02|逃げる。
ソレはゆっくりと進んでいた。
水が流れ出る岩間の隙間をゆっくりと、しかし着実に進み続けていた。
目の前にはジョロジョロと水がそれなりの速度で流れている。
かつて水だけを欲していた時の記憶がソレにはあったが、今ではソレも過度には水を欲しようとは考えていなかった。ソレにとっても水というものは確かに必要な要素ではある。しかし今では必要な量を確保できれば良いというだけのモノとなったし、苔や虫などを吸収する過程で水分も十分に得られていた。
それよりも水の流れているこの岩の小さな洞窟の周りに生えている苔の味が良いことにソレは満足していた。瑞々しく若い味がする。ソレは苔を食べながらゆっくりと先へと進んでいった。
それからしばらく進むとソレは広い空間に出た。
そこは弱い光がある空間だった。四角い石が綺麗に並べられているその場所は当然ソレの見たこともないところである。その場所に岩場から流れてきた水が放物線を描きながら流れて、そして地面を水びだしにしていた。
ソレは穴から這い出て並んでいる四角い石、つまりは壁をズルズルと降りていく。流れ落ちた水は、さらに小さな穴に流れていっているようだが、その周りにはわずかな苔があった。若干ではあるが虫もいた。ソレはそれらをまずは食べ、その後は気の向くままに通路の先へと進み始めた。
そうしてしばらくソレが先に進むと、ソレはヌルヌルした何かを見つけた。
その何かはソレを何倍か大きくしたようなものであったが、無論ソレは鏡を見たこともないし、目の前の巨大なゼラチン状の塊が自分と同じような姿をしているということも分からない。
今まで虫以外の生き物と出会ったこともないソレには同族に対しての仲間意識は当然ない。もっとも、それは目の前の巨大なゼラチン状の塊にしても同じではあるようだった。
また、ソレはここに至るまでずっと『捕食する側』だった。恐れたのは岩の透き間と太陽の光。それ以外はすべてソレを生かすために存在していた。だからソレにとっては己を殺す存在があるなど認識したこともなかった。
故に近づいた。無防備に、のそりのそりと、ゆっくりと進んでいった。
それを巨大な塊は逃さない。巨体であるにも関わらずソレの歩みよりも素早く近づくと一気にソレに覆い被さった。ソレは驚愕した。だがその巨大な塊はソレの感情など気にすることなく、接触した部分から溶かし始めた。
その事実をソレは瞬時に認識した。
自分が捕食されていることに気が付いた。
ソレは恐慌状態に陥った。だが、目の前の巨大な塊はソレよりも大きく、力強く、素早い。
次第に食べられていくことを感じたソレは声ならぬ悲鳴をあげた。全身を震わし離れようともがいた。そしてソレは巨大な塊に捕らわれた場所を切り離して、一心不乱にその場から逃げ出したのだった。
一方で巨大な塊もソレが逃げたことには気付いた。
そして追いかけたが、自分の一部を切り離したソレの逃げる速度は巨大な塊よりも速かった。
先ほどまでとは違いソレは素早く動き始めていた。別に出来なかったわけではない。ただやらなかっただけ。やる必要もなかったし、やれるということも知らなかっただけなのだ。
ソレは生まれて初めて逃げ出した。命の危機に怯えて逃げ続けた。
どこまで逃げただろうか。恐慌状態から落ち着きを取り戻したソレが再度背後を確認したときにはもう追ってくる巨大な塊はいなかった。
ソレはそのことに気付くと安堵のような感情を感じ、また同時に先ほどの体験に怯えた。故にソレは元の場所に戻ろうかと思考した。あの岩場はソレ以外の大きな生き物はいなかった。安全をとるならば、それが一番良い道であろうとソレは考えたのだ。
だが、問題はここがどこかということだった。
ただひたすらに逃げ続けたためにソレは自分が今どこにいるのかを完全に見失っていた。水が流れ出ている壁のある通路が一体どこにあるのかがまったく分からなかった。
そして問題はまだある。あの巨大な塊に捕食されかかったことでソレは以前の半分ほどの大きさになっていた。さらにはここまでの移動で体内のエネルギーを消費してその分の体積も減っていた。
つまりはエネルギーが不足していた。ソレは飢えていた。
水場には戻れない。巨大な塊が怖い。何よりも腹が減った。
生まれて初めて尽くしの問題が蓄積され、ソレはストレスを感じた。その感覚は見えない何かから圧迫されるような、なんともいえないモノだった。
だが、ソレは幸運だった。
わずかに進んだ先に、何かがあったのだ。
ソレの認識からすれば初めて見るもの。だが発せられる気配がソレの全身を刺激し、ソレの本能がその何かを求めていた。ソレは飢餓感から、ただひたすらにその何かに向かって進み、接触し、へばりついて、そして消化を始めた。
その何かの正体は死骸であった。
この世界においてはゴブリンと呼ばれる生物の死骸がそこにあった。
無論、ソレはそんな名称は知らないし、ゴブリンが何故この場で死んでいるのか?……という疑問も浮かばなかった。少し前までその死骸が生きて動いていたなど考えもつかない。
だが、ゴブリンの死骸を消化し始めたソレは、そこに今までにない最上の味を感じていた。流れ出る赤黒い液体は甘露そのものであった。
そして、その死骸は非常に新鮮でもあった。殺されてすぐであったためにダンジョンの中を生きる他の魔物たちはまだ死骸には気付いていなかった。
その事実は、ソレにとっては望外の幸運であっただろう。
普通に考えれば、このダンジョンに生息する別の魔物によって、ソレはゴブリンの死体と一緒に食われて殺されていた可能性は高かった。
だが今のソレにそうした事実は理解できない。ただ無我夢中で死肉を消化し吸収し続けていった。
やがてはソレの体積は吸収した分みるみると増えていく。わずか数時間でゴブリンの死骸を覆い尽くすまでにソレは増えていったのだ。
また、白く硬いもの、つまりは骨までは溶かせなかったが、その頭蓋骨はいつしか出来ていたソレの中心にあるものを護るのに適しているようだった。故に頭蓋骨を体内に残し、核と呼ばれる場所をすっぽりと覆わせてみた。
身を守る。あの巨大な塊から自身を護るための意志がそれを行わせていた。
ソレは一体のゴブリンを喰らい尽くし、それらを己の養分へと変え、急激な成長を遂げていた。その姿はすでにソレが巨大な塊と認識していた同族よりも数倍大きくなっているようだった。