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梅雨明け前の夕暮れに   作者: 伊達と酔狂
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梅雨明け前の夕暮れに 第11話

 蘭はアルバイトにいくため、夕暮れの道を、ひとり歩いていた。

 あたりは閑静な高級住宅街。かれは目に映る、おおきな家や屋敷を茫洋と遠望するようにみながら、さゆりがいったわかれぎわの言葉をおもいだしていた。


 ……やっぱり挨拶は『ごきげんよう』だった……。

 

 自分の日常生活のなかではじめて聞いた。が、彼女のなかでは、それこそ日常的な言葉としてつかわれているのだろう。……よほどのお嬢様なのだろうか? 小さい頃からヴァイオリンを習っているといっていたから、そうかもしれない。腕時計もさり気ないが、センスのいい機械式の物だった。実にいい趣味をしている。


 ……ま、ぼくとは住む世界がちがうんだろうな……。


 ため息を吐き、自嘲。


『蘭くん、また明日っ……』


 そういって花のようにほほ笑んだ彼女の貌が頭をよぎった。おもわず面をふせ、目を閉じる。


「また明日、か……」


 当然のように彼女がいった言葉。その言葉に胸が抉られる。

 

 ……ぼくには〝明日〟なんてないんだよ……。

 

 歪んだ笑みをうかべ、胸のうちでつぶやいた。

 明日とは、日がのぼり、夜が明けてしばらくのあいだの時間をいう。また、『あした』という表現は夜間を基準にしたときの表現法の最終部分でもある(ゆうべ、よい、よなか、あかとき、あした)。

『日』は太陽のことだが、『明』は『日』と『月』ではなく、もとは『冏(けい・窓の意)』と『月』で、あかりとりの窓から月光がさしこみ物がみえる、という意味がある。また『望』(みえないものをのぞむ)という字にもつうじる。ひとは『あした』という言葉のなかに、夢や希望といったものを無意識にみているのではないだろうか。そしてそれを、生きる力にしているのではないだろうか。


 だが、彼にはその、生きる力がない。彼は、苦しみ、かなしみ、といった夜のなかでのたうちまわっている。月どころか、星明かりすら視えない。望む明日はすでに失われてしまっている。夜明けがない。


『あした』がこない。


 そんな夜の辿りつくさきにあるものは――虚しさだ。どうしようもない、己のすべてが崩れるような、消えてしまうような、虚しさだ。

 苦しくて、かなしくて、虚しい。


 ……ぼくにあるには、それだけだ……。


 蘭は『あした』につながらない夜を、むくわれない虚しさを、生きている。自殺できない自分を嘲笑いながら。彼はもう、生きたい、とはおもえなかった。

 

 ――はやく。


 一秒でも早く、この人生が終わってほしいと彼は心の底から願った。


「……」

 

 バイト先の喫茶店(というよりはサロンといったほうがいいかもしれない)に着くと彼は石造りの門の前で面を上げ、姿勢をただした。

 この喫茶店には看板がない。なにも知らない者がこの家を見ても、低い塀に囲まれた瀟洒な一軒家にしか見えないだろう。塀の上には緑の木々が顔を出し中の様子を見えにくくしている。よほど気をつけて見なければ外から庭や店内のようすはわからなかった。


 玄関の呼び鈴を鳴らすことなく彼は庭のほうへ足を向けた。足下には大切に育てられた花々が慎み深く可憐に咲いている。

 足を止め、花を見つめる。花の美しさに、涙がこぼれそうになった。

 止まっていた足を、コールタールから引き抜くように動かし庭に出る。

 ささやかな広さの庭の中央には、黒いドレスと白いドレスをまとったふたりの女性がテーブルを挟んで坐っていた。テーブルの上にはマイセンのティーセット。青い花が描かれたカップからは、無邪気な妖精が舞い踊るように若々しいダージリンの香りが咲き誇っていた。


「やあ、君か」

「こんばんは、雪乃さん」

「……どうしたんだい? 今日はいつもにまして――」

 

 庭先に蘭が姿を見せると店の主、冬馬・雪乃とうま・ゆきのは静かに席を立ち、立ちどまったままの彼に歩みよって、


「――美しいね」


 片手を彼の頬にそえいった。


「美しくなんてありませんよ」


 見つめられ、蘭は目を逸らす。


「魂の美しい者はおおむねそういうものだよ」

「魂ですか……」

「お気に召さないのなら、精神とでもいおうか?」

「どちらにしたところで、ぼくは……」

「蘭君、私は常々こうおもっている。人間の魂は芸術のように美しくなければならない、と。そしてなにを美しいとおもうかは個人の自由だ。君が自分のことをどうおもっていようと、私は君の魂を美しいと感じている。美しいものを美しいという、それは悪いことではないだろう? だが……この言葉は、あまり君のような人間にはいわないほうがいいのだろうね。すまない。君を苦しめるつもりはないのだ」

「はい。わかっています、雪乃さん……」

 

 苦しげな微笑をうかべ蘭は、

 

 ……でも、ぼくは『人間』なんかじゃありませんよ、雪乃さん。ぼくはたただのできそこないです……。


 と胸のうちでつぶやいた。


「さあ、君も椅子に坐って紅茶を飲むといい。今日入荷したばかりのファーストフラッシュだ」

「ありがとうございます」

 

 肩を抱くようにして雪乃は蘭を椅子までエスコートする。


「こんばんは、雪花ゆきなさん」

「……」


 席に着いた蘭は白いドレスをまとった雪花にほほ笑みかけ、しばらくの間、我を忘れたかのように憧憬の眼差しで彼女を見つめた。人には踏み入ることのできない、不可侵の、夜の湖面に輝く青い月を見つめるように。


「ふふ、やはり君が来ると彼女もうれしいようだね」

「それは光栄ですね」

「見たまえ、まるで花が美しい夢を見るように、可憐にほほ笑んでいる」

「……」

 

 ふたりの姿を見ていると現実感のない浮世離れした美しさに感嘆の吐息がこぼれる。


「それにしても、おふたりとも、ほんとうにおきれいですよね……」


 ここでの時間は彼に俗世のことを忘れさせてくれた。


「ありがとう、蘭君。誉めてもらえると私もうれしいし彼女もよろこぶよ。苦労のかいがあるってものだね」

「苦労ですか?」

「雪花はともかく、これでも私にはいろいろと苦労があるのだよ」

「そうなんですか……」

 

 雪乃のようなきれいな人でも苦労があるのか、と蘭がおもっていると、


「ふふ。君にもそのうちわかるさ」


 雪乃が妖しくほほ笑んだ。


「え、それって、どういう――」

「ところで、蘭君。今日は、なにかあったのかね……?」

 

 蘭が訊き返そうとすると、雪乃は表情をあらため、憂うような、いたわるような声でいった。


「いえ、なにもありませんよ?」

「……君の笑顔は私には通じないよ」

「……」


 面をふせ、彼はもっていたティーカップとソーサーをテーブルへ戻した。


「まあ、無理にきくつもりはない……といいたいところだが、そんな貌をされてはきかずにはいられない。いってみたまえ。それとも私では役者不足かね?」

「そんなことありません。ホント、たいしたことではないんです。ただ、クラスメイトで同じ図書委員の女の子に友達になってくださいっていわれて……ことわりたかったんですけど、ことわれなくて……。それで、その、ちょっと困っているというか、戸惑っているというか……ぼく、女の子って苦手なんですよね……」

「女の子が君と友人に?」

「物好きな人ですよね。わざわざぼくなんかと友達になりたいだなんて」

「気に入らないな。私の許しもなく、蘭君に近づこうとするとは」

「はは。ぼくと友達になる女の子って雪乃さんの許可がいるんですね」

「当然だよ。まずは書類審査からはじまり、次に水着審査。そして最後に、私との面接で合否が決まる」

「アイドルのオーディションみたいですね……」


 偶像アイドル、と雪乃はつぶやき言葉をつづける。


「……たしかに、偶像のようなひとでもなければ、君の友人としてふさわしくないだろう。で、どういう娘かね?」

「そうですね……今時めずらしいタイプの女の子だとおもいますよ。ぼくが知らないだけで、彼女のような女の子はいるところにはいるのかも知れませんけれど。……見ていて大切に育てられてきたのがわかります。ご両親はきっと素敵な人たちなんでしょうね。ヴァイオリンを習っているといっていましたから、たぶんどこかのお嬢様なのではないでしょうか?」

 

 あらためて彼女の恵まれた環境に腹ただしさを感じてしまう。そして、かれはそんな惨めで醜い自分を嫌悪した。


「うーん、一言でいうと古風なお嬢様って感じですね。地味といえば地味なのでしょうが、ぼくは清潔感があっていいとおもいます」

「ほお……。志摩子嬢の他にもそんな娘がいるとは、おもしろいね」

「ずっと女子校に通っていたらしいのですが、お母さんの意向で、うちの学校に通うことになったそうです。なんでも異性に慣れるためだとか……」

「ははっ。そいつはおもしろい。いいだろう。今度、その娘を連れてきたまえ。君の友人としてふさわしいかどうか、私が直々にみてあげよう」

「書類審査とかはいいんですか?」

「今回は特別だ。その娘に興味がわいたからね。私も一度、あってみたい」

「そうですか、機会があれば……」

 

 力なくいって、蘭は眉尻を下げた。

 

 ……できることなら、ここには連れてきたくないな……。

 

 さゆりをここに連れてきてしまえば、また、心がおだやかでいられる場所を失ってしまうかもしれない。

 司書室を失ったいま、彼はこれ以上、心がおだやかでいられる場所を失いたくはなかった。

 苦しげに笑う蘭を視て雪乃は、

 

 ……そのひとは君を苦しめるのか……。

 

 とおもった。

 かなしい人は、恵まれている人のそばにいると、違和感をおぼえる。そしてすぐに、違和感の正体に気づく。この人は自分とはちがうのだ、この人はしあわせなのだ、と。彼と友人になりたいといった女は、よほど恵まれている人なのだろう。それは彼の貌を視ればわかる。


 恵まれているだけの人は、かなしい人と、友人にはなれない。魂を切り裂く苦しみ、痛み、怒り、かなしみ、絶望、その果てにある虚しさを知らないからだ。この虚しさを知らない者は、かなしい人を傷つける。ゆえに、かなしい人ははなれてゆく。おそらく、その女は虚しさを、生きるかなしみを知らないのだろう。もしかしたら一生しらずに生きてゆくのかもしれない。


 この世界では、生きるかなしみを知らなければ、人にやさしくできない。ほんとうに相手をおもいやることができない。それは、人を愛することができない、といってもいいだろう。人を愛することができない者は『人間』にはなれない。恵まれているだけでは『人間』にはなれないのだ。


 だが、恵まれた者は、かなしい人をたすけることもできる。それだけのものをもっている。が、多くの恵まれた者はそれをしない。自分さえよければそれでいい、とおもっているからだ。

 彼と友人になりたいといった女はどうだろか。ほんとうに彼と友人になりたいとおもっているのだろうか。


 もし、ほんとうに彼と友人になりたいとおもっているのなら、その女は生きるかなしみを知ることになるだろう。そして、彼と友人になることができたなら、人を愛するとはどういことなのか知ることができるだろう。が、それも彼がその女と、ともに在りたいとおもわなければならないのだが……。


「すまない、蘭君」

「?」

「君にそんな貌をさせてしまった」

「……そんな、あやまらないでください、雪乃さん。ぼくのほうこそ、なさけない貌をみせてしまってすみません……」

「君は……その娘と友人にはなりたくない、いや、なれない、とおもっているんだね?」

「……そうですね。ぼくは、彼女と友人にはなれないでしょう。……彼女は、眩しすぎるんです。雪乃さん、ぼくは……ぼくはこれでも、誠実でありたい……と、おもって、いるんです……。ですが、ぼくはきっと、彼女にたいして誠実では、いられない……いや、ぼくはもう、彼女を裏切っている……」

 

 罪を告白するような声で、蘭は途切れ途切れにいった。

 

 ……それに、ぼくはきっと、彼女を傷つける……傷つけて、しまう……。


 生まれながらにして持つ者への、恵まれた者への、妬みや憎しみ――ルサンチマンがあるかぎり、自分は彼女を傷つけてしまうだろう。彼女を傷つける自分を想像するだけで、彼は罪悪感と惨めさにおそわれ苦しくなる。

 君は誠実だよ、という言葉をのみこみ雪乃はいう。


「友と呼べる人をみつけるのはむずかしい。たがいに友だとおもえる人をみつけるのは、さらにむずかしい。だからこそ、友とは得難いものなのだよ。君が望まぬなら、無理をして友人なることはない。そもそも友人とは、なろうとおもってなれるものではないのだから」

 

 それに、と雪乃は声の調子をあかるくし、ことばをつづける。


「その娘がいう友達とは○○友達のようなものだろう」

「○○友達?」

「おしゃべり友達、ランチ友達、トイレ友達といった限定的な友達のことだよ。君や私が考えるような友人ではないのだろう。そんなに気にすることはないさ」

「……そう、ですね。たしかに、そうかもしれません」

 

 だれもが自分のように、友ということばに憧れを抱き、ふかい結びつきをもとめているわけではないだろう。雪乃のいうとおり自分は気にしすぎなのだ。大事なのは距離感だ。友人ではなく、クラスメイトのひとりとおもえば、彼女を傷つけるようなこともないだろう。

 雪乃のことばで心がすこしかるくなった。


「ありがとうございます、雪乃さん。おかげですこし楽になりました」

「ふふ。それはよかった。さあ、そろそろ準備をはじめようか」

 

 雪乃は立ち上がると、繊細な花びらをなぞるように雪花ゆきなの髪をやさしくなでた。彼女ののった車いすをゆっくりと動かし、歩き出す。蘭はティーセット片づける手を止め、その後姿をしばし見つめた。


 ……きれいだな……。


 落日の残り香とともに消えてしまいそうな、はなかない美しさだとおもった。こみあげてくるせつなさに、胸をしめつけられる。

 他の人があのふたりを見たらどうおもうだろうか。少なくともここに来る人たちは自分のように感じているだろう。だが、他の人なら……気持ち悪い、とおもうかもしれない。壊れていると、気がれているとおもうかもしれない……。おそらく、そうおもうのだろう……。

 ふと、空を見上げる。

 

 ……なにもかもが、こんなにも、遠い……。


 またたきはじめた星を視て、さびしさとかなしみに涙がこぼれそうになった。


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