悪役令嬢、断罪されたので校閲します ~殿下、「満月の夜に毒を盛った」とありますが、その夜は新月でございます~
「エーディト・フォン・ブーフヴァルト公爵令嬢。貴様の罪状は、この告発文に、すべて記されている!」
卒業を祝う夜会の中央で、王太子ヴィルヘルムが羊皮紙を高く掲げた。
金の髪がシャンデリアに映える。会場中の視線が、一斉に私へ集まった。
「貴様との婚約を破棄し、心清き聖女候補——男爵令嬢フローラを、新たな妃に迎える!」
壇の下で、栗色の髪の少女が身を縮めた。大きな瞳が、涙で潤んでいる。
「あわせて! かかる娘を育てたブーフヴァルト公爵は、王立文書院総裁の職を解くべきである! 公爵の進める原本照合の制度も、凍結を国王陛下へ上奏する!」
会場のあちこちから、扇の陰のささやきが降ってくる。
「まあ……やはり、あの令嬢が」
「公爵家も、これで終わりですわね」
(結論が先で、根拠があと。書き出しとしては——落第点ね)
私は悲鳴も上げず、ただ静かに一礼した。
前世の私は、井上正子。出版社の校閲部で、三十四年間、赤を入れ続けた女だ。
校閲という仕事は、誤字を直すだけの仕事ではない。
書かれた一行を、ぜんぶ疑う。日付は暦と突き合わせる。引用は原典に当たる。人名の一字、敬称のひとつまで、事実と照らし合わせる。
そして最後には、その文章を、書き手が本当に言いたかったことへ返す。それが校閲だ。
三十四年で、骨身に沁みたことがある。
嘘の文章には、必ず癖が出る。嘘は、細部を書きすぎる。あるいは、書かなすぎる。
退職まであと三日という校了の朝。他人の文章の間違いを直し続けた私の人生に、先に締切が来た。
気がつくと、とんがり帽子の青年の前にいた。転生管理局・凡人枠担当、ツクヨ。ネクタイの曲がった、丁寧で、少し不器用な神様だった。
『断罪される悪役令嬢へ、生まれ直していただきます。文章の嘘を見抜けるあなたなら——筋書きに、赤を入れられるかもしれません』
あれから十八年。どうやら今夜が、その校了日らしい。
チートはない。魔法も使えない。武器は、赤インクの羽根ペンが一本。
だが、侮らないでほしい。
私は三十四年間、世界でいちばん疑り深い読者だった。
「殿下。読み上げの前に、一つだけよろしいでしょうか」
私は一歩、進み出た。
「口頭のお言葉と違い、文章は、あとに残ります。残るものには、確認の作法がございます。——原本を、拝見しても?」
「なっ……」
「ご心配なく。取って食べたりはいたしません。読むだけでございます」
会場のどこかで、小さな笑いが漏れた。
壇の下から、重々しい声がそれを援護する。
「——王立文書院総裁として、原本との照らし合わせを要求する」
父だ。文書院は、王国の布告と記録を預かる役所である。解任を上奏すると読み上げられた当人が、黙っていては職務怠慢というものだろう。
王太子の目が、ちらりと壇の脇へ泳いだ。痩せた文官が影のように控え、小さく頷く。
「よ、よかろう! 好きに確かめるがいい。動かぬ証拠の羅列に、震えるがいい!」
そのとき、会場の隅から、長身の青年が静かに進み出た。
袖口に、インクの染みがある。王家の行事に立ち会い、あったことをあったとおりに書き残す役目の人。——若き国史編纂官、ユストゥス・フォン・ヴァールハイム伯爵。
彼は王太子の手から告発文の原本をうやうやしく受け取り、記録卓に広げた。
「原本は、この卓で預かる。照らし合わせも、ここで」
記録卓には、写しが二通、用意されていた。彼は手早く原本と見比べ、一通を王太子へ、もう一通を私へと手渡した。
「読み上げは、写しで。——令嬢。書き込みも、写しに」
(……話が早くていらっしゃること)
書き込む前提で、写しをくださるあたり。この方は、私が何をする女か、よく分かっていらっしゃる。
袖のあの染みを見つけると、不思議と呼吸が整った。
私は写しを受け取り、胸元から、赤インクの羽根ペンを取り出した。
会場が、ざわりと揺れた。
——ご存じの方も多いのだろう。私は十歳の頃、王妃陛下のお茶会の招待状に誤字を見つけ、赤で直して返送した女である。
以来、社交界の招待状は、私宛てのものだけ妙に誤字が少ない。
(皆さま、出せば直ると思っていらっしゃる。校閲は、無料ではないのですけれど)
一つ、申し上げておかねばならない。
赤は、判決ではない。確認すべき箇所を示す、ただの印だ。一つの誤りで、全文が嘘になるとは限らない。
——けれど。人を裁く文章に、一つの疑義も残してはならない。
それが、三十四年の結論である。
さて、今夜の原稿は。ずいぶんと、赤の入れがいがありそうだ。
「では殿下。第一条から、お願いいたします」
◇◇◇
「第一条! 貴様は三月十四日の夜、満月の夜陰に乗じ、東の離宮にてフローラの茶に毒を盛った!」
会場がどよめく。フローラが両手で顔を覆った。
私は、写しの一行目に目を落とす。
(日付。まずは日付よ)
「殿下。三月十四日の夜、私は王妃陛下の星見の宴の末席に連なっておりました。賓客名簿にも、私の署名が残っております」
「なっ……。か、書き間違いくらい、誰にでもあろう!」
「ええ、仰るとおりですわ。間違いは、誰にでもございます。——ですから、もう一つ」
私は羽根ペンを、すっと走らせた。
「三月十四日は、新月でございます。だからこその、星見の宴。……殿下。この夜、空に月はございません」
「……は?」
「『満月の夜陰に乗じ』とありますが、その夜、満月はどこにもないのです。書いた方は、暦をご覧にならなかったようですね」
宮廷暦官の老人が、おずおずと頷いた。
「日付と暦の突き合わせは、確認の基本でございます。赤、一本目」
最前列の伯爵夫人が、扇を止めた。
「……あら。ほんとうに、新月ですわ」
一人が頷けば、ざわめきは伝染する。断罪の空気に、最初のひびが入った。
◇◇◇
「だ、第二条! 貴様は南方の毒草ヴェルニカを煎じ、フローラの紅茶に混ぜた!」
(毒草。今度は、事実の確認ね)
前世の校閲部には、合言葉があった。書いてあることを信じるな。調べてから信じろ。
「殿下。ヴェルニカの毒は、熱に弱いのでございます」
「……なに?」
「煎じた時点で、毒は失われます。あとに残るのは、染物に使われるほど鮮やかな、青い色だけ」
私は、二本目の赤を引いた。
「つまり告発文のとおりに淹れますと、毒にならず、真っ青なお茶になって、隠すこともできません」
「な、なんだと……」
「真っ青な紅茶を、疑いもせず飲み干す方が、この会場にいらっしゃいますでしょうか」
今度の笑いは、隠しきれていなかった。
王妃付きの老女官が進み出て、静かに補足する。
「ヴェルニカの性質につきましては、その通りにございます。薬草庫の手引きにも、そのように記されております」
「毒殺をご計画の際は、もう少しお勉強をなさってからどうぞ。——赤、二本目」
「ぐ……っ」
王太子の手の中で、写しがかさりと鳴った。彼は行を指でなぞり、慌てて先を探している。
(読み上げるたびに、原稿へ戻る。私ではなく、原稿と壇の脇ばかり見ている。……この方、次に何を言うか、ご自分で選んでいないのね)
◇◇◇
「第三条……。『穢れし血を、玉座に近づけてはならぬ』——建国王の御言葉である! 貴様の一族は、かつて王家に弓を引いた穢れの血筋。妃の資格など、はじめから……」
「その御言葉、建国王は仰っておりません」
「……なに?」
「引用は、原典に当たるのが作法でございます。——編纂官殿。ご確認を、お願いできますか」
ユストゥスは頷き、記録卓の書架箱から分厚い一冊を取り出した。『建国王言行録・総索引』。
頁を繰る音だけが、静まり返った会場に響く。
やがて、彼は顔を上げた。
「……ない。正典三巻に、この文はない。出典があるとすれば、百二十年前の偽書だけだ」
短い。事実だけ。あの方は、いつもそうだ。
この半年、彼は年代記の校合のため、我が家の書庫に通っていた。私が草稿の欄外にこっそり挟んだ疑問の紙片に、彼は翌日、必ず資料で答えを返してきた。
最初の紙片は、たしか『この年号、前頁と一年ずれておりませんか』だった。
翌朝、書庫の机に、資料が三冊。その上に、一筆。『ずれている。直した』。
それだけの往復を、半年。
恋文のやり取りなど、したことはない。ただ、紙片の往復だけが、静かに積み上がっていた。
「よく、気づいた」
彼はそれだけ言って、口を閉じた。
(……今のは、記録に残してもよろしくてよ)
私は、続けた。
「加えて申し上げます。我が家の旧い罪は、百年前の和解の勅書で、すでに赦されております。殿下との婚約の審査書にも、その沿革は明記されておりました」
一拍おいて、私は王太子を見た。
「存在しない御言葉で、国王陛下が正式にお認めになった婚約は、覆せません。——赤、三本目」
◇◇◇
「だ、第四条。フローラの手記には、貴様の悪行が、日々つづられて……」
「では、その手記とやらを、ご朗読くださいませ」
王太子は咳払いをして、読み上げた。
「『三月二十日。今日もエーディト様に、階段から突き落とされそうになりました。かかる事態に鑑み、上記の通り相違ございません』……」
会場が、しんとした。
誰もが、何かがおかしいと感じている。けれど、どこがおかしいのかは、分からない。
——そこを言葉にするのが、私の仕事だ。
「殿下。十六歳の令嬢は、日記を役所に提出いたしません」
「な……」
「『かかる事態に鑑み』。『上記の通り相違ございません』。お役所の決まり文句が、少女の日記に混じっております」
「そ、それだけで、偽物と決めつけるつもりか!」
「いいえ、決めつけません。——ですから、手記の原本も拝見いたします」
ユストゥスが、物証として提出されていた薄い冊子を、記録卓に開いた。
私は原本には触れず、身を屈めて、十日分の頁を見比べる。
(……ああ、やっぱり)
「十日分の本文が、すべて同じ濃さのインク、同じ筆圧でございます。少なくとも、十日に分けて書かれたものとは考えにくうございます」
「そ、そんなことまで分かるものか!」
「分かります。それに——決め手が、もう一つ」
私は、告発文の写しに四本目の赤を引いた。
「本文と日付とで、インクの色が違うのです。先に一続きの報告文を書き、あとから十日分に切り分けて、日付を添えたのでしょう」
ユストゥスが、手記を開いたまま会場へ向ける。
「これは日記ではなく——日記の形をした、報告書でございます」
フローラの肩が、大きく跳ねた。
私は、彼女へ向き直る。責める調子には、しなかった。
「大丈夫。これがあなた自身の言葉でないことは、文章が教えてくれています」
「わたし……わたしは……」
「伺いたいのは、一つだけ。——誰の原稿を、写したのですか」
栗色の髪の少女は、言葉の代わりに、壇の脇へ怯えた視線を走らせた。
(……ええ。それで、十分よ)
「赤、四本目」
◇◇◇
「第五条を、お願いいたします」
「……だ、第五条。『王妃殿下におかれましても、貴様の振る舞いを深く憂いておられ』……」
「そこまでで結構でございます」
私は、五本目の赤を引いた。
「我が国では、建国以来二百年、王妃の敬称は『陛下』でございます。一度の例外もなく」
「……そ、それが、どうした」
「王太子殿下の名で公に読み上げられ、人の身分を左右する文書は、事前に文書院の書式審査を受けます。用語表に従い、敬称は必ず『陛下』へ直されます」
私は、写しを掲げた。
「つまりこの告発文は——文書院の書式審査を、一度も通っていないのでございます」
会場が、ざわりと揺れた。
正式な手続きを経ていない告発文が、王太子の手で読み上げられている。その意味を、貴族たちは考え始めている。
老女官が、もう一度進み出た。今度の声は、はっきりと怒っていた。
「畏れながら、申し上げます。王妃陛下は、エーディト様を憂えるお言葉など、一度も仰せになっておりません」
「王妃陛下のお言葉を偽ったことが、この文章でいちばんの無礼でございます。——赤、五本目」
王太子の指が、写しの上で、行を見失った。
「……次は、どこを読めば」
小さな呟きは、静まり返った会場に、よく通った。
貴族たちが、顔を見合わせる。壇の脇で、痩せた文官の顔色が変わった。
(五本目の赤は、文章ではなく——読み手に、入ってしまったわね)
◇◇◇
私は、羽根ペンを置いた。
「殿下。この半年、私は殿下の布告とお言葉を、すべて拝読してまいりました。婚約者の務めとして」
「な、なんだ、藪から棒に」
「『かかる』と『かような』をお好みで、『鑑み』が一頁に四つ。読点を打たずに三行。結びは必ず、三重の敬語」
私は、告発文の写しを掲げた。
「この告発文、殿下のお言葉と、癖が完全に同じでございます。——殿下のお言葉を、長年お書きになってきた方が、これもお書きになった」
会場中の視線が、ゆっくりと壇の脇へ動く。
痩せた文官——宰相補佐ラングは、慇懃な笑みを崩さなかった。
「これはこれは、公爵令嬢殿。文体などというあやふやなものをあげつらい、かかる場でこの私を疑うと申されるか」
(……ご本人の口から『かかる』が出ました。皆さま、お聞きになりまして?)
「その程度の癖なら、誰にでも真似できましょう」
「では、あやふやでないものを」
私は、父へ目配せをした。文書院の書記官が、綴りを一冊、運んでくる。
「関税布告第七十二号。発布の日に配られた謄本には、『東方絹十反につき、銀貨一枚』とございます。ですが——宰相府から文書院へ返納された原本は、『東方絹一反につき、銀貨一枚』」
「……それが、何か」
「十反につき一枚が、一反につき一枚。関税は、十倍でございます」
商いに携わる男爵たちが、真っ先に息を呑んだ。
「そして原本では、十を表す数字の末尾の輪だけ、羊皮紙の表面が毛羽立っております。——削り取られたのです。輪を一つ削れば、十が一になりますので」
私は、綴りを一枚めくった。
「各徴税所へ送られる施行写しは、宰相府がこの原本から起こします。ですから現場の徴収額まで、そっくり十倍になったのでございます」
「な……そ、それこそ、書き損じの直しであろう」
「では、うかがいます。関税が十倍に上がる一方で、旧い税率のまま輸入できる特免状を持つ商会が、一社だけございました」
私は、綴りの頁を会場へ向けた。
「——ラング殿の義弟が、会頭を務める商会でございます。皆さまには、お心当たりがおありでしょう」
父が、一歩前へ出た。
「原本照合の試し調べで、同様の不一致は十七箇所。明朝より正式な調べに入り、原本に触れた者を特定する手はずであった」
(つまり今夜の断罪は——この方にとって、最後の機会だったのだわ)
「布告の原本は、発布ののち、宰相府から文書院へ返納されます。十七通すべて、返納簿の責任者欄に、同じ署名がございました」
私は、静かにその名を読んだ。
「宰相補佐、ラング殿。——あなたの署名です」
ラングは初めて、返す言葉を失った。
慇懃な笑みが、顔の上で置き場を失っている。それは、原稿のない人間の顔だった。
「父の原本照合が始まれば、すべて明るみに出るものばかり。この断罪の的は、私ではなく——王立文書院そのものでございましょう」
私は、初めて声を低くした。
「文章のついでに、人を消すのは、おやめなさい」
「……ラング」
掠れた声がした。王太子だった。
「余の言葉は……余が読んできたあの言葉は、すべて、そなたが……」
ラングは、答えなかった。その沈黙が、何よりの答えだった。
王太子は、一度だけ目を閉じた。そして、開いた。
「近衛。宰相補佐ラングの身柄を押さえよ。宰相府の執務室と、印庫も封じよ」
今度の言葉だけは、彼は原稿を見ずに発した。
近衛が動く。連れ出されるあいだ、ラングは一言も発しなかった。
——原稿を失った人は、静かだ。
「……お、お待ちください」
震える声がした。フローラが、初めて自分から顔を上げている。
「エーディト様は、何もしていません。毒も、階段のことも……すべて、ラング様に言われて、わたしが書きました」
たどたどしく、飾りのない言葉だった。
けれど今度は、誰の原稿でもなかった。
私は、彼女に小さく頷く。
(ええ。——それが、あなたの文章よ)
◇◇◇
それで幕引きでもよかった。けれど、私にはまだ、直し残しが一つあった。
「殿下。最後に、一つだけ伺います」
私は、王太子の前に立った。
「この告発文を、殿下が初めてお読みになったのは、いつでございますか」
「……今夜だ」
「では——この中に、殿下ご自身のお言葉は、どこにありますか」
王太子は、手の中の写しを見た。何かを探すように、長いあいだ、見た。
そして、見つからなかった。
「……ない」
掠れた声だった。
「物心ついたときから、余の言葉は、いつも先に用意されていた。殿下はお読みになるだけで結構です、と」
彼は、一度、言葉を切った。
「余は、字が読める。誰よりも美しく、読める。だが——公の場で人に届ける言葉を、自分で書いたことが、ないのだ」
(この方は、自分で裁いているつもりだったのね。——その実、誰かの原稿を読むだけの、朗読係だったのだわ)
胸の奥で、怒りがゆっくりと形を変えていく。
「殿下。校閲は、書いた人を罰する仕事ではございません」
「……なに?」
「間違いを直して、文章を、書き手が本当に言いたかったことへ返す仕事でございます。——殿下が、本当に仰りたかったことは、何ですか」
長い、長い沈黙。
やがて王太子ヴィルヘルムは、初めて自分の胸の内を、原稿のない言葉で語った。
「……分からない。考えたことが、なかった」
それから、ひどく不器用に、続けた。
「済まなかった。それだけは……原稿がなくても、言える」
金の髪が肩へこぼれるほど、王太子は深く頭を下げた。王族が、公衆の前で頭を下げていた。
私は、一礼を返した。それから、顔を上げて言った。
「謝罪は、受け取ります。ですが殿下——読み上げただけで、責任が消えるわけではございません」
「……ああ」
「今夜の告発を、殿下ご自身の言葉で、取り消してくださいませ」
王太子は頷いた。写しをユストゥスの記録卓に置き——何も持たずに、会場へ向き直った。
「エーディト・フォン・ブーフヴァルトは、無実だ」
たどたどしい声だった。
「余は、確かめもせず、この場で彼女を辱めた。婚約破棄の宣言も、フローラを妃に迎えるとの宣言も、撤回する」
一度、息を吸う音がした。
「公爵の解任と、原本照合の凍結の上奏も、同じく撤回する。——責任は、余にある」
飾りがない。三重の敬語もない。結びの型も、なっていない。
——その夜いちばん、直すところのない文章だった。
◇◇◇
沙汰は、十日で下りた。
宰相補佐ラングの罪状は、布告の改竄と証拠の捏造、虚偽告発の主導。官職を解かれ、裁きの場へ送られた。特免状で肥え太っていた義弟の商会にも、調べが入っている。
十七通の布告には、すべて訂正の布告が出た。取りすぎた関税も、順次返されるという。訂正布告の校閲は、私がした。当然である。
フローラは、実家の借金をラングに買い取られ、それを盾に「手記」を書き写させられていたのだと分かった。処分はなく、王妃陛下の庇護下に置かれた。
後日、彼女の本物の日記を、少しだけ見せてもらった。丸みの残る飾らない字で、短くて、正直だった。
『きょうは、こわかった。』
「お芝居の台本より、ずっと良い文章でございますよ」
そう伝えたら、彼女は栗色の髪を揺らして、わあわあ泣いた。以来、月に一度、お茶を飲む仲である。
殿下との婚約は、両家の合意で、白紙に戻った。
謝罪は受け取った。恨みも、もうない。……けれど、婚約を元に戻す理由も、なかった。
その殿下はといえば——日記を書き始めたそうだ。誰の原稿でもない、自分の言葉の練習だという。
週に一度、赤を求めて送ってくる。最初の日記は、たった三文だった。
『今日、初めて自分で書いた。難しい。明日も書く。』
私は初めて、赤を入れずに返した。欄外に、一言だけ添えて。
——直すところが、ありません。
そして、王命が下りた。王立文書院に「校閲室」を新設すること。従来の書式審査に加えて、日付や引用、法文の効き目まで確かめること。初代の室長は、私。
お給金も、出る。
(申し上げたでしょう。校閲は、無料ではないのです)
◇◇◇
婚約を白紙に戻してから、三か月ほど経った昼下がり。
校閲室に、無口な来客があった。
ユストゥス・フォン・ヴァールハイム。袖のインク染みは、今日もそのままだ。
彼は挨拶の代わりに、紙の束を机に置いた。見覚えのある紙片——書庫で私が草稿に挟み続けた、半年分の疑問の紙片だった。
「……保管して、いらしたのですか」
「編纂官だ。重要な文書は、保存する」
束のいちばん上に、見覚えのある走り書きがあった。『この年号、前頁と一年ずれておりませんか』。
私の、最初の疑問だった。——日付順に、揃えてある。
(重要な、文書)
胸の奥が、音を立てた気がした。動揺を、扇の代わりに咳払いで隠す。
「君の疑問には、すべて資料で答えてきた」
「ええ。半年分、確かに」
「今度は——私の問いに、答えてほしい」
彼は、一枚の原稿を差し出した。
表題に、飾り気のない字で『求婚状』とある。
「……三稿目だ」
「三稿?」
「一稿目は、事実の列挙になった。二稿目は、年表になった」
笑いをこらえて、私は原稿を読んだ。
短い文章だった。誇張がひとつもない。日付が正確で、敬称に誤りがない。引用は——いつか私が欄外に書いた言葉が、一つだけ正しく引かれていた。
そして、最終行。
『歴史に、校了はない。私はこの国の歴史を書き続ける。その原稿に——生涯、赤を入れてもらえないだろうか』
癖で、直すところを探す。
なかった。
……悔しいくらいに、なかった。
私は羽根ペンを取り、欄外に、ひとことだけ書き入れた。
——ママ。
「…………ママ?」
生真面目な眉が、初めて困惑に歪む。その顔が見たかった。
「校閲の印でございます。『原文のまま』——本来は、誤りに見える箇所を、あえて原文どおり残すときに使います」
「……本来は?」
「今回は、字義どおり。一字も、変えたくありませんので」
言ってから、声が少しだけ震えたのに気づいた。三十四年と十八年、文章ばかり直してきた私の、精いっぱいの恋文である。
「つまり——お受けします、ということです。ただし、条件が一つ。私の疑問には、これからも生涯、お答えいただくこと」
「無論だ」
彼は頷き、それから、記録に残らないほど小さく笑った。
「今のは、書き留めておきたい顔だった」
「……どの顔でございます」
「『ママ』と書いたときの」
インクの染みのついた袖が伸びて、私の手を、そっと取った。
◇◇◇
その夜、夢に、とんがり帽子の青年が出てきた。
相変わらず、ネクタイが曲がっている。
『いやあ、お見事でした。筋書き、ずいぶん直りましたねえ』
「ええ。あなたの筋書きにも、赤を入れておきましたから」
『拝見しました。良い直しです』
彼は深々と頭を下げた。次の凡人枠の配属があるとかで、もう行くらしい。神様も、地道な仕事である。
私は手を伸ばして、曲がったネクタイを直してあげた。夢の中でくらい、構わないでしょう。
(ツクヨさん。あの配属、大正解でしたよ)
◇◇◇
王国の朝は、今日も文章で始まる。
校閲室の机には、布告の草稿が山と積まれている。隣国との条約文。新しい橋の告知。それから——無口な婚約者が置いていった、年代記の最新稿。
嘘の文章には、癖が出る。正直な文章にも、癖は出る。
私はそれを、三十四年と十八年、読み続けてきた。だからもう、知っている。
言葉は、直せる。筋書きも、直せる。
(さて。今日も、この国の原稿を開きましょうか)
この国の歴史に、校了はない。
(了)
お読みいただき、ありがとうございました。
「前世の地味な専門知識で、異世界の理不尽をひっくり返す」——凡人枠シリーズ、今回は校閲者です。赤ペン一本のざまぁ、楽しんでいただけましたでしょうか。感想などをいただけると、次を書く励みになります。
▼同じ「断罪を、プロの仕事でひっくり返す」お話もどうぞ
・『悪役令嬢、断罪されたので謝罪します』(前世=百貨店クレーム対応部長)
・『悪役令嬢、断罪されたので反対尋問します』(前世=弁護士)
・『悪役令嬢、断罪されたけど問題児はいません』(前世=スクールカウンセラー)
作者ページから、ほかの「凡人枠」シリーズもご覧いただけます。




