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悪役令嬢、断罪されたので校閲します ~殿下、「満月の夜に毒を盛った」とありますが、その夜は新月でございます~

掲載日:2026/08/21

「エーディト・フォン・ブーフヴァルト公爵令嬢。貴様の罪状は、この告発文に、すべて記されている!」


卒業を祝う夜会の中央で、王太子ヴィルヘルムが羊皮紙を高く掲げた。


金の髪がシャンデリアに映える。会場中の視線が、一斉に私へ集まった。


「貴様との婚約を破棄し、心清き聖女候補——男爵令嬢フローラを、新たな妃に迎える!」


壇の下で、栗色の髪の少女が身を縮めた。大きな瞳が、涙で潤んでいる。


「あわせて! かかる娘を育てたブーフヴァルト公爵は、王立文書院総裁の職を解くべきである! 公爵の進める原本照合の制度も、凍結を国王陛下へ上奏する!」


会場のあちこちから、扇の陰のささやきが降ってくる。


「まあ……やはり、あの令嬢が」


「公爵家も、これで終わりですわね」


(結論が先で、根拠があと。書き出しとしては——落第点ね)


私は悲鳴も上げず、ただ静かに一礼した。


前世の私は、井上正子。出版社の校閲部で、三十四年間、赤を入れ続けた女だ。


校閲という仕事は、誤字を直すだけの仕事ではない。


書かれた一行を、ぜんぶ疑う。日付は暦と突き合わせる。引用は原典に当たる。人名の一字、敬称のひとつまで、事実と照らし合わせる。


そして最後には、その文章を、書き手が本当に言いたかったことへ返す。それが校閲だ。


三十四年で、骨身に沁みたことがある。


嘘の文章には、必ず癖が出る。嘘は、細部を書きすぎる。あるいは、書かなすぎる。


退職まであと三日という校了の朝。他人の文章の間違いを直し続けた私の人生に、先に締切が来た。


気がつくと、とんがり帽子の青年の前にいた。転生管理局・凡人枠担当、ツクヨ。ネクタイの曲がった、丁寧で、少し不器用な神様だった。


『断罪される悪役令嬢へ、生まれ直していただきます。文章の嘘を見抜けるあなたなら——筋書きに、赤を入れられるかもしれません』


あれから十八年。どうやら今夜が、その校了日らしい。


チートはない。魔法も使えない。武器は、赤インクの羽根ペンが一本。


だが、侮らないでほしい。


私は三十四年間、世界でいちばん疑り深い読者だった。


「殿下。読み上げの前に、一つだけよろしいでしょうか」


私は一歩、進み出た。


「口頭のお言葉と違い、文章は、あとに残ります。残るものには、確認の作法がございます。——原本を、拝見しても?」


「なっ……」


「ご心配なく。取って食べたりはいたしません。読むだけでございます」


会場のどこかで、小さな笑いが漏れた。


壇の下から、重々しい声がそれを援護する。


「——王立文書院総裁として、原本との照らし合わせを要求する」


父だ。文書院は、王国の布告と記録を預かる役所である。解任を上奏すると読み上げられた当人が、黙っていては職務怠慢というものだろう。


王太子の目が、ちらりと壇の脇へ泳いだ。痩せた文官が影のように控え、小さく頷く。


「よ、よかろう! 好きに確かめるがいい。動かぬ証拠の羅列に、震えるがいい!」


そのとき、会場の隅から、長身の青年が静かに進み出た。


袖口に、インクの染みがある。王家の行事に立ち会い、あったことをあったとおりに書き残す役目の人。——若き国史編纂官、ユストゥス・フォン・ヴァールハイム伯爵。


彼は王太子の手から告発文の原本をうやうやしく受け取り、記録卓に広げた。


「原本は、この卓で預かる。照らし合わせも、ここで」


記録卓には、写しが二通、用意されていた。彼は手早く原本と見比べ、一通を王太子へ、もう一通を私へと手渡した。


「読み上げは、写しで。——令嬢。書き込みも、写しに」


(……話が早くていらっしゃること)


書き込む前提で、写しをくださるあたり。この方は、私が何をする女か、よく分かっていらっしゃる。


袖のあの染みを見つけると、不思議と呼吸が整った。


私は写しを受け取り、胸元から、赤インクの羽根ペンを取り出した。


会場が、ざわりと揺れた。


——ご存じの方も多いのだろう。私は十歳の頃、王妃陛下のお茶会の招待状に誤字を見つけ、赤で直して返送した女である。


以来、社交界の招待状は、私宛てのものだけ妙に誤字が少ない。


(皆さま、出せば直ると思っていらっしゃる。校閲は、無料ではないのですけれど)


一つ、申し上げておかねばならない。


赤は、判決ではない。確認すべき箇所を示す、ただの印だ。一つの誤りで、全文が嘘になるとは限らない。


——けれど。人を裁く文章に、一つの疑義も残してはならない。


それが、三十四年の結論である。


さて、今夜の原稿は。ずいぶんと、赤の入れがいがありそうだ。


「では殿下。第一条から、お願いいたします」


◇◇◇


「第一条! 貴様は三月十四日の夜、満月の夜陰に乗じ、東の離宮にてフローラの茶に毒を盛った!」


会場がどよめく。フローラが両手で顔を覆った。


私は、写しの一行目に目を落とす。


(日付。まずは日付よ)


「殿下。三月十四日の夜、私は王妃陛下の星見の宴の末席に連なっておりました。賓客名簿にも、私の署名が残っております」


「なっ……。か、書き間違いくらい、誰にでもあろう!」


「ええ、仰るとおりですわ。間違いは、誰にでもございます。——ですから、もう一つ」


私は羽根ペンを、すっと走らせた。


「三月十四日は、新月でございます。だからこその、星見の宴。……殿下。この夜、空に月はございません」


「……は?」


「『満月の夜陰に乗じ』とありますが、その夜、満月はどこにもないのです。書いた方は、暦をご覧にならなかったようですね」


宮廷暦官の老人が、おずおずと頷いた。


「日付と暦の突き合わせは、確認の基本でございます。赤、一本目」


最前列の伯爵夫人が、扇を止めた。


「……あら。ほんとうに、新月ですわ」


一人が頷けば、ざわめきは伝染する。断罪の空気に、最初のひびが入った。


◇◇◇


「だ、第二条! 貴様は南方の毒草ヴェルニカを煎じ、フローラの紅茶に混ぜた!」


(毒草。今度は、事実の確認ね)


前世の校閲部には、合言葉があった。書いてあることを信じるな。調べてから信じろ。


「殿下。ヴェルニカの毒は、熱に弱いのでございます」


「……なに?」


「煎じた時点で、毒は失われます。あとに残るのは、染物に使われるほど鮮やかな、青い色だけ」


私は、二本目の赤を引いた。


「つまり告発文のとおりに淹れますと、毒にならず、真っ青なお茶になって、隠すこともできません」


「な、なんだと……」


「真っ青な紅茶を、疑いもせず飲み干す方が、この会場にいらっしゃいますでしょうか」


今度の笑いは、隠しきれていなかった。


王妃付きの老女官が進み出て、静かに補足する。


「ヴェルニカの性質につきましては、その通りにございます。薬草庫の手引きにも、そのように記されております」


「毒殺をご計画の際は、もう少しお勉強をなさってからどうぞ。——赤、二本目」


「ぐ……っ」


王太子の手の中で、写しがかさりと鳴った。彼は行を指でなぞり、慌てて先を探している。


(読み上げるたびに、原稿へ戻る。私ではなく、原稿と壇の脇ばかり見ている。……この方、次に何を言うか、ご自分で選んでいないのね)


◇◇◇


「第三条……。『穢れし血を、玉座に近づけてはならぬ』——建国王の御言葉である! 貴様の一族は、かつて王家に弓を引いた穢れの血筋。妃の資格など、はじめから……」


「その御言葉、建国王は仰っておりません」


「……なに?」


「引用は、原典に当たるのが作法でございます。——編纂官殿。ご確認を、お願いできますか」


ユストゥスは頷き、記録卓の書架箱から分厚い一冊を取り出した。『建国王言行録・総索引』。


頁を繰る音だけが、静まり返った会場に響く。


やがて、彼は顔を上げた。


「……ない。正典三巻に、この文はない。出典があるとすれば、百二十年前の偽書だけだ」


短い。事実だけ。あの方は、いつもそうだ。


この半年、彼は年代記の校合のため、我が家の書庫に通っていた。私が草稿の欄外にこっそり挟んだ疑問の紙片に、彼は翌日、必ず資料で答えを返してきた。


最初の紙片は、たしか『この年号、前頁と一年ずれておりませんか』だった。


翌朝、書庫の机に、資料が三冊。その上に、一筆。『ずれている。直した』。


それだけの往復を、半年。


恋文のやり取りなど、したことはない。ただ、紙片の往復だけが、静かに積み上がっていた。


「よく、気づいた」


彼はそれだけ言って、口を閉じた。


(……今のは、記録に残してもよろしくてよ)


私は、続けた。


「加えて申し上げます。我が家の旧い罪は、百年前の和解の勅書で、すでに赦されております。殿下との婚約の審査書にも、その沿革は明記されておりました」


一拍おいて、私は王太子を見た。


「存在しない御言葉で、国王陛下が正式にお認めになった婚約は、覆せません。——赤、三本目」


◇◇◇


「だ、第四条。フローラの手記には、貴様の悪行が、日々つづられて……」


「では、その手記とやらを、ご朗読くださいませ」


王太子は咳払いをして、読み上げた。


「『三月二十日。今日もエーディト様に、階段から突き落とされそうになりました。かかる事態に鑑み、上記の通り相違ございません』……」


会場が、しんとした。


誰もが、何かがおかしいと感じている。けれど、どこがおかしいのかは、分からない。


——そこを言葉にするのが、私の仕事だ。


「殿下。十六歳の令嬢は、日記を役所に提出いたしません」


「な……」


「『かかる事態に鑑み』。『上記の通り相違ございません』。お役所の決まり文句が、少女の日記に混じっております」


「そ、それだけで、偽物と決めつけるつもりか!」


「いいえ、決めつけません。——ですから、手記の原本も拝見いたします」


ユストゥスが、物証として提出されていた薄い冊子を、記録卓に開いた。


私は原本には触れず、身を屈めて、十日分の頁を見比べる。


(……ああ、やっぱり)


「十日分の本文が、すべて同じ濃さのインク、同じ筆圧でございます。少なくとも、十日に分けて書かれたものとは考えにくうございます」


「そ、そんなことまで分かるものか!」


「分かります。それに——決め手が、もう一つ」


私は、告発文の写しに四本目の赤を引いた。


「本文と日付とで、インクの色が違うのです。先に一続きの報告文を書き、あとから十日分に切り分けて、日付を添えたのでしょう」


ユストゥスが、手記を開いたまま会場へ向ける。


「これは日記ではなく——日記の形をした、報告書でございます」


フローラの肩が、大きく跳ねた。


私は、彼女へ向き直る。責める調子には、しなかった。


「大丈夫。これがあなた自身の言葉でないことは、文章が教えてくれています」


「わたし……わたしは……」


「伺いたいのは、一つだけ。——誰の原稿を、写したのですか」


栗色の髪の少女は、言葉の代わりに、壇の脇へ怯えた視線を走らせた。


(……ええ。それで、十分よ)


「赤、四本目」


◇◇◇


「第五条を、お願いいたします」


「……だ、第五条。『王妃殿下におかれましても、貴様の振る舞いを深く憂いておられ』……」


「そこまでで結構でございます」


私は、五本目の赤を引いた。


「我が国では、建国以来二百年、王妃の敬称は『陛下』でございます。一度の例外もなく」


「……そ、それが、どうした」


「王太子殿下の名で公に読み上げられ、人の身分を左右する文書は、事前に文書院の書式審査を受けます。用語表に従い、敬称は必ず『陛下』へ直されます」


私は、写しを掲げた。


「つまりこの告発文は——文書院の書式審査を、一度も通っていないのでございます」


会場が、ざわりと揺れた。


正式な手続きを経ていない告発文が、王太子の手で読み上げられている。その意味を、貴族たちは考え始めている。


老女官が、もう一度進み出た。今度の声は、はっきりと怒っていた。


「畏れながら、申し上げます。王妃陛下は、エーディト様を憂えるお言葉など、一度も仰せになっておりません」


「王妃陛下のお言葉を偽ったことが、この文章でいちばんの無礼でございます。——赤、五本目」


王太子の指が、写しの上で、行を見失った。


「……次は、どこを読めば」


小さな呟きは、静まり返った会場に、よく通った。


貴族たちが、顔を見合わせる。壇の脇で、痩せた文官の顔色が変わった。


(五本目の赤は、文章ではなく——読み手に、入ってしまったわね)


◇◇◇


私は、羽根ペンを置いた。


「殿下。この半年、私は殿下の布告とお言葉を、すべて拝読してまいりました。婚約者の務めとして」


「な、なんだ、藪から棒に」


「『かかる』と『かような』をお好みで、『鑑み』が一頁に四つ。読点を打たずに三行。結びは必ず、三重の敬語」


私は、告発文の写しを掲げた。


「この告発文、殿下のお言葉と、癖が完全に同じでございます。——殿下のお言葉を、長年お書きになってきた方が、これもお書きになった」


会場中の視線が、ゆっくりと壇の脇へ動く。


痩せた文官——宰相補佐ラングは、慇懃な笑みを崩さなかった。


「これはこれは、公爵令嬢殿。文体などというあやふやなものをあげつらい、かかる場でこの私を疑うと申されるか」


(……ご本人の口から『かかる』が出ました。皆さま、お聞きになりまして?)


「その程度の癖なら、誰にでも真似できましょう」


「では、あやふやでないものを」


私は、父へ目配せをした。文書院の書記官が、綴りを一冊、運んでくる。


「関税布告第七十二号。発布の日に配られた謄本には、『東方絹十反につき、銀貨一枚』とございます。ですが——宰相府から文書院へ返納された原本は、『東方絹一反につき、銀貨一枚』」


「……それが、何か」


「十反につき一枚が、一反につき一枚。関税は、十倍でございます」


商いに携わる男爵たちが、真っ先に息を呑んだ。


「そして原本では、十を表す数字の末尾の輪だけ、羊皮紙の表面が毛羽立っております。——削り取られたのです。輪を一つ削れば、十が一になりますので」


私は、綴りを一枚めくった。


「各徴税所へ送られる施行写しは、宰相府がこの原本から起こします。ですから現場の徴収額まで、そっくり十倍になったのでございます」


「な……そ、それこそ、書き損じの直しであろう」


「では、うかがいます。関税が十倍に上がる一方で、旧い税率のまま輸入できる特免状を持つ商会が、一社だけございました」


私は、綴りの頁を会場へ向けた。


「——ラング殿の義弟が、会頭を務める商会でございます。皆さまには、お心当たりがおありでしょう」


父が、一歩前へ出た。


「原本照合の試し調べで、同様の不一致は十七箇所。明朝より正式な調べに入り、原本に触れた者を特定する手はずであった」


(つまり今夜の断罪は——この方にとって、最後の機会だったのだわ)


「布告の原本は、発布ののち、宰相府から文書院へ返納されます。十七通すべて、返納簿の責任者欄に、同じ署名がございました」


私は、静かにその名を読んだ。


「宰相補佐、ラング殿。——あなたの署名です」


ラングは初めて、返す言葉を失った。


慇懃な笑みが、顔の上で置き場を失っている。それは、原稿のない人間の顔だった。


「父の原本照合が始まれば、すべて明るみに出るものばかり。この断罪の的は、私ではなく——王立文書院そのものでございましょう」


私は、初めて声を低くした。


「文章のついでに、人を消すのは、おやめなさい」


「……ラング」


掠れた声がした。王太子だった。


「余の言葉は……余が読んできたあの言葉は、すべて、そなたが……」


ラングは、答えなかった。その沈黙が、何よりの答えだった。


王太子は、一度だけ目を閉じた。そして、開いた。


「近衛。宰相補佐ラングの身柄を押さえよ。宰相府の執務室と、印庫も封じよ」


今度の言葉だけは、彼は原稿を見ずに発した。


近衛が動く。連れ出されるあいだ、ラングは一言も発しなかった。


——原稿を失った人は、静かだ。


「……お、お待ちください」


震える声がした。フローラが、初めて自分から顔を上げている。


「エーディト様は、何もしていません。毒も、階段のことも……すべて、ラング様に言われて、わたしが書きました」


たどたどしく、飾りのない言葉だった。


けれど今度は、誰の原稿でもなかった。


私は、彼女に小さく頷く。


(ええ。——それが、あなたの文章よ)


◇◇◇


それで幕引きでもよかった。けれど、私にはまだ、直し残しが一つあった。


「殿下。最後に、一つだけ伺います」


私は、王太子の前に立った。


「この告発文を、殿下が初めてお読みになったのは、いつでございますか」


「……今夜だ」


「では——この中に、殿下ご自身のお言葉は、どこにありますか」


王太子は、手の中の写しを見た。何かを探すように、長いあいだ、見た。


そして、見つからなかった。


「……ない」


掠れた声だった。


「物心ついたときから、余の言葉は、いつも先に用意されていた。殿下はお読みになるだけで結構です、と」


彼は、一度、言葉を切った。


「余は、字が読める。誰よりも美しく、読める。だが——公の場で人に届ける言葉を、自分で書いたことが、ないのだ」


(この方は、自分で裁いているつもりだったのね。——その実、誰かの原稿を読むだけの、朗読係だったのだわ)


胸の奥で、怒りがゆっくりと形を変えていく。


「殿下。校閲は、書いた人を罰する仕事ではございません」


「……なに?」


「間違いを直して、文章を、書き手が本当に言いたかったことへ返す仕事でございます。——殿下が、本当に仰りたかったことは、何ですか」


長い、長い沈黙。


やがて王太子ヴィルヘルムは、初めて自分の胸の内を、原稿のない言葉で語った。


「……分からない。考えたことが、なかった」


それから、ひどく不器用に、続けた。


「済まなかった。それだけは……原稿がなくても、言える」


金の髪が肩へこぼれるほど、王太子は深く頭を下げた。王族が、公衆の前で頭を下げていた。


私は、一礼を返した。それから、顔を上げて言った。


「謝罪は、受け取ります。ですが殿下——読み上げただけで、責任が消えるわけではございません」


「……ああ」


「今夜の告発を、殿下ご自身の言葉で、取り消してくださいませ」


王太子は頷いた。写しをユストゥスの記録卓に置き——何も持たずに、会場へ向き直った。


「エーディト・フォン・ブーフヴァルトは、無実だ」


たどたどしい声だった。


「余は、確かめもせず、この場で彼女を辱めた。婚約破棄の宣言も、フローラを妃に迎えるとの宣言も、撤回する」


一度、息を吸う音がした。


「公爵の解任と、原本照合の凍結の上奏も、同じく撤回する。——責任は、余にある」


飾りがない。三重の敬語もない。結びの型も、なっていない。


——その夜いちばん、直すところのない文章だった。


◇◇◇


沙汰は、十日で下りた。


宰相補佐ラングの罪状は、布告の改竄と証拠の捏造、虚偽告発の主導。官職を解かれ、裁きの場へ送られた。特免状で肥え太っていた義弟の商会にも、調べが入っている。


十七通の布告には、すべて訂正の布告が出た。取りすぎた関税も、順次返されるという。訂正布告の校閲は、私がした。当然である。


フローラは、実家の借金をラングに買い取られ、それを盾に「手記」を書き写させられていたのだと分かった。処分はなく、王妃陛下の庇護下に置かれた。


後日、彼女の本物の日記を、少しだけ見せてもらった。丸みの残る飾らない字で、短くて、正直だった。


『きょうは、こわかった。』


「お芝居の台本より、ずっと良い文章でございますよ」


そう伝えたら、彼女は栗色の髪を揺らして、わあわあ泣いた。以来、月に一度、お茶を飲む仲である。


殿下との婚約は、両家の合意で、白紙に戻った。


謝罪は受け取った。恨みも、もうない。……けれど、婚約を元に戻す理由も、なかった。


その殿下はといえば——日記を書き始めたそうだ。誰の原稿でもない、自分の言葉の練習だという。


週に一度、赤を求めて送ってくる。最初の日記は、たった三文だった。


『今日、初めて自分で書いた。難しい。明日も書く。』


私は初めて、赤を入れずに返した。欄外に、一言だけ添えて。


——直すところが、ありません。


そして、王命が下りた。王立文書院に「校閲室」を新設すること。従来の書式審査に加えて、日付や引用、法文の効き目まで確かめること。初代の室長は、私。


お給金も、出る。


(申し上げたでしょう。校閲は、無料ではないのです)


◇◇◇


婚約を白紙に戻してから、三か月ほど経った昼下がり。


校閲室に、無口な来客があった。


ユストゥス・フォン・ヴァールハイム。袖のインク染みは、今日もそのままだ。


彼は挨拶の代わりに、紙の束を机に置いた。見覚えのある紙片——書庫で私が草稿に挟み続けた、半年分の疑問の紙片だった。


「……保管して、いらしたのですか」


「編纂官だ。重要な文書は、保存する」


束のいちばん上に、見覚えのある走り書きがあった。『この年号、前頁と一年ずれておりませんか』。


私の、最初の疑問だった。——日付順に、揃えてある。


(重要な、文書)


胸の奥が、音を立てた気がした。動揺を、扇の代わりに咳払いで隠す。


「君の疑問には、すべて資料で答えてきた」


「ええ。半年分、確かに」


「今度は——私の問いに、答えてほしい」


彼は、一枚の原稿を差し出した。


表題に、飾り気のない字で『求婚状』とある。


「……三稿目だ」


「三稿?」


「一稿目は、事実の列挙になった。二稿目は、年表になった」


笑いをこらえて、私は原稿を読んだ。


短い文章だった。誇張がひとつもない。日付が正確で、敬称に誤りがない。引用は——いつか私が欄外に書いた言葉が、一つだけ正しく引かれていた。


そして、最終行。


『歴史に、校了はない。私はこの国の歴史を書き続ける。その原稿に——生涯、赤を入れてもらえないだろうか』


癖で、直すところを探す。


なかった。


……悔しいくらいに、なかった。


私は羽根ペンを取り、欄外に、ひとことだけ書き入れた。


——ママ。


「…………ママ?」


生真面目な眉が、初めて困惑に歪む。その顔が見たかった。


「校閲の印でございます。『原文のまま』——本来は、誤りに見える箇所を、あえて原文どおり残すときに使います」


「……本来は?」


「今回は、字義どおり。一字も、変えたくありませんので」


言ってから、声が少しだけ震えたのに気づいた。三十四年と十八年、文章ばかり直してきた私の、精いっぱいの恋文である。


「つまり——お受けします、ということです。ただし、条件が一つ。私の疑問には、これからも生涯、お答えいただくこと」


「無論だ」


彼は頷き、それから、記録に残らないほど小さく笑った。


「今のは、書き留めておきたい顔だった」


「……どの顔でございます」


「『ママ』と書いたときの」


インクの染みのついた袖が伸びて、私の手を、そっと取った。


◇◇◇


その夜、夢に、とんがり帽子の青年が出てきた。


相変わらず、ネクタイが曲がっている。


『いやあ、お見事でした。筋書き、ずいぶん直りましたねえ』


「ええ。あなたの筋書きにも、赤を入れておきましたから」


『拝見しました。良い直しです』


彼は深々と頭を下げた。次の凡人枠の配属があるとかで、もう行くらしい。神様も、地道な仕事である。


私は手を伸ばして、曲がったネクタイを直してあげた。夢の中でくらい、構わないでしょう。


(ツクヨさん。あの配属、大正解でしたよ)


◇◇◇


王国の朝は、今日も文章で始まる。


校閲室の机には、布告の草稿が山と積まれている。隣国との条約文。新しい橋の告知。それから——無口な婚約者が置いていった、年代記の最新稿。


嘘の文章には、癖が出る。正直な文章にも、癖は出る。


私はそれを、三十四年と十八年、読み続けてきた。だからもう、知っている。


言葉は、直せる。筋書きも、直せる。


(さて。今日も、この国の原稿を開きましょうか)


この国の歴史に、校了はない。


(了)

お読みいただき、ありがとうございました。


「前世の地味な専門知識で、異世界の理不尽をひっくり返す」——凡人枠シリーズ、今回は校閲者です。赤ペン一本のざまぁ、楽しんでいただけましたでしょうか。感想などをいただけると、次を書く励みになります。


▼同じ「断罪を、プロの仕事でひっくり返す」お話もどうぞ

・『悪役令嬢、断罪されたので謝罪します』(前世=百貨店クレーム対応部長)

・『悪役令嬢、断罪されたので反対尋問します』(前世=弁護士)

・『悪役令嬢、断罪されたけど問題児はいません』(前世=スクールカウンセラー)

 作者ページから、ほかの「凡人枠」シリーズもご覧いただけます。

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