梅雨明け前の夕暮れに 第13話
TVの音声と恵理子の愚痴。入浴後、耳障りな雑音を聞きながら、蘭は食事を摂っていた。TVを見る習慣がない彼にとってTVから垂れ流される音は雑音でしかない。それに付け加え、聞きたくもない恵理子の愚痴を聞かされているので、彼は不快でしかたがなかった。
「……」
あたりまえのように愚痴をいう人は、ただ自分の言い分を肯定してほしいだけなのだ。たいして苦しむこともなく、どうすればいいのか、どうしてそのようなことになるのかを考えることもなく、幼稚な批判に終始する。そして、こちらが否定する意見をいえば気分を害して攻撃してくる。立場が逆になれば、ありふれた、もっともらしいことをいって大人ぶる。
けして、その、もっともらしい考えを疑うことなどしない。自分の正しさを疑わない。無自覚に、盲目的に自分の正しさを過信し、自分が善人だとおもいこんでいる。自分で考えることなどしない。そこには自らたどりついた答えも、気高さも、理想も、美しさもない。だからすぐに、苦しみを忘れてしまえる。無知で、不潔で、醜悪な言葉。聞きたくない不協和音。
――うるさい。そんな言葉、聞きたくない。
胃の中の物を吐き出しそうになった。
吐き気を堪えながら食事をつづけていると、箸を持つ手が鈍く痛んだ。重く、鈍い感覚。まるで他人の手のようだった。泣きたくなる。惨めさに打ちのめされ、なにもかもが、どうでもよくなってくる。苦痛だった。生きていることが苦痛でしかたがなかった。逃げたい、解放されたい、と彼は強くおもった。
「蘭、ニュース見る?」
「え、見てもいいの……?」
「いつも見てるドラマ、今日じゃなかったのよ」
「……」
チャンネルが変わりニュースショウが画面に映し出される。下落をつづける世界経済、大勢のリポーターにマイクを向けられ身の潔白を訴える政治家、毎日起こる様々な殺人事件、遺族の涙、内戦やテロ行為で破壊された町、兵器と兵隊、ぼろきれで隠された死体、負傷者、怒る者、信じる神に祈る者、銃を持って笑う幼い子どもたち……。
普段の蘭はこういったニュースを視ても、人なんてこんなものだ、と諦観しているのだが、
――なんでっ?!
今日は激しい怒りをおぼえ、叫びそうになってしまった。
「かわいそうにねえ……」
「……」
熱くも冷たくもない声だ、と彼はおもった。
本気でかわいそうだとおもっているのだろうか。しょせん他人事でしかなく社交辞令のように、状況に合わせてそれらしく反応しているだけなのではないだろうか。なぜ、争いや死を他人事のようにおもえるのだろう。争いも死も、つねによりそっているものなのに……。
理解できなかった。いや、理解はできるがその生き方になっとくができなかった。
「……」
「チャンネル変えてもいい?」
「見ないの?」
「だって暗いニュースばっかりなんだもん」
「そうだね……」
だからといって目を背けていいのか?
なぜそんなにも他人事なんだ?
「――やっぱり蘭のピアノが聴けないとさびしいわね」
番組を変え、なにげなく恵理子がいった。
「そう?」
嘘だ。
「この前、遊びに来た佐々木さんが誉めてたわよ? CDみたいだって」
「誉めすぎだよ。ぼくはそんなにうまくない……」
「独学でそれだけ弾ければ十分じゃない。プロになれるかもしれないわよ?」
「っ……そんな才能、ぼくにはないよ……」
「え? なに?」
「ごちそうさまでした」
「もう、いいの? おかわりあるわよ?」
「うん。もう、お腹一杯」
「相変わらずうらやましいお腹ねえ」
蘭が食べ終わった食器を流しに持って行こうとすると、
「あ、おいといて。お母さんが洗うから」
そういって恵理子はすぐ、TV画面に顔をもどした。
「わかった……」
食器をテーブルへもどし、歯を磨いてから蘭は部屋へもどった。
部屋に入った瞬間、身体からごっそり内臓がこぼれ落ちたような感覚に襲われた。
いつものことだと座布団に坐り、煙草を吸う。
母はなにもわかっていない。もう、以前のようにピアノが弾けないことを……。いつも、ヘッドホンをしてTVを見ているのだから気づくわけもないだろう。しかたのないことだ。母はそんなに音楽が好きなわけではないのだから。それに貧しさからくる実生活の苦しみに追われ、自分のことだけで、生きることだけで精一杯なのだ。他人の気持ちを考え、顧みることなど、母はしてはいられないのだろう。
……ぼくのおもいに気づくはずもないよね……。
親子だといってもしょせんその程度だ。理解できるはずもない。
それに、それはあの人だけじゃない。ほとんどの人がそうだ。自分の頭で考えることをしないから、どうすれば世界がよくなるかなんて考えない。不幸やかなしみが、どうすれば少なくなるかなど本気で考えたりはしない。自分には関係ないと無意識に思考を停止する。だから世界のまちがいに、自分のまちがいに気がつかない。そして、自覚もなく他人を傷つける……。なぜ、考えないのだろう。なぜ、苦しみを、この痛みを忘れられるのだろう。それが大人になるということなのだろうか? ……だとしたら、大人になんてなりたくはない。
世界は、人は、変わらなければならない。
なのに、なぜ!
世界は変わらないんだ!?
プリミティブなエゴイズム。エゴでできた地獄。救いなんてどこにもない。ないのだ。
「――――――っ!!!」
怒りとかなしみに引き裂かれる。
「……どうして……」
思考が鈍くなり虚脱感におそわれる。
「……こんな世界、壊れてしまえばいいのに……」
もう、どうでもいい、とおもった。なにも考えたくなかった。
それでも、彼の思考は止まらない。
「……なんで、みんな生きているんだろう……」
どうして、生きていたい、とおもえるのだろう。こんな世界で。それだけしあわせだということだろうか。夢や希望があるのだろうか。……おそらく、そう、なのだろう……。彼らはしあわせなのだ。夢や希望があるのだ。
だがそこに、愛はあるのか。しあわせのなかに、夢や希望のさきに、愛はあるのか……ない。あれば、世界がこんなにもかなしいわけがないのだ……。誰も彼もが自分のしあわせだけを考えている。口では、愛しているといいながらも、苦しみや絶望が視えると愛していたはずの相手を見捨てる。
自分のしあわせだけを求める者は人間ではないとおもう。愛のないしあわせは自慰行為でしかない。そんなことしかできない者はエゴイズムでできた偽善者という名の獣だ。悪だ。人間の敵だ。彼らは、正義や愛、理想などもってはいない。あるのは虚栄心と方便、嘘だけであり、すべて偽善だ。
もちろん、この世界に愛がないとはいわない。愛を知る人はいる。が、その数はすくないだろう。それに、人が愛せるのは、同じく、愛を知る人だけだろう。愛しあえるのは人間だけだ。だが、稀にそうではない人間もいる。愛を知るかもわからない者を愛せる人間がいる、または、愛そうとする人間がいる。しかしそういった人間はめったにあらわれない。
愛。
愛とはなんだろうか。人を愛するとは、どういうことなのだろうか。
聖書のマタイにこんな聖句がある。
隣人を自分自身のように愛さねばならない(マタイ十九章、十九節・二十二章三十九節)
この聖句は聖書に八回出てくる(レビ記十九の十八、マルコ十二の三十一、ルカ十の二十七、ローマ十三の九、ガラテヤ五の十四、ヤコブ二の八)。人を愛するとは、愛する人のしあわせを願い、慈しむことだ。それゆえ、恋人をつくることや結婚すること、そして子どもをつくることが必ずしも愛とはならない。
なぜなら、愛とはさめるものではないからだ。多くの人たちが愛だとおもっているものは『恋』であり『好き』という感情でしかない。だから醒めて、冷えて、褪せてゆく。そして、自分の利益を優先させる。けっきょくはエゴイズムだ。愛とはけしてさめるものではない。
聖書にある愛は、アガペー(ギリシア語)と表記されており『不朽の愛』『無償の愛』という意味がある《ギリシア語には愛を表現する言葉が基本的に四つあり、アガペーはそのうちのひとつ。ほかにはエロース(性愛)フィリア(隣人愛)ストルゲー(家族愛)がある》だが、人間は、神やイエスのように人類すべてを、己の敵さえも愛することができるだろうか。無理だろう。自分たちは神ではないし聖人でもない。それでも、誰かを、なにか愛するというのなら、死ぬまで愛すべきだ。
さて、ここでわからないことがある。自分自身を愛するとは、どういうことなのだろうか。どうすれば自分を愛しているといえるのだろうか。自分を愛する、ということがわからない。
……ぼくは、ぼくが嫌いだ……。
聖書にその答えは載っていないがネットで調べたり、クリスチャンの人に話を訊いたりしたところ、どうやら神の教えに従って生きることが自分を愛することになるらしい。が、自分はクリスチャンではないし、誰もかれをも慈しむことはできない。
だが、自分を慈しむことが、自分を愛することになるのなら、どうだろう。自分は、自分自身を慈しんでいるだろうか。死にたいと願いながら、死ねずにいる自分は、自分を慈しんでいるといえるだろうか……。もし仮に自分のことが嫌いだ、死にたいとおもいながらも、自分を慈しんでいるのだとしら、
――かなしみこそが、ぼくの愛に、なるのか……。
苦しみや痛み、絶望、これらのかなしみが愛だとするなら、
……ぼくは、愛する人を、かなしませることになる……。
自分の愛する人に、かなしみを与えたいとおもう者がいるだろうか。いるわけがない。そんなことはしたくはないだろう。ならば、
……ぼくは誰も愛すべきじゃない……。
誰も愛さず、ひとりで死ぬべきだ。そんな自分にできることといえば、アンリエットのように大切な人たちのしあわせを願い、祈ることぐらいだろう。
「……」
けれども、もし――もし、かなしみに生きながら、惹かれあい、むすばれ、かなしみをともに生きることができたなら、そんな人と廻りあえたなら、愛しあったと、そこに愛はあったと、いえるかもしれない。それこそ、愛なのかもしれない。
ひとの生はかなしみに満ちている。ゆえに、かなしみをともに生きられる人でなければ、そこに、愛は生まれないだろう。しあわせなよろこびだけが愛ではなく、かなしみもまた、この世界での愛の一面なのではないだろうか。
「……馬鹿ばかしい……」
自分の死を願うことが、自分を慈しむこと、愛することになるか。馬鹿か。そんなものが愛であるはずがない。これが愛なら、愛する人の死を願うことが、
――ぼくの愛になってしまう。
極論すぎる。破滅的すぎる。こんなものが愛であっていいはずがない。けっきょく自分は、自分を愛することもできず、誰も愛せないのだ。そもそも、この考えは自分のエゴでしかないかもしれないし、唯一絶対の答えではないだろう。
命あるものは、いつか死をむかえる。蘭の考えは極論すぎるかもしれないが、愛する人の安らかな死を願うことは、あながちまちがってはいないだろう。
……誰も、自分すらも愛せないぼくの言葉に、いったいどれだけの意味がある……?
無意味だ、とおもった。考えるだけ無駄だ、と蘭はおもった。
それでも、人間なら考えなければならない。人間なら……。
急におかしさが込み上げてきた。
「フフ……ぼくはいったい、いつから〝人間〟になったんだ? できそこないのくせに……」
重い身体を動かし、
「勉強でもしよ……」
机の前に坐る。教科書とノートを用意し、淡々と予習復習をこなしていく。
悪い点数をとって母が学校に呼び出されるのは避けたかった。せめて、生きているあいだは、できるかぎり他人に迷惑をかけたくなかった。そして、みなの価値観、幸福を理解できない自分は、彼らからすれば理解できない異常者であり、悪でしかないのかもしれない。こんな自分はやはり、生まれてくるべきではなかったのだろう、と蘭はおもった。
「……」
時計を見ると午前二時を過ぎていた。教科書とノートをかたづけ布団を敷く。一階へ水を取りに行くと恵理子がレンタルしてきた韓国ドラマを見ていた。以前、内容を聞かされたが、彼にはまったくおもしろさがわからなかった。
「母さん、明日も仕事でしょう? 早く寝たほうがいいよ」
「わかってるんだけどねえ……」
「……ぼくはもう寝るね。おやすみ」
「おやすみー」
嘆息し暗澹とした気持で彼は部屋へ戻り、ボードレールの詩集をゆっくりと読んだ。
ぼくの精神は、いつも眩暈に襲われ、
虚無の 無感覚をねたんでいる。
――ああ! 数と存在から、
ついに逃れられないとは!
いくつかの詩を呟くように音読していると胸が痛んだ。余韻に浸るように彼は眸を閉じ、詩の世界におもいをはせる。それから一日の最後に聴く曲をあれこれ十五分ほど迷い、けっきょくいつも聴いているショパンの夜想曲を選んでCDをセットした。
部屋の明かりを消し、布団にもぐる。音だけの世界、それでいて、すべてがある世界に身をゆだねながら彼は煙草を吸った。一般的には知られていないようだが、いま聴いている曲は夜想曲の中で一、二位を争う名曲だ、と彼はおもっている。はじめてこの曲を聴いたとき音に溶け、色鮮やかな世界を感じた。もう何度聴いたかわからない。人類がある限り永遠を許された至高の楽曲。これこそが芸術。美だ、と彼はおもう。
しかし――とどかなかった。この曲を弾く前に蘭の手は壊れ、ピアニストになる夢は失われた。熱情は失われ、虚しさだけが、寂しい、星のない夜のように広がってゆく日々。なのに、突然、嵐のような感情が胸を掻き乱す。
疲れていた。
信じること、愛すること、夢を視ることすらできない。こんな自分など早く死んでしまえと、彼は願う。
……ぼくには生きる才能すらない……。
芸術は幽かな楽しみであり慰めだ。が、それだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。もう、芸術は生きる希望とはなりえないのだ。自分に残っているのは死への憧れだけだ。死の誘惑のなんて強いことだろう。あの果てしない、無限の虚無感。恐れもあるが、それいじょうに安心もするのだ。すべての終わり。死ねるというよろこび。解放だ。この世の苦悩、痛みから、解き放たれる。唯一の救い。ああ、なんて素晴らしいことだろう……。
曲が終わると、彼は煙草を消し、眸を閉じた。
煙草の紫煙が闇に消えてゆくように彼の意識が遠のいてゆく。
……せめて、眠るように死ねたらいいのに……。
だが、今夜も死ねそうになかった。
痩せた青白い頬に、一条の涙。
眠りに落ちるまえ、意識の欠片で、彼は願う。
……かなしい夢が、終わりますように……。




