婚約者と精霊と仮面
翌朝のセント・ロクサンヌ学院は、昨夜の喧噪が嘘のように静かだった。朝の光が斜めに照らす石造りの回廊では、どこかで鳩が小さく囀っていた。
レティシア・ヴェルブランシェは、その光の中を静かに歩いていた。手には革装丁のノート、胸元には香りの残るラベンダーのサシェ。少しの気だるさを覆い隠して歩を進める、そんな彼女が蔦の絡むアーチをくぐった時だった。
「おはよう、レティシア嬢。今日も…素敵だね」
いつもと同じ調子の声が、背後からかけられる。彼女が振り返った視線の先にいたのは、穏やかな眼差しを湛えた、癖っ毛なブロンドの青年…ユリシーズ・グレイバーン。
「おはようございます、ユリシーズ」
彼女はにこりともせず答えた。淡々としているが、それが彼女にとっての礼儀の形だった。
婚約者。政略の産物に過ぎない関係。しかし、彼は柔らかな物腰で、人を圧さない。レティシアの築いた壁を、たやすく越えることもない。
ただ、一つだけ問題があった。
「昨日の、仮面の令嬢のことなんだけど…とても鮮やかな手並みだったね」
――いたのか、あの場に…
レティシアはぴたりと足を止める。
「朝から声が大きいですわ、ユリシーズ」
二人で並んで歩きだす。視線は正面のまま、静かながらもぴしりとした声音で制する。
「仮面の令嬢など、夢でも見ていらしたのではなくて?」
だが、彼は臆した様子もなく、少しだけ肩をすくめた。
「夢か…それはいい夢をみられて幸運だったよ」
そう笑うユリシーズに、毒気を抜かれたような表情でため息をついて続けた。
「はあ…、それで何か御用ですか? 本日の講義は別々のはずですが」
「勿論、御用さ。仮面の令嬢の影響もあって、最近サロンでも麻雀の話題が増えてきたんだ。知ってるかい?」
ユリシーズは、自分のことでもないのに得意げに「昨日だって、あの後にギョテル様が噂の真偽を聞きまわっていて、私は誤魔化すのが大変だったんだ」と語った。
「ええ。ええ、もちろん」
レティシアは一つ頷いたあと、少しだけ口元を緩める。
「その令嬢とやらも、きっとそのために日夜、苦労して話題作りに奔走しているのではなくて?」
どことなく試すような視線を受けたユリシーズは、早々に白旗をあげ「その点は本当に頭が下がる思いだよ」と真摯に頭を下げた。
「そこで、麻雀の話さ。ここまで噂が広がってきたとなれば、私が開いた“研究室”にも、人を呼び込む好機になると思ってね」
「ああ、あの…貴方の御実家のグレイバーン家が、設備だけは整えたという、例のサロンですか」
レティシアは少しばかり意味深な声で言い添える。
「貴方、そんなに麻雀はお好きでいらしたかしら?」と。
「うーん。好きというより、お役目かな」
そう言って、彼は穏やかに笑った。
「我が家は交易に力を入れているからね。せっかく仕入れた新しい遊戯。流行らせるのが、私の家でのお役目さ」
レティシアはわざとらしいほど感心した声を出してみた。
「まあ、それは大変勤勉でよろしいことですわね」
そして彼女は、ようやく歩みを止めて相手に真正面から向き直る。
「それで? わたくしにどんなご用事ですの?」
彼は少しだけ背筋を伸ばし、言った。
「うん。本格的に人を集める前に、私も麻雀を学びたいと思う。一手、ご教示願えないかな?」
しばらくの沈黙ののち、レティシアはふうっとため息をついた。
「わたくし、こう見えても忙しいのですけれど…」
言いながらも、口元には微かな余裕が漂っている。
「ですが、貴方の研究室が大きくなれば、こそこそ活動する必要もなくなりますし……よろしいですわ。参りましょう。ただし、講義が終わった後でしてよ」
そう言いながら、彼女は再び歩き出した。
その背中を見送りながら、ユリシーズは小さく呟いた。
「私も頑張らないとね」
姿の見えない鳩の囀りは消え去り、午前の講義に向かう者達のざわめきに変わっていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
午後の鐘が鳴る頃、レティシアとユリシーズは、それぞれの課程を終えて再び合流した。午前中の講義の余韻を背に、二人は、それぞれの侍従を従えて学院の別棟へと歩を進める。
ユリシーズの開いた研究室、戦略遊戯研究室。
その室内は、石造りを基本にしながらも、随所に温かな木材が貼られているためか、古い木の香りが鼻腔をくすぐる。棚には乾燥させたハーブやナッツが詰められた瓶が並び、その脇に、手製の得点表と木箱――中には整然と並んだ麻雀牌が収められていた。
その様子を見て、レティシアは首を傾げる。
「随分と本格的な内装ですこと。学院から場所を借り受けるのもお高いでしょうに」
「学院と交渉して、月単位で契約したんだ。普通は一夜限りの夜会用なんだろうけど、まあ、父さんの名義を使ってね」
「豪奢な道楽ですこと。麻雀のためだけの施設なんて、グレイバーン家ってそんなに愉快なお家柄でしたかしら?」
軽い皮肉に応じたのはユリシーズではなく、奇妙な声だった。
「麻雀? 今、麻雀って言ったかの?」
空間の隙間から、ふわりと光が舞い降りる。現れたのは、小さな存在――黄色い羽毛に包まれて、孔雀のような尾羽を生やした鳥のようなモノ。それが羽ばたくことなく、浮かんでいた。
「あら、牌仙。お目覚めですの?」
「なんだか対局の香りがするの」
「さすがは麻雀の精霊、と言ったところでしょうか」
麻雀の精霊――牌仙。
こんな不可思議な存在は、他に見たことがない。
彼女が初めて出会ったとき、自分の姿はレティシア以外には見えないと、牌仙は言った。声もまた、同様に。それ以来、対局の香りを嗅ぎつけては、レティシアの前に姿を現し、いつの間にかパートナーとも言える関係になっていた。
今も牌仙はユリシーズに興味津々で、顔を覗きこんだり、頭の上に乗ったりして遊んでいるが、彼がそれに気づく様子はない。
「ん-、頼りなさそうな顔しとるの、レティシア嬢」
この鳥は大抵、相手が聞こえないのをいい事に、呑気に言いたい放題なところがある。
時には、助言をくれたりもするが…
「アッ、よく見たらこやつ、ボタン一個ずれとるの!セコいのぉ、ベルトギリギリのところとは。こりゃ気づかんの? レティシア嬢」
こういう爆弾を落とすことも多い。
聴講者はレティシアただ一人。それが、たまに試練となって、レティシアを襲うこともあった。
ほれほれと羽を指すのを無視しながら、
(朝、並んで歩いたのは失敗だったかしら)
レティシアはそう思った。
しかし、牌仙は容赦なく続ける。
「んっんー? 耳毛が一本長いのがあるの!」
そんな情報いらなかったわよ!…そろそろ受け入れ難くなってきた真実に、レティシアは今日の目的を牌仙に伝える。
「牌仙、聞いて下さいまし。今日はこのユリシーズに『麻雀の基本』を教えますの。どこから伝えればよいかしら?」
「そうじゃったんかの。それなら、まずは牌の並べ方かの。麻雀では『数字続き』や『同じ札』という三枚一組を作って、勝利を目指すとええの!」
「分かりました、そう伝えますわ」
レティシアが振り返ると、ユリシーズは真剣な顔で彼女の言葉を待っていた。
ベルトの辺りが気になるが、視線を向けるわけにはいかない。
レティシアは微笑みを浮かべた。
「牌を三枚一組で並べるのです。例えば……お茶会を準備すると考えれば良いかしら。ティーカップが三つ、ソーサーも三つ、スプーンも三つ。そして、菓子盆だけは二つ。そうして、全てを整えるのが、まず第一歩ですの」
「なるほど、そうか。私としては菓子盆も三つ欲しいところだけれど……まあ、『牌を揃える』のも、『招待客をもてなす』のも、段取りが肝心……ってことか。ふふ、君らしい例えだね」
「着替えの段取りも肝心じゃの!」
気にしないように意識していたところに、再び直球が刺さる。無論、彼にはこのやかましい鳥の声も姿も届いてはいない。
「え、ええ。では、実際に牌に触れてみましょう。百聞は一見にしかず、ですわ」
「分かった、ありがとう」
二人は卓を囲み、初めての牌にそっと手を伸ばす。
ユリシーズが緊張の面持ちを隠さず、慎重に牌を一枚引いては、いかにも悩んでいる風に指先を牌の上で浮かせる。レティシアはそれをじっと見守っていた。彼の指がようやく一つの牌を掴み、静かに卓の上に置いた。
「……ええと、これを捨ててみようかな」
「……」
レティシアは微かに目を細めた。が、口には出さない。初心者らしく、安全な道を選んだ――その判断を、彼女は黙って肯定した。
「レティシア嬢よ、このウリシーズじゃったかの? 今の打牌、初心者にしては悪くないの!」
ユリシーズの手元を覗きこんで、牌仙が告げる。
牌仙は不正を嫌う。この鳥は、レティシア以外の手元も覗き込むが、その中身を告げることはない。ただ、レティシアの成長に繋がるアドバイスは喜んでする。気紛れな中にも己のルールを敷いているのは、ここ数か月の付き合いで分かっている。
一枚引いて、一枚捨てる。
この淡々としたやり取りを続けて、しばらく――牌の音が、カツンと響く。
「テンパイですわ。あと一枚で型が完成いたします」
レティシアがぱちんと手を打った。
「ユリシーズ、ご覧になって。あと一枚でアガリ、これがテンパイです。何が待ち牌か、わかりますか?」
ユリシーズが席を立ち、レティシアの傍で、その手元を覗きこむ。
「ええと…」
今、彼は教わったばかりの三枚一組の組み合わせを、頭の中で組み立てている。ルールは単純でも、存外、複雑なのだ。しかし、それがこの遊戯の面白いところでもある。
顎に手をかけて、真剣な面持ちで組み合わせを数えるユリシーズの横顔。
ふと、牌仙の一言がよみがえる。
――んっんー? 耳毛が一本長いのがあるの!
つい、視線が流れそうになる。
一体どこに…?
もしかして、反対側の方なのか?
いや、そうじゃなくて!
レティシアは、はやくこの時間が終わればいいのに、と思った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
それから、しばらく練習は続いた。
ユリシーズは、一枚引いては興味深げに「ここは何を残したらいいんだろう」とか「あ! さっき捨てたばかりなのに…」と、時の運の為す悪戯に一喜一憂した。
何度か繰り返した後、一息ついたティータイムで、彼は満足そうに告げた。
「ありがとう、段々と分かってきたよ」
「それはよう御座いましたね」
ティーカップを片手に、対局の様子を順を追って思い出しながら反省会をする。「感想戦と言っての、上達の秘訣じゃの!」と、以前、牌仙が教えてくれた。
「貴方、随分お悩みになっていた時のこと、覚えていまして?」
「勿論だよ、確か…こんな形だったと思う」
カチャカチャと牌を並べるユリシーズに、「惜しいの、そこは三萬じゃったの」と告げる牌仙。完璧でなくてもいい、今、必要なのはそこではない。
「…ここで悩んでおりましたのね。あの時はまだ前半の局面でしたから。多少、冒険しても、この方が手広く待ち受けが可能かと思いますわ」
そう言って、レティシアは、違う牌を指さした。
「そうか……やはり君はすごいな」
「ふふ…麻雀というものは運に左右されますの。でも…最初に配られた牌から、どんな道を辿り頂きに至るのか。そこは人知の及ぶところでしてよ?」
「さすが、不敗なんて異名を持つ君の言うことは違うね……まったく、神のご加護でも受けているのかい?」
「さて。神のご加護などと申すのは不遜の極みとも言うものですが……」
感想戦にも飽きた牌仙が、後ろを向いて菓子盆に乗せられたりんごのタルトの真似をしている。その孔雀のような尾羽を眺め。
「そうですわねぇ。差し詰め、『孔雀の加護』、かしらね」
「……孔雀?」
きょとんとするユリシーズに、レティシアは悪戯っぽく笑い、「なんでもありませんわ」と伝えながら帰り支度を始めた。