半年前の事の起こり
半年前、冬の終わり。
レティシア・ヴェルブランシェは、父の執務室に呼ばれていた。
重々しい書棚と、煤けたガラス窓から差し込む弱々しい光の中で、父は机越しにこう言った。
「レティシアよ。お前の婚約者が決まった。相手は、グレイバーン家の三男だ」
学院の入学まで半年を切ったこの時期。その門をくぐる前に身辺を整えるのは、貴族の娘としての通過儀礼となる。
だが、父の口からは言祝ぎが紡がれことはなく、ただ事実のみが淡々と告げられた。ともすれば、「失点」を重ねた子女の「後処理」のような温度感。
しかし、レティシアは実直に、努力も社交も積み重ねてきた。
家に迷惑をかけたことなど、ないと思っている。
であれば、この扱いは何故なのかと言えば……それは家の方に問題があるのだ。
小さく息を吸い込み、呼吸を止める。そして、この数年、彼女にも見えてきた“現実”の記憶を辿る。
家は鉱山の利権を失い、兄は戦果どころか隣国の捕虜となった。代わりに何かを得たわけでもない。静かに、しかし確実に、我が家は下り坂を辿っている。
この縁談も、その一環に過ぎないのだろう。
――中央貴族の名門として、幾度となく誇り高く語っていた「血統」や「格」はどこへ行ったのか。
相手方、グレイバーン家はエストリア王国では地方貴族と言われる一族だった。況して、自分は長女。相手は三男だと言う。
それほどまでに、事態は切迫していたのか、と思うと同時に。
だったら、誕生日のプレゼントに輸入物の陶器などねだらなければよかった、と現実逃避気味に考えた。
「お前も承知のとおり、王国は今、揺れている」
──揺れているのは、王国だけではない。少なくとも、自分の人生設計は、今、とても揺れている。
「中央貴族の看板のみに拘っていては、いずれ足元を掬われるだろう。それに、相手は穏やかな性格の者だと聞いている。お前とも、うまくやれるだろう」
レティシアは眉を動かさず、ゆっくりと一礼するように頷いた。
“お前には、穏やかで扱いやすい伴侶がふさわしい”――
そんな言葉の裏を読み取ってしまうのは、彼女の悪い癖かもしれない。
いずれにせよ、抗おうとは思わなかった。当主の決定である以上は、これは命令であるのだから。
ただ、一つだけ聞かねばならないことがある。レティシアは、そっとうかがうように尋ねた。
「お父様。お相手は三男でいらっしゃるとのこと。……わたくしは、あちらへ嫁ぐのでしょうか?」
父の返答は、わずかの逡巡もなく、明瞭だった。
「お前が継ぐのだ」
「……はい?」
「…お前が、継ぐのだ」
――二回言った!?
眉一つ動かさぬ淑女の仮面が崩れ始める。思ってもみなかった後継の話に、支離滅裂な思いが脳裏を駆け巡った。
女主人というのは珍しい、それこそ読み物の中の住人ではないのか。
あんなのは読み物だから面白くて、自分がそうなれと言われても意味がわからない。
ほとんど無意識に、逃げ道を探って…
「あの、お父様…? アモリお兄様のことは…そ、その…」
言葉が尻すぼみになる。それは、提案でもなんでもない、願望そのものだった。
「最善は尽くしている。だが、情勢は不透明だ。判断を誤れば、家そのものが沈む。だが…」
当主として社交にも長ける父は、娘の動揺を前にしても動じることはなかった。同時に、不安に慄くその心情にも察したものか、すこし口調を和らげ、続ける。
「レティシアよ、この決定は決して家だけのことではない。この選択が、お前にとって幸福なものであることを願ってのことだ。そして、この家の未来は、お前の手に託されるべきだと、私は考えている」
それは命令ではなく、願いのようだった。言葉の途切れた静けさの中で、レティシアは承諾を口にし、その場を去った。
動悸は収まらないが、他に選択肢がなかったし、何よりもまだ先の話。実感が湧かなかったというのが、その時の彼女の偽らざる本音だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
レティシア・ヴェルブランシェ。
エストリア王国に名を連ねる由緒ある中央貴族の令嬢。
その王国は今、長きにわたるヴァルディア公国との戦で疲弊していた。中央貴族は、その義務を果たすべく外征に多額の資金を投じ、国力は徐々に蝕まれている。一方、地方貴族はその混乱に乗ずるように力をつけ始め、国内には内乱の兆しさえある。
とはいえ、国内動乱の火種は、まだ僅かに遠く。学院に集う若者たちは、今日も舞踏に遊戯にと、日々を謳歌している。
父の呼び出しから数か月が経過し、レティシアもまた、その一人となった――
新たな学院生活に期待を胸に膨らませ、多くの新入生が正門をくぐる。
彼女はただの令嬢ではない。父の言葉を受け、悩み、決意し、己の幸福を求めて自ら歩むことを選択した。
今、その歩調は乱れることなく前に進んでいた。それが、彼女の物語の大きな分岐点の始まりだった。