梅雨明け前の夕暮れに 第17話
「さゆりさん」
「あ、蘭くん……」
荷物で前が見えないのか彼女は顔をちょこん、と横へずらした。
声をかけられただけで彼女の中にあった寂さが一瞬で消える。さきほどまで感じていた寂しさが嘘のようだ。悄然としていてはいけないとおもいながらも、彼女はひとりでいるとどうしても気持ちが沈んでしまった。いつの間にか学校で笑えなくなっていた。だが、いまはちがう。彼が友人になってくれてからは笑えるようになった。もし、彼がいなかったなら、この学校で笑えなくなっていたかもしれない。寂しさに耐え切れず転校してしまったかもしれない。翼や志摩子と出逢うこともなく。
そうおもうと彼に出逢えてよかった。ほんとうによかった、と彼女はおもう。
「さゆりさん、手でスカート持っちゃってるよ。パンツが見えてる」
「え?! 嘘?!」
慌ててスカートをなおそうとするが荷物から手を離せない。荷物を床に置けばいいのだが、さゆりは恥ずかしさでそのことに気がつかなかった。しかしそれも一瞬のことだ。すぐに、蘭がいつものように自分をからかっているのだろうとおもい、
「……どうして蘭くんはいつもそうやってわたしをからかうのですか?」
頬を染め、少し怒るようにいった。
「かわいいから?」
「?! か、かか、か……」
「あはは。まあ、日ごろの行いが悪いから、さゆりさんがそういうのもわかるけれど、ほんとうに見えてるよ? さゆりさん、今日は春らしく淡いピンク色のパンツなんだね。ブラもおそろいなの?」
「え?! え?! え?!」
たしかに、今日はピンク色の下着を身につけていた。
……ほんとうに見えているのですか……?
血の気が一気に下がり、また、一気に上る。
「――?!」
声にならない悲鳴。
軽いパニック状態に陥った彼女を助ける気がないのか彼は、
「太ももが眩しいなあー」
彫刻でも鑑賞するように、あらわになった彼女の太ももを眺めている。
「やっぱり太ももはちょっとムッチリしているほうが健康的でエロイよね?」
「少しはフォローしてください!」
「そのパンツかわいいよ?」
「フォローになってません!」
「ミケランジェロでも君の美しさはあらわすことができないだろう?」
「それは少しだまされそうです……」
「芸術って素晴らしいよね!」
「そうですね!」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……もうお嫁に行けません!!」
「大丈夫だよ。その太ももがあれば」
「太ももばかり見ないでください!」
「いや、もちろんパンツも見てるよ?」
「見ないでください!」
「ぼくにどうしろと?!」
「普通に助けてください!」
涙目になりながら訴えるさゆりを見て蘭は苦笑し、
「じゃあ、その荷物かして」
教材を彼女の手から受け取ろうと手を伸ばす。
「あ……」
その手がさゆりの手にかすかにふれた。
時間にすれば一秒にも満たない。だが、彼女の心臓はたしかに跳ね上がり、息が止まった。
鼓動が速くなるのを感じる。顔が朱くなってゆくのがわかった。
これが、はじめてだった。彼と肌がふれあうのは。うれしいような、恥ずかしいような、よくわからない感情でいっぱいになった。そんな自分に戸惑いながら、
……蘭くんの手、ひんやりと冷たかったです……。
彼の手がふれたところを、そっとなぞる。
教材を受け取った彼が背を向けて歩き出した。
「あの、もういいですから……」
その背にいい、
「運ぶようにいわれたのは日直のわたしですし……」
もうしわけなそうな貌で彼女は彼の横に並ぶ。
「でも、これ、女の子が運ぶにはちょっと重たいとおもうけど」
笑いながら荷物を少し持ち上げて見せる。
――いわれたのはさゆりさんだけじゃないでしょ。
手伝わなかった者に不快さを感じる。
もう少し彼女は積極的になったほうがいいかもしれない。同じ日直に文句をいえるくらいには。だが、自分が彼女と同じ立場ならどうする? ……おそらく、文句をいうのもめんどうで彼女のようにひとりでやっていただろ、と彼はおもった。
「そんな、悪いです……」
「そんなことないよ。それに、さゆりさんはヴァイオリンを弾くんでしょ? だったらこんな重たい荷物、あまり持たない方がいい。なにかのはずみで指を痛めたり、怪我でもしたりしたら大変だよ」
「いえ! そんなお気遣いをしていただくほど、わたしは上手くありませんから……」
「さゆりさんの演奏を聴いたことがないから、ぼくには上手いかどうかわからないけれど、でも」
一度、言葉を切る。
「もし、いま、怪我をしてヴァイオリンを……弾くことができなくなったらどうする?」
「それは……」
「ヴァイオリンを捨てられる?」
「……わかりません。でも、そうなったらきっと、悲しいとおもいます……」
「そうおもうなら、できるかぎり手は大事にしたほうがいいと、ぼくはおもうな」
「……そう、ですね」
ヴァイオリンを弾けなくなった自分を想像しながら、彼女は肯いた。
「蘭くんのおっしゃるとおりだとおもいます。ありがとうございます。わたしを気遣ってくれて。蘭くんは優しいのですね」
「普通だよ」
即答。
まるで、あらかじめ用意しておいたような返答だった。
「そんなことありません。蘭くんは優しいとおもいます」
「普通だとおもうけどね……」
苦笑し首を傾げて見せる。
やさしさとはなんだろうか? たしかに自分は彼女を手伝っている。ひとりで荷物を運んでいる彼女を視て、それを無視することができなかったからだ。しかしそれは、やさしさから出た行動なのだろうか? 彼女を無視して行けば自分の気分が悪くなる。気持ち悪いのだ。だから手伝っているにすぎない。いうなれば自分のためにやっているのだ。それを〝やさしい〟といえるのだろうか……。
だが、いまここで彼女とやさしさについて議論してもしかたがないだろう。そもそもこんなことがわからない、疑問におもってしまう自分のほうが、きっと人としておかしいのだ。素直に人のことをやさしいといえる彼女ほうが、人として正しいのだ。おそらく、自分は人としての大切ななにかが欠けているだろう。
昏く、虚ろな眸で宙を見つめる。が、彼はすぐに笑顔を作りなおした。
「まあ、さゆりさんがそうおもうならそれでもいいけど、ぼくは自分がやさしいとはおもわないよ。荷物を持っているのだってパンツと太ももを見せてもらったお礼だしね」
「さ、さきほどのことはできれば忘れてほしいです……」
「う~ん、どうしようかなー」
「そのような意地悪をおっしゃらずに!」
「……わかったよ。じゃあ、この話はここまでってことで」
彼女の必死な貌を見て、笑い出すのを堪えるように蘭はいった。
「ありがとうございます」
「こちらこそありがとう。いいもの見せてもらったよ」
「もう、それはいわないでください!」
「ごめん、ごめん。もういわないから。ところで、もうすぐテストだけど、さゆりさんテスト勉強の調子はどう?」
「いまのところ大丈夫です。蘭くんは、なにかわからないところでもあるのですか?」
「アハハ。ぼくなんか、わからないことだらけだよ……」
「……あの! よろしければ一緒に勉強しませんか? すこしはお力になれるかもしれません」
隣を歩く蘭の横顔を見て少し逡巡してから、さゆりはいった。恥ずかしさに彼女は面をふせるが、その眸には期待の色がゆれている。
もしかしたら彼の力になれるかもしれない。よろこんでもらえるかもしれない。彼は友人のいない自分に話しかけてくれた。なにかあるとこうして手伝ってくれた。気遣ってくれる彼の優しさに少しでも報いたい。そして、できれば彼と一緒に同じ時間を過ごしたい……。
返事を待つあいだ彼女は息苦しさを感じた。
「いいの? ぼくなんかいたら勉強のじゃまじゃない?」
「そんなことありません。大丈夫です!」
「そう……。それじゃあ、お願いしようかな」
「はい。わらないことがあったら、なんでもきいてください!」
「……ありがとう」
まっすぐに向けられる彼女の笑顔から彼は顔を背けたかった。
醜さを一切感じさせない笑み。このまっすぐな眸で彼女なにを視ているのだろう。誰を視ているのだろう。自分を視ているのかだろうか。自分が視えているのだろうか。ほんとうに。
――ぼくがみえているの?
無意識に彼女の眸を見つめる。
醜く笑う自分が視えた。
「あ、あの、わたしの顔になにかついていますか……?」
「いや、奇麗な瞳をしているなーとおもって」
「そ、そうでしょうか?! そんなことをいわれたのは、わたし、はじめてです……」
頬を染める彼女の眸に映っているのは、醜く笑う自分の姿。
……彼女は死にたいなんておもったことがないんだろうな……。
照れ隠しに面をふせる彼女の隣で、彼は劣等感に苛まれながら自分を嗤った。
……彼女は、ぼくとはちがう……。
なぜ、自分は彼女の隣を歩いているのだろう。
醜いヘドロのような感情と、どうしようもないかなしみを、彼は笑顔でかくした。




