天籟が聞こえるまで
九月末の信州の夕暮れは、東京のそれとはまるで別物だった。
新幹線のドアが開き、長野駅のホームに足を下ろした瞬間、張りつめた冷気が足袋の甲をひやりと撫でた。山を吹き降りてくる風はすでに秋の終わりを告げる鋭さを帯びていて、志乃は肩にかけた薄手のカシミアショールを小さく引き寄せた。
身にまとっているのは、濃紺の紗合わせだ。
重なる二枚の薄絹の底から、淡い萩の模様が影絵のように浮かび上がっている。初秋のほんのわずかな季節の狭間にだけ許される贅沢な着物。東京の残暑のなかでは少し気取って見えたこの透け感が、標高の高いこの街の冷気に晒された途端、世界との間に薄い皮膜を一枚隔てているだけの、頼りない無防備さに変わる。
志乃の持ち物は、小さな巾着と布のトートバッグひとつだけだった。
重たいスーツケースをがらがらと引きずって歩く人たちを見るたび、胸の奥が窮屈になる。着替えも下着も、化粧水すらも、必要になったらその街の店で買えばいい。電車の時刻表をきっちり調べるのも、数日前から荷造りをするのも、志乃の脳はひどく拒絶した。
ふと思い立って、気がつけば財布と切符だけを握りしめて見知らぬ改札を抜けている。
世間ではそれを注意欠陥だとか多動だとか呼ぶのかもしれないが、志乃にとってそれは、ただ風の匂いに釣られて路地を曲がる野良猫の歩幅と何ら変わらなかった。東京のマンションのドアの前に、あの男が「よっ」と立っていたあの日から、志乃の足先はいつもどこか遠い場所を探して爪先立っていた。
駅前のドラッグストアで厚手のストッキングと小さな保湿クリームを買い、通りかかった衣料品店でざっくりとした毛糸のカーディガンを一枚手に入れた。着物の上に羽織ると少しおかしな格好だったが、誰に気兼ねする必要もない。
志乃が目指したのは、北信の山深くに架かるロープウェイの駅だった。
最終の路線バスに揺られ、街の灯りがひとつ、またひとつと闇に呑まれていくのを眺める。車窓のガラスはいつの間にか志乃の吐息で白く曇り、指先で拭うと、黒々とした山の稜線が星の海を鋭く削り取っていた。
麓の鄙びた温泉宿に転がり込み、硫黄の香る熱い湯に体を沈めた。
一人用の小さな湯舟で、手足を伸ばす。福島で男の太い指に胸元を割られた記憶が、湯気に溶けていくような気がした。あんなものは、ただのうたかたの夢だ。私が私である限り、誰も私の芯には触れられない。
翌朝、夜が明けきらない午前五時に宿を出た。
世界最大級だというロープウェイのゴンドラに、志乃は始発で乗り込んだ。乗客は志乃のほかに、大きな望遠レンズを抱えた初老のカメラマンが一人いるだけだった。
鋼索が軋む低い音を立てて、ゴンドラがふわりと宙に浮く。
高度が上がるにつれて、窓の外は灰色の霧に包まれた。何も見えない。ただ冷たい乳白色の闇の中を、垂直に登っていく。まるでこの世のすべてが消えてしまったような、心細いほどの静寂。
やがて、不意に視界が黄金色に弾けた。
雲を抜けたのだ。
標高千七百七十メートル。テラスのデッキに降り立った瞬間、志乃は息を呑んで立ち尽くした。
足元には、見渡す限りの雲海が広がっていた。
それは波のない海のようにどこまでも白く、果てしなく、地上のすべての町も、道路も、昨日まで志乃を縛りつけていた東京のざわめきも、男の気配すらも、分厚い雲の底へと完全に封じ込めていた。
頭上には、吸い込まれそうなほど深い群青の空。
東の稜線から朝陽が顔を覗かせると、雲の海が一瞬にして眩いオレンジ色に染まり、風が雲の端を絹糸のように千切って吹き抜けていく。
「……あ」
声にならなかった。
風が渡る音がした。それは木々を揺らす音でも、人工の擦過音でもない。天と地の間をただ純粋な大気が駆け抜けていく、澄み切った低い響き——天籟の音だった。
紗合わせの裾が、冷涼な風を孕んで小さく翻る。
二枚の薄布の狭間を通り抜けていく信州の風が、志乃の肌の熱を奪い、頭の中の雑音を綺麗に吹き払っていく。
ここには何もない。ただ風と、光と、雲の海があるだけだ。
ふらふらと落ち着きなく歩き回り、衝動のままに電車へ飛び乗ってしまう自分を、志乃はずっと心のどこかで持て余していた。けれど、この雲の上に立つためにあの気まぐれな足があったのだとしたら、それも悪くないと思えた。
ポケットから両手を出し、冷たい空気に指先を広げてみる。
爪の先まで染み渡る冷涼な気配のなかで、志乃は深く、胸の底まで息を吸い込んだ。
「さあ、次はどこへ行こうかしら」
志乃、二十三歳。
雲の海を見下ろしながら、猫のように小さく喉を鳴らして微笑んだ。
朝陽が完全に昇りきると、冷たく澄み切っていた空気の中に、少しずつ柔らかな日差しが混じり始めた。
テラスに吹き抜ける風で冷えた指先を温めるように、志乃はデッキに隣接する「SORA terrace cafe」の木製の扉を押した。ガラス張りの広々とした店内には、焼きたてのパイと香ばしい珈琲の匂いが満ちていて、それだけで強張っていた肩の力がふっと抜けていく。
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運ばれてきたのは、丸くふくらんだ「雲海パイ包みスープ」だった。
きつね色に焼き上がった薄い層をスプーンの先で崩すと、サクッと微かな音を立てて、閉じ込められていた熱い湯気と濃厚なクリームの香りが一気に立ちのぼる。きのこの旨みが溶け込んだ熱々のスープを口に含むと、喉を通って胃の奥へとじんわり染み渡り、山頂の冷気で凍てついていた身体の芯が、内側からほどけていく。
「……おいしい」
思わずこぼれた呟きは、誰に聞かせるためでもない、自分のためだけの素直な声だった。
スープを空にしたあと、運ばれてきた「雲海エアリーパフェ」を見つめて、志乃は小さく吹き出した。
器の上にふんわりと乗った雲のような綿あめ。その下には、信州産の瑞々しい果物と冷たいミルクアイスが隠れている。フォークを入れると、指先に伝わる儚い感触とともに綿あめがすっと溶け、甘酸っぱい果実の酸味が舌の上に広がった。
傍らに置いたカップには、雲のかたちをした小さなマシュマロが浮かんでいる。
深煎りの黒い珈琲の上で、ゆっくりと形を崩しながら溶けていく白い雲。
窓の外を見やれば、足元には依然として果てしない雲の海が横たわっている。
あんなにも自分を追い詰め、息を詰まらせていた東京の日常も、あの男の無遠慮な気配も、すべてはこの白い層の下に埋もれたまま、ここまでは届かない。
甘いパフェを味わい、熱い珈琲を喉に流し込む。
身軽な荷物ひとつで、思いつきのままここまで登ってきた自分を、志乃はもう持て余してはいなかった。
空っぽになったカップを両手で包み、志乃は窓ガラス越しに遠い青空を見上げた。
お腹が満ちて、手足が温まると、また新しい風の匂いが恋しくなってくる。
紗合わせの裾を整え、志乃は猫のように軽やかな足取りで、席を立った。
カフェの扉を出ると、山の冷気は先ほどよりも幾分か柔らかさを増していたが、それでも肌を撫でる風には、初秋特有の硬質な透明感が残っていた。
ロープウェイで一気に山を下りる。
眼下に広がっていた雲海は、下界へ降りるにつれてただの白く重たい霧へと姿を変え、やがて霧が晴れると、そこには稲刈りを控えた黄金色の棚田と、熟れた林檎の赤い実がたわわに実る信州の山里が広がっていた。
山頂の幻想から、匂いと湿り気のある生々しい現実へ。
駅に戻った志乃の頭の奥に、ふと、先ほどまで眺めていた雲の白さが別の記憶を呼び覚ましていた。
――白、ね。
それは雲の海ではなく、もっと身近で、もっと喉を潤す、米の匂いがする白。
「濁り酒濁れる飮みて……だっけ」
口の中で小さく呟いてみる。誰だったか、旅の途中でそんな歌を詠んだ詩人がいたはずだ。
志乃の衝動は、いつだって脈絡がない。林檎の匂いがすれば果樹園へ足を向け、白という色に引っ張られれば、今度はその白い酒が飲みたくなる。電車の時刻表を調べる代わりに、駅の観光案内板に指を滑らせた。
湯田中から長野電鉄に揺られ、小布施で途中下車する。
栗の香りが立ちのぼる瓦屋根の街並みを、濃紺の紗合わせに毛糸のカーディガンというちぐはぐな姿で、志乃はふらふらと歩いた。土壁の酒蔵の軒先に、青々とした杉玉が揺れている。
格子戸をくぐり、薄暗い蔵の売店で足を止めた。
「いらっしゃい。寒くなってきたねえ」
番頭の前掛けをした老人が、着物姿の若い女を物珍しそうに眺めながら声をかけてくる。
「あの、濁り酒って、ありますか。できるだけ、どろっとして、甘くて、強いの」
志乃がそう告げると、老人は細い目を丸くしたあと、からからと笑った。
「お嬢さん、なかなか通だね。秋の初めの濁り酒は、まだ若い酵母がぴちぴち跳ねててね。甘いけど、油断すると腰が抜けるよ」
奥から出されたのは、結露で濡れた青緑色のガラス瓶だった。振ると、底に沈んでいた白い澱が、まるで先ほど竜王の空で見た雲のように、ゆるゆると渦を巻いて瓶全体を乳白色に染め上げていく。
志乃は瓶を抱えるようにして買い、小さなガラスの猪口をひとつ、隣の陶器店で見繕った。
もう東京へ帰る電車のことなど、これっぽっちも頭にない。財布の底にはまだいくらかの紙幣がある。今夜の寝床も決めていないが、そんなことは風が吹いてから考えればいい。
千曲川の堤防へ向かって歩いた。
土手の上に登ると、夕暮れの陽射しが川面を赤銅色に染め上げていた。遠くには北信五岳の黒々とした影が、茜色の空にくっきりと切り抜かれている。草の匂い、乾いた土の匂い、そして遠くの野焼きの煙の匂いが混じり合い、志乃の鼻腔をくすぐった。
堤防の斜面、枯れ始めた秋の草の上に、志乃は躊躇うこともなく腰を下ろした。
紗合わせの裾が汚れようが、お気に入りの帯が草の実を拾おうが、知ったことではない。東京のマンションで、あの男の足音に怯えて爪先立ちしていた毎日に比べれば、冷たい土の感触のほうがよほど誠実だった。
カーディガンを脱ぎ、丸めて膝の上に置く。
栓を抜くと、ぷしゅ、と小さな炭酸の抜ける音がして、甘酸っぱい麹の香りが夕暮れの風にふわりと溶けた。
猪口に注ぐ。とろりとした白い液体が、ガラスの縁まで満ちる。
口をつけると、濃密な米の甘みと、舌先をちくちくと刺激する微発泡の爽やかさが一気に広がった。喉を通る瞬間、アルコールの確かな熱が、胃の腑へと一本の温かい筋を描いて落ちていく。
「……あ、おいしい」
思わず声が漏れた。
甘くて、優しくて、けれどどこか野蛮な強さを持った酒。
二杯、三杯と喉を鳴らして流し込むうちに、冷え切っていた指先やつま先がじんわりと火照り始め、頬に熱が集まってくるのがわかった。
視界が、ゆっくりと滲む。
夕暮れの千曲川は、刻一刻と色を変えていた。朱から紫へ、紫から深い群青へ。川のせせらぎが、まるで遠い異国の楽器のように耳の奥で心地よく響く。
「草枕、か……」
志乃は、空になった猪口を草の上に置き、そのまま土手の上にコロンと横たわった。
濃紺の着物が草の葉を擦り、さらさらと微かな音を立てる。
見上げた空には、いつの間にか一番星が鋭く瞬いていた。
頭がふわふわと心地よく痺れている。
東京の部屋に残してきた脱ぎ散らかした洋服も、テーブルの上の請求書も、あの男の無遠慮な笑い声も、濁り酒の白い靄の向こうへ溶けて、どこか遠い他人の出来事のように思えた。
(冷たいな、でも、あったかい)
背中からは大地の冷気がじわりと伝わってくるのに、体の芯は酒の熱でぽかぽかと燃えている。
見知らぬ土地の、川のほとりの草の上。
もし今、誰かが通りかかったら、着物を乱して泥酔している若い女を見て、肝を冷やすかもしれない。行き倒れだとか、身投げの未遂だとか、そんな下世話な心配をされるのだろうか。
けれど、志乃にとってこの瞬間は、生まれて初めて手に入れた完璧な聖域だった。
誰も私を縛れない。
誰も私に追いつけない。
私は風で、雲で、ただの酔っ払いの野良猫だ。
「……ふふ」
志乃は小さく笑い、草の匂いが染みついた腕を顔の上に乗せた。
ひんやりとした夜露が、紗合わせの薄絹の裾を濡らし始めている。
遠くで、最終列車の警笛がぽう、と鳴り、信州の深い闇のなかへと吸い込まれていった。




