫌ってないってわかったでしょう。わかったらさっさと小日向の好きな本を教えなさい」

 

 いまの説明でなにをわかれと。

 胸のうちで、蘭はあきれたようにつぶやいた。


「なに黙ってんの? さっさと教えなさいよ」

 

 呆然と半ばあきれた貌をしている彼に眉を吊り上げて見せる。


「どうかなさったのですか、蘭くん?」

 

 そこへ、戻ってこない蘭を心配してか司書室からさゆりが出てきた。


「一条さん……」

「!? 東堂さん……」

 

 おもいがけない人物を視て、さゆりは驚き、息をのんだ。

 なぜ、彼女がここに?

 

 ……また、蘭くんを傷つけるつもりなのですか?

 

 そんなことはさせない。

 自分がなんとかしなければ、と彼女はおもった。


 ……たいしたことはできないですけれど、それでも、わたしは……。

 

 意を決し、困惑する彼の隣に立つ。


「蘭くん、なにか問題でもあったのですか?」

「問題があったといえば、あったかなあ……」

「どこに問題があったのよ? 私はただ本を借りに来ただけよ」

 

 それのどこに問題が、とさゆりは蘭に首を傾げてみせる。彼はなんといっていいかわからず、苦笑してみせた。ふたりのやりとりを視て、美夏は苛立ちをおぼえるが、


「そうね……やっぱり読むなら恋愛ものがいいわ。小日向、あんたの好きな恋愛小説は?」

 

 冷静をよそおって軽く笑ってみせる。が、その笑顔にはどこか、妙な迫力があった。

 

 ……東堂さんが恋愛もの?

 

 似合わないなあ、と蘭はおもったが口に出してはいわない。

 

 ……グーで殴られそうだ……。

 

 妙な迫力を感じさせる彼女の笑顔をみて、軽口は自重した。


「ぼくはあまり恋愛小説って読まないんだけど……」

「あまりってことは、少しは読んでいるんでしょ? だったら読んだなかからお薦めのを一冊教えなさい」


 そういわれてもねえ、と蘭は苦笑。


 ……お薦めの一冊といわれてもなぁ……。


 読んだ本はどれも名作といっていい作品ばかりだが、それを彼女が気にいるかはわからない。そもそもなぜ、自分が彼女に本を薦めなければならないのか。だが、このまま教えないでいると、いつまでもここに居座りそうな気がする。なにかてきとうに薦めて、彼女には早々に帰ってもらったほうがいいだろう。

 なにを薦めるか彼が考えていると、


「あの、東堂さん。なぜ、蘭くんの好きな本を借りるのですか? 本を読みたいのであれば、御自分で好きなもの選べばよろしいのではないでしょうか?」


 不安そうにさゆりが尋ねた。

 なぜ、彼女は彼の好きな本を借りようとするのだろう。彼のことが嫌いなのではなかったのか。


「選んでいるわよ? 小日向が選んでくれた本を読む、ということを。ねえ、一条さん。私が小日向の好きな本を借りるのになにか問題でもあるの?」

「……」

 

 気圧されたようにさゆりは唇を結ぶ。が、


「問題なら、あります」


 譲れない問題が、いまの彼女にはあった。


「東堂さんの目的はなんなのですか?」

「目的?」

「東堂さんは蘭くんのことをあまり好くはおもっていませんよね? それなのになぜ、わざわざ蘭くんの好きな本を借りようとするのですか? また、蘭くんを傷つけるつもりなのですか? もしそうなのだとしたら、そんなことは止めてください。これ以上、蘭くんを傷つけないでください……!!」

「……一条さん、あなた……」


 蘭を守ろうするさゆり覚悟を感じ、美夏は少なからず驚いた。

 ただのおとなしいお嬢様かとおもっていだが……これはどういった心境の変化だろう。かんたんだ。そんなものは彼女を視ればわかる。自分にはわかってしまう。彼に寄せる彼女のおもいが。

 

 ……あなたも小日向のことが……。


 この短時間でなにがあったのかはわからない。が、時間など些細な問題だ。

 

 一瞬。

 

 ほんの一瞬で人は人に惹かれることがある。心を奪われることがある……。彼女はどうだったのだろう。やはり一瞬で心を奪われてしまったのだろうか。いや。おそらくちがだろう。いままで彼の近くにいてもなにもしなかったのだから、きっと自分でも気づかないうちに彼女は惹かれていたのだ。そして、この短時間にうちに自分のおもいに気づき(なにかきっかけがあったのだろう)そのおもいを否定することなく、彼女はそれを認め、受け入れたのだ。

 しかし、だからといって蘭のことを譲るつもりなど美夏にはなかった。


 ――譲れない。

 

 あの日からずっと彼のことを視てきた。彼のことだけを考えてきた。

 

 ――譲れるわけがないじゃない!


 荒れ狂うほどの激しいおもいが彼女の身を焼く。が、


「……あなたも思いちがいをしているわ、一条さん」

 

 激しいおもいとは裏腹に、彼女の口調は冷静だった。


「思いちがい?」

「私はべつに小日向のことを嫌ってなんかいない」

「え? ですが……」

「そうおもわれてもしかたがないのは自分でもわかかっているわ。私はいつも小日向にキツイことをいっているから。でも、小日向を視ているとつい、いっちゃうのよね……腹が立ってきて。一条さんはいいたくならない?」

「いえ、わたしは」

「そう……。一条さん、私はこれでも小日向と仲良くなりたいとおもっているの。本を借りるのだって小日向のことを知りたいから。小日向を傷つけるつもりなんてないのよ」

「それならなぜ――」

「さゆりさん、べつに東堂さんがぼくの好きな本を借りてもいいんじゃない?」

「蘭くん……」

 

 心配する彼女に彼は微笑んでみせる。


「傷つけるとか傷つけないとかそんなおおげさなことじゃないよ。ぼくのことを知りたいっていうのなら、それはそれでいいんじゃない?」

「ですが……」

「小日向がいいっていっているんだから、それでいいじゃない、一条さん」

「……」

 

 さゆりはおもわずスカートのまえで重ねた手に力をいれた。

 彼女のいっていることは信用できない。仲良くなりたいというのなら、なぜ、彼女は彼にもっと優しく接しないのか。傷つけることばかりいうのだろうか。……やはり、傷つけようとしているのではないか。彼を傷つけるようなことはさせない。なにか反論しなくては。だが、なんといって反論すればいのだろう……。彼がいいといっている以上、反論の余地はないのだろうか。彼女の言葉は信用できないといって止めさせればいいのだろうか。それでも、彼はいいというような気がする……。そうなれば、もう、どうしようもない……。

 

 ――嫌です。蘭くんの好きな本を誰かが借りるだなんて!

 

 自分でも理由はわからないがとても嫌な気持ちになる。胸が苦しくなる。

 蘭を傷つけるようなことはさせない、というさゆりのおもいは強いものだが、いまはそれ以上に、このおもいのほうが強かった。彼女は気づいていないが、彼女は美夏に嫉妬していた。そして、視えない壁に圧迫されているかのように苦しく、視えはじめたひかりが遠ざかって行くかのように悲しかった。


「で? 小日向のお薦めの本は?」

 

 美夏は、なにもいわないさゆりから眸をそらし、蘭に尋ねた。


「オスカー・ワイルドの『サロメ』かなあ」

「ふーん。『サロメ』ね。どうしてそれを選んだの?」

「どうしてって、なんとなく……」

「ふん、まあいいわ。それで、その本はどこにあるの?」

「フランス文学の棚」

「……その棚はどこにあるのよ?」


 室内をぐるりと見回し彼女は少し怒ったような声で尋ねた。

 やれやれと苦笑し蘭はフランス文学の棚へ。彼女も彼の後につづく。


「……」


 本棚へ向かう彼の後姿を、さゆりは懇願するような眸で見つめ、


 ……蘭くん、行かないで。やめてください……。

 

 痛みを堪えるように胸をぎゅっとつかんだ。

 本棚のまえに立つふたり。

 まわりには、しずかに舞う埃がきらきらと輝いている。

 苦笑しながら本を取り出す蘭の姿を、美夏は怒ったような貌で見つめている。

 離れた場所からふたりを視ているさゆりには、彼女の怒った貌が、どこかうれしそうに視えた。ふたりがとても仲の良い関係に視えた。

 取り出した本を蘭が美夏に手渡そうとした瞬間、


「っ!」


 さゆりは、ぎゅっと眸を閉じた。

 涙が、こぼれそうになった。



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