2話 役割
日差しで熟した土と草の香り。
吹き抜ける心地のいい風。
『アレリア子爵領』。
ベレス子爵領に隣接している牧草地帯であり、放牧が盛んに行われている。
自由奔放に牛が群れ、老若男女の牧人達が粗いブラシで毛並みを整えている。
出来上がって機嫌が良さそうな牛から、木桶を下に置いて乳をしぼっている様子が窓越しに伺えた。
共栄共存のなだらかな丘陵地帯。
歳を取った牧人もいれば、若い牧人もチラホラと見える。
その中でも、特に長い金髪が目立つ女性がいた。
丁寧に櫛で梳かれた美しい金髪。
それとは対称的に、作業着と顔を牧草と土で汚している。
牧人達に混ざって牛の世話をする、高貴な身分を持った女性。
瑞々しさを感じさせる、シアン色の瞳。
彼女は、「アレリア・イレーナ」。
名前から分かるとおり、この地を治める当主の一人娘である。
おばあさんと一緒に乳搾りの作業をしている時、騎士を連れた豪華な馬車がこちらに向かってきていた。
その馬車と窓から顔を出した男に、彼女は見覚えがあった。
整えられた真紅の短髪、黄金の瞳。ギザギザとしたチャーミングな歯。
「イレーナーーー!!!」
「……ラーセル?」
◇
邸宅に招かれ、ラーセルはコーヒーを1杯いただいた。
普段飲んでいるものとは風味が違う。これはこれで美味い。
対面して座っているイレーナは、ラーセルの幼馴染である。
信頼して、何でも話すことができる数少ない友人だ。
「調子はどうだい?」
「いつも通りよ。おばあさん達の酪農業の手伝いから父さんの書類仕事の補佐。ラーセルは?」
「こっちはちょっとしたトラブルがあったというか、選ばれたというか」
「???」
だが、何でも話すことが出来るといっても限度はある。
勇者として選ばれた件に関して相談しに来たが、少し見送った方がいいかもしれない。
対面して、彼女の反応を想像したラーセルは口を噤んだ。
「そういえば、聞いた?新しい勇者が見つかったんですって!」
噤んだ口からコーヒーが噴き出た。
「ちょ、どうしたの!?」
「ゴホッ!ゴホッ!あぁいや、何でもないさ」
「そ、そう?」
どことなく気まずい気持ちで零したコーヒーを拭く。
「良かったら記念に見に行かない?」
「あぁ……うーん、まぁ建国祭は一緒に行きたいよね」
「勇者は?」
「えー、ははは……まぁまぁ」
イレーナから目を逸らし、指を三度鳴らした。
左手の小指と薬指を畳みながら、親指と人差し指、中指を外に弾く形の、奇妙な鳴らし方である。
この流れで自分が勇者ですと言ってしまおうか。
半ば呆然としながらここへ来ただけに、どうすれば良いものかと彼はより慎重になった。
「あ、そうだ!」
「?」
「せっかく来たんだし、手伝ってみない?」
「手伝い?」
手伝い……というと、馬車の窓から覗いた景色のことだろう。
少し、ラーセルは悩んだ。だが悩むだけ無駄だろう。
彼女の頼みを断れたことは、子供のころから一度だってない。
つまり決定事項なのだ。
昔からイレーナは活発で行動力が高く、ラーセルとは正反対の性格。
未知のものに平気で突っ込んでいく彼女に、彼はずっと心惹かれている。
いつか告白しようと計画を練り、告白よりも前に勇者となった。
(……待てよ。いつ告白できるんだ?)
ラーセルは大きく目を見開いた。
勇者として魔王を倒しに行くまでの期間を、全く考えていなかったのだ。
他にも計画していることは多くある。
それらを実行できるだけの時間があるかどうか。
建国祭の最終日に勇者として世間へ公表される。
そしてそのまま旅立ちという流れ。
期間は……2週間しかない。
「い、イレーナ!!」
「?」
「そ、その………………い、行こう!手伝うよ!!」
「……?え、えぇ」
勢い余ってこの場で彼女に告白しそうになったラーセルは、ギリギリのところで踏み留まった。
やや不審者じみた行動が目立つ今日この頃。ご機嫌はいかがでしょうか。
気晴らしにもなると思い、ラーセルは手を引かれるがままに着いていく。
貴族の豪華絢爛な服から着替え、牧草と土の匂いが染みついた作業服に着替える。
庶民の生活を体験するのが初めてだったもので、ラーセルは少し舞い上がった。
「じゃあ、好きな牛を選んで」
「えーと……あぁ、あの星みたいな模様の牛がいいな」
サクサクと心地の良い草を歩き、星模様の牛をブラッシングする。
汚れを落とすことで、牛の病気を予防する。コミュニケーションにもなるので一石二鳥だ。
(お?意外と力強く磨かないと……)
掃除など、生まれてからほとんどしたことが無い。
非力な彼には、その作業すらも重労働。
両手を使って、力いっぱいブラシを擦る。
単調な作業だが、皮脂の汚れを落とすには何度も上下を往復しないといけない。
顔から尻尾の先端まで。
磨き終える頃には、彼の腕はパンパンになっていた。
「もう疲れたの?」
「モー……疲れたね…………」
別の牛を鼻歌交じりに磨くイレーナは慣れていることもあって容易い様子。
既に2匹目へと着手している。
その後も乳絞りから牧草運び、飼料を入れるなどの体験を行った。
終わるころには、ラーセルは満身創痍。ボロボロだ。
「一つ、聞いてもいいかな?」
「なに?」
「どうしてこんな大変な作業を手伝うんだい?貴族らしくないというか……」
「?現地の仕事を知らないのに偉そうにできるわけないじゃない」
貴族とは普通、偉そうにしているものだ。
”仕事を知らないのに偉そうにできるわけない”。
さも当然のようにハッキリとそう言い放った彼女の態度には、一切の嘘偽りが無かった。
「みんな、自分たちの役割をこなしながら生きてるの。私は、ここの人達がどういう仕事で暮らしてるかを知りたいのよ」
「……それだけ?」
「それだけ!」
凝り固まった典型的な貴族では決して考え付かない柔軟な思考。
朝焼けよりも眩しい笑顔。もう数えきれないほど彼は見惚れてきた。
彼女の在り方には、学べることが多すぎる。
(役割……役割、か……)
勇者ですと報告出来なかったものの、思わぬ収穫を得たラーセル。
黄金の夕焼けが世界に差し込む中、ここに彼の決意は固まった。