偉大なる雀聖に勝利を③
薄曇りの午後、ぼんやりとした陽光が研究室に差し込み、麻雀卓の上を鈍く照らしていた。窓辺の椅子に深く腰掛けたレティシアは、整然と整理された卓を前に牌をいじる婚約者――ユリシーズの様子を何とはなしに眺めている。
先ほどから会話は少なく、張り詰めた糸のような緊張感が漂っているのを感じている。
「そろそろエドワード卿がいらっしゃる時間だ」
いつもとは違う硬い口調で、ユリシーズは言った。
――同じ派閥とは言え、爵位の格が違う。
地方貴族で侯爵家、これは異例中の異例だった。侯爵とは、本来ならば中央政権にあって王族の信頼を受け、国家の骨組みを支える家柄というもの。過去の政変で中央の勢力は後退したらしいが、それでもなお、バロウズ家は凋落とは無縁だった。
――いずれにせよ、ユリシーズにとって、バロウズ家嫡男の来訪というのは、大きなチャンスであると同時に、破滅の危機でもある。
ここで、エドワード・バロウズの歓心を買うことは、そのまま研究室の名声を高めることに繋がる。
逆に、不興を買うということは、言わずもがな。
その構図を正確に理解しているレティシアもまた、緊張していた。彼女にとっても、仮面を外した、一人の令嬢として遊戯の場に立つのは初めてなのだから。
――つまり、これは、家を継ぐにあたってわたくしが求める名声の、本当の意味での最初の一歩となるというもの。
二人は目的こそ異なるが、完全に利害が一致していた。
なんとしても、この訪問を成功に終わらせる。
その意志は、口にすることはなくとも、通じ合っていた。
時間を気にするユリシーズは、緊張のためか動きが硬い。その様子を見て、レティシアは少しおどけて話しかけた。二人とも緊張はしているが、こうしたことは彼女の方が慣れている。
「そろそろ、でございますね。では、お茶の用意はこちらで――」と、言いかけて、わざと言葉を切った。
「…いえ、ユリシーズ。やはり、貴方のところに、お任せしますわ。その、流派の違いがありますもの」
「え? あ、うん。そうだね、中央流とは、少し違うから…」
「少し、ですって?」
僅かに目を細め、あきれたような視線を向けるレティシア。
「……もう慣れましたわよ。ええ」
彼女のその声には、微かな苦笑が混じっていた。
「えっ? …そんなに…?」
ユリシーズが驚いたように聞き返すと、レティシアはゆっくりと立ち上がり、手袋を整えながら静かに言った。
「ええ、そんなに、ですわ。色々と衝撃を受けましたのよ? ……まあ、この半年間、良い経験でしたわ」
「…それは、なんかごめん」
ユリシーズは恐縮したように頭を掻いた。
「構いませんわ。文化というのは、そういうものですもの。…ええ、たとえ、シチューと煮込みが一皿にまとまっていようとも」
遠くを見つめるレティシア。
「…うっ。はい、もう同じ皿にしないことを、ここに誓います」
ユリシーズの宣誓を聞き、レティシアはようやくにっこりを微笑んだ。
「それはもういいですから…準備をお願いしますわ。失礼のないように、お願いいたしますわよ」
その言葉を聞き、ユリシーズは侍従に向き合って、話し合いを始めた。
研究室の扉の外では、運命の足音が近づいてきていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ゆっくりと、そして明瞭な響きをもって、ドアがノックされる。
戦略遊戯研究室の扉が、重々しくも丁寧に開かれた。
現れたのは、飄々とした笑みを湛え、その瞳に野心的な光を宿す青年の紳士――エドワード卿。その後ろには、眼光鋭く静かな観察の色を浮かべた記録官、セオドリックが控えている。
「久しいな、ユリシーズ殿。あの夜会以来か?」
その声には、名門らしい風格と、適度な親しみが混ざっていた。
「エドワード卿、お久しゅう御座います。この度は、私の研究室にご足労頂き、誠に光栄です」
ユリシーズは椅子から立ち上がり、深く礼を取った。
エドワードは部屋を一瞥し、薄く笑った。
「はは、なかなか居心地の良さそうな場所ではないか。壁の棚も整理が行き届いている。この男は、我が随行のセオドリックだ」
「セオドリック・レインズと申します。以後、お見知り置きを――」
青年は丁寧に頭を下げた後、ユリシーズを捉えた。その眼差しは、何かを測るように細められる。
「ユリシーズ・グレイバーンです。今日はよろしく頼みます」
「ユリシーズ様。戦略遊戯研究室の運営を務める若き伯爵家の三男、性格は温厚かつ実直。まさに地元の誇りともいうべき御方」
「…あの……?」
淡々と口上を述べるセオドリックに、怪訝な表情を浮かべるユリシーズ。
エドワードが軽く手を振って苦笑しながら伝える。
「気にせんでくれ。彼は記録官としての役割もあるのだ。観察し、記録するのが仕事でな。妙なことはせん」
そして、レティシアに気付いたエドワードは、苦笑を収めてからユリシーズに尋ねる。
「さて、そちらの御令嬢が――君の婚約者殿かな?」
「はい。レティシアです」
ユリシーズの紹介の声に合わせて、レティシアはひとつ優雅に礼を取った。
「レティシア・ヴェルブランシェです。お目にかかれて光栄ですわ、エドワード卿」
一瞬交差する二人の視線。それは、中央と地方。立場の違う貴族同士の互いの距離を測るものだった。
緊張が、走る。
そして、エドワードは一段と朗らかに、大きな声で言い放った。
「おお、私の方こそ光栄だ。目が醒めるような、美しい紅い髪をお持ちだな」
その賛辞に、レティシアはほんの一瞬、まばたきをしただけで表情を崩さなかった。言うまでもなく、女性の身体的特徴を口にするのは、社交界でもマナー違反とされる。ユリシーズが僅かに息をつめたのに気づいたセオドリックが、すかさず口を挟んだ。
「エドワード様? 少々過ぎませんか?」
「すまんな。地方の男は率直すぎると、中央の者にはよく言われる。我らにとっては、賛辞の言葉だがな」
冗談だと、わずかばかりの皮肉を込めて笑うエドワードに、レティシアは微笑みを返した。完璧で、しかし仄かに計算された上流階級の笑みだった。
「さて、ヴェルブランシェ嬢。君は麻雀を嗜むということだな。せっかくのサロンだ、今日は一緒に楽しみたまえ」
「ありがとうございます。雀聖と名高いエドワード卿の腕前、拝見できるのを楽しみにしております」
エドワードの声には、戦略家らしい冷静な自信が満ちていた。
レティシアは真剣なまなざしを向けた。
「では、私も加えて四人で。一手、御指南を賜りますように。エドワード卿」
セオドリックが丁寧に言葉を添えると、エドワードは大仰に顎を引いた。
「フフ…諸君に、麻雀という遊戯に宿る美学と知略の真髄というものを、たっぷりとご覧に入れよう」