梅雨明け前の夕暮れに 第21話
――ムカつく! ムカつく!! ムカつく!!!
強く握りしめた手を机の上で震わせ、美夏は黒板を睨むように見つめていた。怒りのあまり眩暈を起こしそうだった。頭に血が上りすぎて身体が宙に浮いてゆくような錯覚すら感じる。静かな教室に響く教師の言葉も、黒板を叩くチョークの乾いた音も、いまの彼女にはとどかない。
冷静にならなければ、テスト前の授業を聴き逃すわけにはいかない、とおもってはいるのだが、どうしても冷静にはなれなかった。
――ごめんねってなによ?! どうして小日向があやまるの?! あれだけいわれても、アンタは文句のひとつも出てこないの?! 腹が立たないの?! それともなに? 私には文句をいう価値もないってこと?!
悔しい。
……私ばっかりアイツのことを考えてる。なのに、アイツは、わたしのことなんて全然、気にもしてない。せいぜい鬱陶しい女だなっておもってるぐらい……。
自分の態度が悪いせいだとわかっていても、その事実に美夏のこころが沈む。
どうすれば、彼は素顔を見せてくれるのだろう。
あの日以来ずっと彼のことを見ていた。だから、わかる。わかってしまった……彼の笑顔が偽物だと。無理をして笑っているのだと。少なくとも彼は心から笑ってなどいない。そんなことはほとんどない。どれだけ楽しそうに笑っていても空っぽなのだ。彼の笑顔は。
その証拠にみんなと話しているときでも、たまに、ふと表情が抜け落ちたように無くなるときがある。授業中やひとりでいるとき自分を嘲るように笑うときがある。泣きたいのを必死に堪えているときがある。涙を流さずに――泣いているときがある!
……そんな貌を見せられたら、私はっ……!
抱きしめたい、強い衝動に駆られる。
なぜ、彼は苦しみ、哀しんでいるのだろう?。
眸を落とし、ため息をこぼす。
考えたところで自分にわかるはずもない。自分が知っているのは学校にいるときの彼だけだから。学校以外の場所にいるとき、彼はなにをしているのだろう。なにをおもっているのだろう。どんな貌をしているのだろう。ずっと……あんな貌をしているのだろうか。
「っ……!」
想像するだけで、彼女の胸は痛いほど苦しくなった。
なんとかしたい。だが、彼のそばにいることができない。彼を助けることができない!
……私の声すら、小日向にはとどかないっ……!
己の無力さが彼女の胸に突き刺さる。まるで、ふれることのできない鏡像に手を伸ばしているような無力感。そして、彼の苦しみや哀しみがわからないことに対する苛立ちが焦りに変わり、突然、落とし穴に落ちたような落下感におそわれ、真っ暗な、怖ろしい不安に彼女は全身を包まれる。だがそれは、ほんの一瞬のできごとでしかない。ゆえに、その真っ暗な怖ろしい不安を、彼女は意識することなく焦燥感だけを募らせた。そして、その自分ではどうしよもない焦燥感が――、
……もう知らない……。勝手にすればいいのよ!
怒りへと変わった。
そう、勝手にすればいいのだ。彼のことなど知ったことではない。ひとりでおもい悩んでいればいいのだ。どうせ彼のような人間は、世界中の不幸を自分ひとりで背負っているようなつもりになって、勝手に傷ついているだけなのだ。
――滑稽だわ!
それに、と美夏は自分にとっておもしろくないことをおもう。
……最近は一条さんと仲良くやってるみたいじゃない? ふんっ。いい気なもんね! なによ? 荷物運ぶのを手伝ったりして。一条さんのことが好きなの? そうなの?!
この間まで、ほとんど話なんかしていなかったのに、ふたりのあいだに、なにかあったのだろうか……。まさか、ふたりはもう、つきあっているのだろうか。いや、それはないとクラスの女子がいっていた。彼自身がいっていたらしいから、まだ、ふたりはそうゆう関係にはなってはいないのだろう。だが……もしそれが、嘘だったら……。
――いや。そんなのは嫌! どうすればいいの?!
おもいが錯綜し身悶えするほど心が乱れる。
いつまにか呼吸が乱れていた。
そのことに気づいた彼女は、呼吸をととのえ、こころを落ち着かせる。
ふたりの様子を視る限り、ふたりはまだ恋人同士ではないとおもう。これは勘でしかないが、おそらく当たっているだろう……。彼はあまり恋愛ごとに興味がなさそうだから自分から誰かにアプローチするとはおもえない。
けれど――彼女はどうだろうか。彼女は彼のことをどうおもっているのだろうか。いまはまだ、恋愛感情が芽生えてないかもしれないが、なにかきっかけさえあれば、彼のことを好きになってしまうかもしれない。
……私のように……。
どうすればいい。このままだと彼をとられてしまうかもしれない。でも、どうすればいいのかわからない。
――いっそ、告白してしまおうか?!
いや、でも、いま告白してもあっさりふられてしまうだけだろう……。わからない。わからない。どうすればいいのか、わからない!
頭を抱えて呻きたくなった。
……ああ、どうしてあんな奴、好きになっちゃったんだろう……。
ため息をこぼし、横目で彼の姿を見る。
「っ……?!」
息が止まり、胸が軋んだ。
……なんでよ? ……なんでアンタはそんな貌で笑っているのよっ……?!
叫んで問いただしたいおもいを、手を握りしめることで堪える。
視界が滲み、涙がこぼれそうになった。
「……バカッ……!!」
押し殺した声で呟く。
そして、彼女は再び挑むような目つきで黒板を睨んだ。




