表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
梅雨明け前の夕暮れに   作者: 伊達と酔狂
23/50

梅雨明け前の夕暮れに 第23話

 司書室で食事を摂りながらさゆりは蘭のことを考えていた。

 勉強を教えてほしいといわれたとき、彼の力になれるとおもいうれしかった。だが、もし彼が傷ついているのなら、なにか抱えているのなら、もっと他にすることがあるのではないだろうか。できることがあるのではないだろうか。 

 

 ……でも、わたしにできることってなんでしょうか……?

 

 さきほどは、なにかいって元気づけようとしたが駄目だった。だからせめて、彼の勉強を見ることで力になれたらとおもったのだが、ほんとうにそれで彼の力になれるのだろうか。彼はよろこんでくれるのだろうか。……わからない。もっとほかに、なにかできることは……。

 箸の動きが無意識に止まる。


「どうしたの、さゆり?」

「お姉さま……」

「なにか悩みごとでもあるの?」

 

 隣に坐る志摩子が、梢がささやくような声で尋ねた。翼も気遣うように彼女を視ている。その眸を視てさゆりはふとおもった。彼の背には、白い翼が隠されているのではないか、と。

 そんな空想から思考を現実に戻し彼女は少し逡巡した後、


「……あの、じつは蘭くんと東堂さんというクラスメイトが、その……ちょっとした口論をして、あ、いえ、口論ではないですね。一方的に東堂さんが蘭くんを……。以前からそうなのですけれど、なぜか東堂さんは蘭くんに辛くあたることが多くて……。それが、今日はとくに酷くおもわれたので、その、蘭くんが傷ついているのではないかと……。ですから、なにか蘭くんを元気づけるようなことができないかと考えていたのですが、なにもおもいつかなくて……」

 

 たどたどしい口調でいった。


「そう、そんなことが……」

 

 かなしげに、そして、寂しげに志摩子は眸をふせる。

 

 ……はじめてしったわ、そんなこと……。

 

 もっと自分たちを頼って欲しいとおもいながら彼女は翼に尋ねる。


「翼さんはしっていましたか?」

「いえ。わたしも初耳です……」

 

 困ったような、痛みを堪えるような貌。

 数秒の間、翼を見つめてから志摩子はさゆりに眸を戻した。


「……さゆり、ありがとう。わたしたちの大切な友人のことをおもってくれて。あなたが蘭くんのことを元気づけたいとおもってくれたことが、わたしはほんとうにうれしいわ。わたしも翼さんも、蘭くんが傷ついているのなら元気づけたい。でも、蘭くんを元気づけるのになにか特別なことはしなくてもいいとおもうの。大切なのは、そばにいることだとおもうから……」

「そばにいること……」

 

 言葉の意味を吟味するようにさゆりは呟いた。

 

「……」


 さゆりの胸に、なにかが引っかかった。が、あまり気にすることなく志摩子の声に耳を傾ける。


「さゆりも誰かがそばにいてくれたことで心を癒されたことがあるでしょう?」

「……はい」

 

 胸にぬくもりがよみがえる。涙がこぼれそうになった。

 それは、かなしく光る、凍えた花びらを溶かす、太陽のようなぬくもり。


「人は誰かがそばにいることによって癒されるものよ。もちろん、それは誰でもいいわけではないけれど……。でも、さゆりなら大丈夫。きっと蘭くんも、さゆりがそばにいてくれたら元気になれるとおもうわ」

「ですが、なにもできないわたしなんかが、そばにいても迷惑なのでは……」

「ねえ、さゆり。あなたのそばにいてくれた人は、あなたになにか特別なことをしていた?」

「……いいえ……」

「さゆりはその人になにか特別なことを求めた?」

「求めてはいなかったと、おもいます……」

「そばにいてくれるだけでうれしかったでしょう?」

「はい……」


 ぬくもりをたしかめるように、手をそっと胸にあてる。


「ね? だから無理をする必要なんてないのよ」

 

 志摩子は一度、わずかに眸を伏せ、


「でも……誰かのそばにいることはかんたんなようでいて、とても難しいの……」

 

 まっすぐにさゆりを見つめる。


「さゆり」

「はい?」

「さゆりは蘭くんのそばにいたい?」


 願いと不安にゆれる眸。


「わたしは……」

 

 突然の問いに戸惑う。いままで見たことのない彼女の眸に見つめられ、おもわず手に力が入った。

 

 ……わたしは……蘭くんのそばに……いたい、と、おもう……。

 

 だが、それはなぜだろうか? ひとりでいた自分を救ってくれたからか。いつも助けてくれるからか。話しかけて、笑いかけてくれるからか。……それだけではないような気がする。

 なぜ、自分はこんなにも彼のそばにいたいとおもうのだろう。……わからない。わからないが、そばにいたい。そうおもうのが自分にとって自然であるかのように、そばにいたいと、おもう。


 それだけではいけないのだろうか。他に理由が必要なのだろうか。いや、そんなことはないはずだ。明確な理由など必要ない。自分が彼のそばにいたいとおもっているのだから、理由などそれで十分ではないか。

 それにしても、とさゆりはおもう。

 

 ……いつの間にわたしは、こんなにも蘭くんに惹かれていたのでしょう……?

 

 親しくなってまだ間もないというのに我ながらおかしな話だ、と彼女はおもう。それでも蘭のそばにいたいとおもう、たしかな気持ちが自分のなかにあり、それは彼女にとって偽ることのできない本心だった。その気持ちを彼女は志摩子に伝えようとするが、


「お姉さま、わたし――」


 不意に、かなしくほほ笑む、彼の姿が頭をよぎった。


「?!」

 

 この瞬間、彼女は気づいた。気づいてしまった。

 かなしくほほ笑む彼の姿が滲み、目のまえから消えてゆく。

 さゆりの瞳から、ひとしずくの光がつうっとこぼれ落ちた。


「……わたしは、蘭くんのそばにいたいです……」

「……」

「ですが……わたしは蘭くんのそばにいることができません……」

「……」

「わたしはまだ、蘭くんと出逢えてさえいないのですから、そばにいら、れ……」

 

 涙が溢れ出した。

 嗚咽がもれないよう手で口元をおおい、うつむく。

 気づいてしまった。自分が彼のそばにいないということに。なぜ、いままで気づかなかったのか。あたりまえのように彼が近くにいてくれたから、自分は彼のそばにいるとおもってしまった。だが、それはちがった。それは、ただ、そこにいるだけ、ということだった。

 彼のそばに、彼の隣に、自分は、いない。


 ……わたしはなんて身勝手で、愚かな思い込みをっ……!!

 

 遠い。

 彼がとても遠くに感じられる。

 

 ……それでもわたしは蘭くんのそばにいたい……。

 だが、彼はそれをゆるしてくれるだろうか? 彼のおもいを、なにひとつしらない自分が、彼のそばにいることを。……いまのままではゆるしてはくれないだろう。だからといって自分はそれであきらめられるのだろうか。あきらめてしまうのだろうか。


 ――嫌。そんなのは嫌です!!


 たとえ彼に拒否されたとしてもそばにいたい。この気持ちはどうしようもない。でも、彼は自分のことを迷惑におもっているかもしれない。おそらく彼は、自分のことなど必要としてはいないだろう。このままではいつか……彼が離れて行ってしまう。自分のまえから消えてしまう。


 ――行かないで!!


 去って行くその背に彼女は叫んだ。喪失感に襲われ光を失う。


「お姉さま……」

「……」

「わたしは、蘭くんに逢いたいです……そばに、いたいです……」

「逢えるわ」

「……」

「さゆりならきっと蘭くんに逢える」

 

 涙に濡れるさゆりの肩をそっと抱く。


「……お姉さまはわかっていたのですね。わたしが蘭くんと出逢えてないということを……」

「わかっていたわ」

 

 深く、かなしげな声。だが、その声は決して弱々しいだけのものではなかった。


「それならなぜ、おっしゃってくださらなかったのですか?」


 ふせていた面をあげる。


「言葉では伝えづらいことだから……。それに、これはあなた自身が気づかなければ、感じなければならないことだとおもうの。他人にいわれても、きっと、あなたは感じられなかったはずよ。蘭くんとの距離を。

 

「わたしたちは近くに視えている、隣に立っているということだけで、そばにいると錯覚してしまう。真実ほんとうは星のように、お互い遠く離れているのに……。自ら求めなければその距離は縮まらないわ。逢いたい。そばにいたい。そういうおもいがあって、はじめてそばにいけるの。その人の〝こころ〟にふれられるの……。

 

「わたしは、さゆりが蘭くんのそばにいたいと望んでいるのか、わからなかった。望んでいないのなら、あなたにとって蘭くんが、ただの友人でしかないのなら、このまま気づかないほうがいいともおもっていたわ……」

 

 ハンカチでさゆりの涙を拭いながらいった。

 なぜ、とさゆりは眸で問う。


「蘭くんはとても繊細な人なの。……ある人がいっていたわ。蘭くんは〝雪の下に咲く白い花のようだ〟って……。見ているだけでは決して見つからない。探そうとおもっても、探している間に雪の上から踏みつけて傷つけてしまうかもしれない。雪をかきわければ、雪をかきわけている手で、その雪で、傷つけてしまうかもしれない。そんな花のような人だと……。


「蘭くんはたいせつな友人なの。ほんとうに……弟にほしいぐらい愛しいとおもえる人なのよ。だから、無自覚に近づいてほしくなかった。蘭くんがこれ以上傷つくところを見たくなかったから……。

それに、その花を探す方も、星の光すら凍える寒さや、堅く凍てついた雪で傷ついてしまうことがあるわ。やっとのおもいで見つけることができたとしても……拒絶されてしまうかもしれない……。

その花のことをしらなければ、気づかなければ、探そうとはおもわない。それは存在していないのと同じことだから……。たまたましってしまったとしても、わざわざ辛いおもいをしてまでその花を求める人は少ないわ。


「……でもね、その花はたしかに咲いているの。咲いて、いるのよ……。多くのヒトはその花ことをしらないまま、しらずしらずに踏みにじって行く……。花は傷つけられ、痛みを堪えながら、寒さに震え、人知れず涙を流しているの。そして、その花は、雪解けを待つことなく、枯れてしまうのよ。ぬくもりや光を、しらないまま……。


「わたしはさゆりが気づかないのならそれはそれでいいとおもっていたわ。それは、あなたが気づいてしまえば、そばにいたいと望んでしまえば、辛いおもいをすることがわかっていたから。さゆり。あなたはわたしの大切な妹よ。わたしはあなたが傷つくところも見たくなかったの。あなたが蘭くんとの距離に気付かなければ、蘭くんに近づきすぎないようにするつもりだった。


「けれど、わたしは望んでもいたの。気づいてほしいと、あなたが蘭くんのそばにいてくれたらと、願っていた。祈っていたのよ……。もちろんこれはわたしの勝手なおもい。押し付けるようなことはしたくなかった……」


 黙って話を聞いているさゆりと眸をかさねる。


「ねえ、さゆり。わたしの話を聞いても、まだ、蘭くんに逢いたい?」

「……」

 

 開きかけた唇を閉じ、さゆりは濡れた眸をわずかにふせた。

 

 ……逢いたい。わたしは蘭くんに逢いたい……。

 

 躊躇いはある。だが、それでも、彼に逢いたいとおもう。彼を失いたくない。

 目の前に視えるのはかなしくほほ笑む彼の姿。


 ――抱きしめたいっ……!!

 

 胸が苦しい。頭が変になりそうだ。ああ、彼のような人間がいるだなんてしらなかった。なんてかなしく、美しい花だろう。守りたい。この手で。この身体で。彼をひとりにはさせない。させてはいけない!

 ふせていた眸を上げ志摩子をまっすぐに視る。


「お姉さま。わたし、蘭くんに逢いに行きます」


 いままでになかった強さを宿した眸。その眸を受け志摩子は、


「………………」


 言葉にならないおもいを、笑みにかえ、さゆりを抱きしめた。

 胸に抱かれたさゆりは眸を閉じる……。




 ステンドグラスから射し込む光の中、さゆりは地に膝をつき、胸の前で指を組んだ。

 その姿をマリア像がしずかに見守っている。

 目を閉じて視るのは、かなしくほほ笑む蘭の姿。

 

 ……待っていてください、蘭くん。わたしは必ず、逢いに行きます……。

 

 聖母マリアに彼女は誓った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ