梅雨明け前の夕暮れに 第14話
重い教室のドア。
だが、今日のさゆりにはいつもよりも軽く感じられた。ドアを開けると窓から差し込む朝陽が眩しく、彼女は思わず目をほそめた。そして、蘭の姿を求め教室内に目を向ける。教室にいた生徒の何人かが無意識に開いたドアの方――彼女を見ていたが、すぐに各々が勉強のつづきや話しを再開した。挨拶をしてくる者は誰もいなかった。それでも育ちの良さからか、
「……おはようございます」
ぎこちなく挨拶をし、彼女は席に着いた。
……蘭くんはまだ来ていらっしゃらないのでしょうか……。
蘭の席を見るが彼の鞄はなかった。
一時限目の用意を済ませると、話し相手のいない彼女は予習してきたところの確認を始めた。しかし、蘭が来るのが待ち遠しく、あまり集中できなかった。ドアが開くたびに、彼女は、蘭くん? とそちらの方を見ては落胆し面を伏せるということを、担任の教師が来るまで繰り返した。
朝のショート・ホーム・ルームが終わり、担任が教室を出て行こうとすると、さゆりはその背に近づき、蘭のことを尋ねた。彼女にしてはめずらしく積極的な行動であり、かなりの勇気が要った。
「先生、蘭くん――小日向くんは、お休みなのでしょうか……?」
「あー、小日向か? 小日向は今日、休みだぞ。本人から電話があってなあ。熱があるとかで今日は休みますといっていた」
「そう、ですか……」
呟くようにいって席にもどる姿は、痛々しいまでに悄然としていた。
「……」
教室のざわめきが遠のいてゆく。
かすかに震える肩。
いつも以上に、輪郭のはっきりした心細さを、彼女は感じた。
古書の香りがゆうゆうと我が物顔で漂っている。
昼休みの図書室は相変わらず閑散としていた。そんな静けさのなか、隣の司書室では翼と志摩子が昼食をとっていた。ふたりをつつむ部屋のすべてが淡いひかりに彩られ、誰も知らない絵画のように視える。向い合って坐るふたりに会話はほとんどない。彼はどこか困ったようにほほ笑み、彼女はそれがすべてだとでもいうように、時折、彼を見つめては笑みをみせた。
いったい何時頃から彼女がここにいるのが当たり前になったのだろう?
そんなことを彼はふとおもった。
彼女が一年生の冬の頃にはすでにいた気がする。図書委員でもないのに、よく仕事を手伝ってくれた。お礼にクッキーと紅茶をあげると、
……笑ってくれましたよね……。
大人びた貌がほころび、春を告げるマツユキソウのような笑みを彼女はみせてくれた。
……その後の展開には驚きましたけれど……。
見かけによらず、彼女は頑なな性格をしている。いや、一途、といったほうがいいだろうか。
……その性格にはずいぶんと困らせられましたが……。
昔のことを思い出し彼は苦笑をもらした。
「ふふ」
「どうかしましたか、翼さん」
「いえ、なんでもありません。さて、そろそろ蘭くんが来るころでしょうか。……、もしかしたら、今日はさゆりさんも御一緒に来られるかもしれませんね。四人分のお茶を用意しておきましょう」
席を立ち、彼が紅茶の用意を始めようとすると、
「失礼します」
控えめなノックの音とともに、さゆりがやってきた。
「いらっしゃいませ、さゆりさん……?」
ひとりでやってきたさゆりを視て、翼は意外におもった。
……おひとりでいらっしゃるとはおもいませんでしたね。蘭くんはどうしたのでしょうか……。
嫌な考えが頭をよぎった。が、すぐにそれを打ち消す。
「……こんにちは、翼さん……」
「こんにちは、さゆりさん。そんなところで立っていないで、どうぞ、おはいりください」
力なく寂しげに微笑む彼女を笑顔で迎い入れる。
だが、さゆりは動こうとはしなかった。
自分でもおもっていなかったほどに、さゆりは蘭が学校に来なかったことにショックを受けていた。やっとクラスで友人ができ、自然に挨拶やお喋りができるとおもっていただけに彼女の落胆は大きい。そして、親しくなったばかりのふたりをこんな風に頼ってしまっていいのだろうか、と躊躇いも感じていた。
……こんなの迷惑ですよね……わたしがひとりで勝手に落ち込んでいるだけですし……。
教室へもどろうかとおもった。もどったところで話をする相手など誰もいないが。
……でも、教室にひとりでいるは寂しいです……。
さゆりが逡巡していると、
「……」
「いらっしゃい、さゆり。さあ、席に座って」
「お姉さま……」
志摩子が動けない彼女の手を取り席に坐らせた。
「いま、紅茶を淹れるところだったんです。さゆりさんはストレートとミルクティー、どちらがいいですか?」
「あ……」
断ろうとおもったが翼と目が合うと彼にほほ笑まれてしまい、それはなんだか悪いことのようにおもえた。
「……ミルクティーを、お願いします……」
「わかりました。ミルクティーですね」
笑みを残し、翼は紅茶を淹れ始める。
「さゆり」
「はい……」
「なにかあったの? 元気がないようだけれど」
「いえ、べつに、なにも……」
「そう? わたしにはあなたが元気のないように見えるけれど」
「そんなことはありません」
けなげに笑ってみせる。
「……さゆり……」
寂しげに眉尻を下げ、志摩子はさゆりを見つめる。
「……さゆり、わたしはこれでもあなたの姉よね?」
昨日なったばかりだけれど、と苦笑まじりに付け足す。
「はい」
「だったら、もう少し、わたしを頼ってくれてもいいのではないかしら。わたしはそんなに、頼りにならない姉なの?」
「そ、そんなことはありません……」
「それならあなたが元気のない理由を聞かせてくれないかしら。わたしはまだ、さゆりのことをほとんど知らないけれど、あなたがいま、元気がないことぐらいはわかるわ」
「お姉さま……」
「もちろん、無理にいえってわけではないのよ? 話したくないのなら、それでもいいの。でも、ひとりで抱えているのが辛くなったら、そのときは必ず、わたしに話してちょうだい。どんなことでも、わたしはちゃんとさゆりの話を聞くから」
そっとさゆりの手をにぎる。
「ありがとうございます、お姉さま」
この人が姉になってくれてよかった、とさゆりはおもった。
……マリア様、ありがとうございます。
胸のうちで志摩子と廻りあえたことを彼女は聖母に感謝した。
「お待たせしました」
紅茶を持ってきた翼がふたりの前にティーカップを置く。
「ありがとうぞんじます、翼さん」
礼をいって、さゆりは香りを味わい、ティーカップを口に運んだ。
……お姉さまだけじゃない。翼さんもわたしのことを気遣ってくれている……。
寂しさが自分のなかから消えてゆくのを、彼女は感じた。
「……とっても美味しいです」
「紅茶って美味しいですよね」
笑みをこぼす彼女を視て、翼は席に着いた。
「ところで、さゆりさん。蘭くんはどうしたのですか? いつもなら、もう来ているころなのですが……」
「蘭くんは、今日はお休みです。熱があるとかで……」
肩を少し落として、さゆりは答えた。
「……それは心配ですね……。でも、蘭くんなら大丈夫でしょう。今頃、なにか食べてゆっくり休んでいますよ。ですから、そんなに心配することはないとおもいますよ」
「はい……」
「もしかして、さゆり。あなたが元気のない理由は、蘭くんがお休みしたから?」
さゆりの様子を視て志摩子が尋ねた。
「……」
「そうなのね? でも、どうして? さゆりはまだ蘭くんとはそんなに親しくなったわけでもないのに。蘭くんがお休みしただけで、あなたがそこまで元気がなくなるのはなぜかしら……。蘭くんのことを気にかけているだけではないようだけれど……?」
「……おっしゃるとおりです、お姉さま……。わたしは蘭くんのことを心配していたのではありません。あ、いえ、もちろん心配はしています! けれど……それ以上に、わたしは蘭くんがお休みしたことで、自分のおもいが叶えられなかったことを悲しくおもってしまって……いつも以上に教室にいるのが寂しくて……それで、ひとりで勝手に落ち込んでいただけなんです……」
「どうしてそんなに寂しいの? クラスには蘭くんの他にもお友達はいるのでしょう?」
「……いません。蘭くんだけです……」
恥ずかしさと情けなさで泣きたくなる。
「わたし、すごく楽しみにしていたんです。蘭くんにおはようっていうのを、教室で蘭くんとお話しするのを……。身勝手な話ですけれど……」
「そうだったの……。でも、さゆりにはわたしや翼さんだっているのよ? だからそんな貌をしないで。蘭くんだってずっとお休みするわけではないでしょう? 明日はきっと、学校へくるわ。そうしたら、おはようっていえるし、お話だってできるわ」
「そうですよね……そうですよね! 明日は、きっと……」
さゆりの胸から失望が消え、明日への期待――希望がよみがえる。
花が鮮やかさを取り戻した。




