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忘れられた一枚の写真が、僕に生きる意味を教えてくれた日

作者: Avelin


引き出しの奥にしまい込んでいた古い封筒が、

ふとした拍子に指先へ触れた。


紙は少し柔らかく、

長いあいだ誰にも触れられてこなかったように

しずかに沈んだ。


何の気なしに封を開けると、

一枚の写真が滑り落ちる。


床に落ちた写真を拾い上げて——

僕は、息をのんだ。


写っているのは、

笑っている若い女性と、小さな子供が二人。


女の子と、男の子。

どちらも、眩しいくらいに笑っていた。


どこかの公園だろうか。

夕方の光が、三人をやさしく包んでいる。



……誰だ?

いや、

どう見ても「幸せな家族」なのに、

僕には、その誰ひとりとして覚えがない。



写真の裏には

薄くかすれた文字で、こう書かれていた。



『愛しいあなたへ』



胸の奥で、何かが小さく揺れた。


思い出せないのに、

懐かしいような、

苦しいような……


不思議な痛みが、胸のどこかをひっかいた。


僕は四十八歳。

両親は数年前に亡くなり、今はひとり暮らし。


この家には、

僕以外の“家族の気配”なんて、ないはずだった。


なのに——

この写真だけが、僕に問いかけてくる。


「あなたは、本当にひとりだったの?」


写真を持った手が、わずかに震えた。


僕はそっと息を吐いて、

写真を胸の前で見つめ続けたまま座り込む。


なにも思い出せない。

けれど、

胸の奥の何かが、確かに動き出していた。



写真を机の上に置いたあと、

家のどこかに落ち着かないざわつきが残ったまま、

僕は外の空気を吸いたくなった。


庭を抜けて、

長いあいだ使っていない納屋の前に立つ。


引き戸は、うすく白い埃をかぶっていたが、

指で触れると、驚くほど軽く動いた。


ギィ……と低い音がして、

薄暗い空気がこぼれ出る。


なかに足を踏み入れた途端、

僕の視界に“あり得ないもの”が飛び込んできた。


小さな、赤い三輪車。


埃をまとって、

ぽつんと取り残されたように置かれている。


こんなもの、

僕の生活に関係あるはずがない。


屈み込んで、ハンドルをそっと触る。

指先に、わずかにざらついた感触。


ふと、ペダルの裏側に

油性ペンで書かれた文字が目に入った。


『みつき』


……誰だ?


僕の名前じゃない。

両親の名前でもない。


その瞬間、

納屋の屋根を叩く風の音が、どこか懐かしく聞こえた。


胸の奥が、かすかに締め付けられる。


「……なんで、こんなものが……」


独り言が自然に漏れた。


三輪車を抱え上げようとしたが、

腕が震えて持ち上げられなかった。


まるで、触れてはいけないもののように思えた。


ゆっくりと納屋をあとにし、

縁側に腰を下ろす。


春の風が吹き抜けて、

どこか遠くから子どもの笑い声が聞こえた気がした。



──いや、そんなはずはない。


ただの空耳だ。

そう思い込もうとした。



なのに、

胸の奥がざわざわして、落ち着かない。





その日の夕方、

散歩がてら買い物に出たときのことだ。


向かいの家の奥さんが、

僕の顔を見るなり、ふと目を伏せて微笑んだ。


「……大丈夫ですか?

 無理なさらないでくださいね。」


「え? あ、はい……大丈夫です。」


どう返せばいいのか分からず、

曖昧に笑ってその場を離れた。


隣のご老人にも声をかけられた。


「寂しくなったら、いつでも来なさいよ。」



寂しい?

僕が?

ただ一言一言が、

妙に“過剰”に感じられた。


まるで——

僕が何か大きなものを失ったことを

知っているかのように。



胸に、また重たい違和感が沈む。




家に戻り、

写真を見た部屋へ戻ろうとしたとき。


ふと、柱の下あたりに目が止まった。


よく見ると、

カッターの刃で削ったような跡がある。


木目が不自然に浅くなっていて、

誰かが“何かを消そうとした形”が残っていた。


指でなぞると、

うっすらと何かの線が浮かんでいる。


——背丈を測った跡。


かつて誰かの成長を記録した線だ。


その線の横に、

かすかに残った文字があった。



『みつき 4さい』


息が詰まった。



心臓が、

急に早鐘のように打ち出す。


さっき見た三輪車の名前と、同じ。


そしてその下には、

うっすらと

もうひとつ消しきれない線が残っていた。



『つむぎ 2さい』


僕は柱に手をついた。

膝が笑って立っていられない。



──僕は、本当に……ひとりだったのか?



誰かが、

僕から“家族の痕跡”を隠そうとした。


でも完全には消せなかった。


小さな線と、

小さな名前。


そのわずかな痕跡が、

僕の胸に静かに刺さる。


そして、胸の奥の“何か”が

ふたたび少しだけ動いた。



柱の前でしばらく動けずにいた僕は、

ゆっくりと深呼吸をしてから台所に向かった。


何かをしていないと、

胸の奥のざわつきが押し寄せてきそうだった。


スーパーの袋をテーブルに置き、

さっき買い物に行く前に書いたメモ用紙が

そこに置きっぱなしになっているのに気づく。


「牛乳」「卵」「砂糖」


いつも通りの、素っ気ない字。


僕は昔から、

買い物に行く前には必ず必要なものを

紙に書く癖がある。


ただ——ふと手を止めた。


……こうやって紙に書くようになったのって、

いつからなんだろう。


この癖は、

自分でも当たり前のようにやってきたつもりだった。


だが、その“当たり前”のはじまりが、

どうしても思い出せない。


メモ用紙を指でつまんで、

ゆっくりとひっくり返してみる。


裏側には、わずかに色あせたボールペンの跡。


曲がった文字。

丸っこい字。

僕の癖字とは明らかに違う書き方。


——誰かの、優しい字。


メモの端に残ったその文字は、

「たまご」「おしりふき」と

何度も書き直した跡が薄く残っている。


かすれた筆跡の奥にある

“忙しさ”と“必死さ”が、じんわり伝わってきた。


子供を抱えながら、

片手で急いで書いたような字。


胸が、またひとつ締め付けられた。


僕の頭に、

わずかに光が差し込むような感覚がよぎる。


……そうだ。

僕が買い物メモに頼るようになったのは、

あの日からだ。


誰かが、

「お願いね」と笑いながら

この紙を僕に渡していた。


僕が忘れっぽいからではなく。


——その誰かが、家のことも子供のことも全部抱えていたから。



僕はただ、

渡されたメモの通りに買い物へ行っていただけだ。


その笑顔が、誰のものだったのか。


その声が、どんなふうに僕を呼んでいたのか。


思い出せそうで、

どうしても思い出せない。


テーブルの上で、

メモ用紙が小さく揺れた。


窓から吹き込む風が、

どこか懐かしい匂いを運んでくる。


甘い匂い。

石鹸の匂い。

夕飯の下ごしらえの音。


——確かに、そこに“誰か”がいた。


僕はその気配を追うように、

ゆっくりと廊下を歩き出した。


すべての答えが、

どこかひっそりとこの家の中に

隠されている気がしてならなかった。




あの写真が置いてある部屋へ、

気づけば足が向いていた。


自分の意思というより、

胸の奥に引かれるように——

ただ、あの一枚をもう一度見なければならない気がした。


あの写真が、

僕に“何か”を教えてくれるのではないか。


そう思うだけで、

心臓がゆっくりと早くなる。


部屋へ入ると、

夕方の光が薄く差し込んでいた。


机の前まで歩き、

そっと引き出しに手を伸ばす。


金具の冷たさが指先をひやりとさせた。


引き出しを開け、

写真を手に取ろうとしたそのとき——


指先に、紙のような感触が触れた。



「……ん?」


思わず手を止め、

引き出しの奥へ視線を落とす。


薄暗がりのなか、

きれいに折り畳まれた一枚の紙が見えた。


この机は、

母が毎日家計簿をつけていた古い和机だ。


小さな電卓の音。

薄い蛍光灯の下に浮かぶ、母の手。


その姿が、一瞬だけ脳裏をよぎる。


僕は写真をそっと机の上に置き、

引き出しをもう少し手前へ引いた。


折り畳まれた紙は、

まるで大切なものを隠すように静かに置かれていた。


ゆっくりと指でつまみ、

畳の上にそっと広げる。


乾いた紙の音が、

部屋の空気を震わせた気がした。



……息が、止まった。


紙は黄ばみ、

端はふわりと丸くなっていた。


長い年月が、

しずかにその一枚へ染み込んでいる。


触れただけで崩れてしまいそうなほど脆く、

折り目のところは白くひび割れていた。


震える指でそっと開くと——


そこには、

“文字のような何か”だけがあった。


いや、文字……なのだろうか。


形を失い、

かろうじて“線”として残っているだけの痕跡。


読めるはずがない。

それでも——読まなければいけない気がした。


目を凝らす。


紙の奥に沈んでしまったその一字一字を、

必死に拾い上げるようにして追う。


その瞬間、

胸が、ぎゅっとつかまれた。


文字は細く、弱々しく、

ほとんど筆圧を感じない。


一本一本が、

命の灯が揺れるようにかすれている。



まるで——

呼吸が弱まっていく誰かが、


最後の力で

“どうしても伝えたかった言葉”を

絞り出したような字だった。


読み進めるほど、

胸が苦しくなる。


何を書こうとしたんだ?


僕は、紙を両手で支えながら、

ゆっくりと、

沈んだ文字の輪郭をたどった。


濁ったインクの滲みの奥から、

かすかな言葉が浮かび上がってくる。


その一文字一文字に、

最後の想いが宿っている気がした。


一行目にはこう書かれてあった。


『愛するあなたへ——』


胸の奥が、ぎゅっとつかまれる。


ゆっくり息を吸って、

続きを読んだ。


『この手紙をよんでくれてありがとう。


みつきも、つむぎも……

あなたの話をすると、嬉しそうに笑うの。


あなたは、ちゃんと“いいお父さん”だったんだよ。


あなたに会えて、本当に幸せだったよ。』



インクが滲んでいる。


とくに、

文の後半へ行くほど文字は崩れ、

形を失っていた。


紙は、誰かの涙を吸ったように

ところどころ波打っていた。



『先にいってしまうけれど……

こっちに来るのは、

ゆっくりでいいからね。

——待ってるからね。』



最後の文字は、

滲んで消えかけていた。


僕は思わず、

紙を胸に抱きしめていた。



こぼれた涙が、

この手紙を湿らせていく。


赤い三輪車。

柱に残った名前。

消されかけた“成長の線”。


すべてが、

この手紙へ向かっていたのだと悟った。



どうして僕は——

思い出さなかったのだろう。


どうして、

こんな大事なものを忘れてしまったのだろう。



畳に落ちた涙の音が、

やけに大きく響いた。


胸の奥に沈んでいた重さが、

ゆっくりとひび割れていく。



そしてふと思う。


愛する人が先にいった世界で、

残された僕は……

それでも生きなければいけないのだろうか。



愛というものには形がない。




忘れられた一枚の写真が——


僕に生きる意味を教えてくれた日でもあった。



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