プロローグ ーLa Dame Inébranlable-
よろしくお願いします。
セント・ロクサンヌ学院――王国の多くの貴族家が通うその学院の夜は、静かに、しかし華やかに更けていく。回廊に規則正しく並んだ燭台の揺らめく炎が、壁の紋章や天井を淡く照らし出していた。
その灯の先にある部屋こそ、今宵の会場であった。
若い貴族達は蜂蜜酒を手に、世間の噂や宮廷の裏話に興じながら遊戯卓――カードの卓、サイコロの卓、そして近年交易により取り入れられた、麻雀の卓を囲む。それは、この学院における何の変哲もない夜会の一風景であった。
だが、その夜だけは違っていた。
「おや……?」
ギョテルが視線を巡らせた先、麻雀の牌が整然と置かれた角テーブルの周囲に妙なざわめきが立ち上がっていた。その中心にいたのは、場にそぐわぬ存在――顔の半分を仮面で覆い、貴婦人の礼装に身を包んだ一人の令嬢だった。
「ご婦人が勝負事とは、ずいぶんと風変わりな趣向ですな」
ギョテルの隣で杯を傾けるやや小太りの男――カスバートが呟いた。爵位こそ低いが、自らの弁舌と度胸を頼りに社交界を渡り歩く、顔が広い青年貴族である。手にしたグラスを揺らしながら、その仮面の令嬢を値踏みするように見た。
「ああ、カスバート卿はかのご婦人を知らないようだな?」
ギョテルは、揶揄うような笑みを浮かべながら、卓の向こうを顎でしゃくった。
「近頃、そこらの夜会に顔を出しては戯れの卓に加わる令嬢よ。聞くところによると、誰も負けたところを見た者はおらんとか」
「誰も?…それはまた、随分と騎士道精神に溢れた紳士方がお揃いのようですな」
二人の男の間に交わされるのは、迂遠な言葉の応酬と探り合いだった。体格の良いカスバートは銀灰色の衣を纏い、ギョテルは紅の地に金刺繍の上着を着込んでいる。どちらも首元にあしらわれたレースのネクタイが、品格よりも自己主張を競っているかのようだった。
「クク…そう思うなら、卿よ。一局、手合わせを申し込んでは如何かな?」
ギョテルの目は笑っていない。
「世の貴族と卿、どちらが騎士道精神に溢れているか、確認してやろう」
「貴様のその言い草…その底意地の悪さこそ、騎士道を鑑みるべきだな」
「おお、これは失敬。では一つ。世の貴族の不甲斐なさを知らしめんとする卿の矜持…見せていただこうか?」
カスバートは小さくため息をついた。
「仕方あるまい。あまり気乗りはせぬが…そうまで言うならばな」
皮肉を帯びた微笑みを残して立ち上がるカスバートの視線の先にいるのは、仮面の付けた一人の令嬢。
艶やかな紅い髪、黒地に紫の細やかな装飾の施された礼装、そして、白い羽飾りのついた漆黒の仮面。その佇まいは、どこか幻想めいていた。見る者によっては、闇に咲く夜の花のようにも、或いは、獲物を静かに待つ猛禽のようにも見える。
カスバートが一礼し、言葉を投げかける。
「良い夜ですな、レディ。よろしければ、一局、お相手願えますか」
令嬢は答えなかった。
ただ、彼女に見据えられた瞬間、すでに勝負は始まっていた。静かに一枚の牌を卓上に滑らせる令嬢。勝負は静かに始まり、そして終わった。
「…<ロン>。これで終わりですわね。では、ごめんあそばせ」
その間、彼女が発したのはこの一言のみ。そして、その一言がすべてだった。卓の上にはすでに、彼女の揃えた十三の牌が並んでいた。
対局開始より、ずっと沈黙していたその令嬢に、カスバートは油断していた。
――やれやれ、これで称賛の的か。所詮、噂などこの程度よ、と。
後は、自らが華麗に勝利し、賛美を受けるだけ。この不要牌を切った後は全員が萎縮するだろう。勝利は目の前のはずだったのに。
「ば、馬鹿なっ……!」
カスバートの顔が紅潮する。どこで読み違えた。どこで嵌められた。思い当たる節が、ひとつもなかった。
「クク…あっさり帰ってしまわれましたな」
ギョテルは興味深そうに去っていく令嬢の後ろ姿を見送り、そしてカスバートに話しかける。
「噂はまことであったか。かの令嬢、こう呼ばれておるとか。不敗の令嬢――La Dame Inébranlable、と」
「不敗の…令嬢…!? 一体、どこの家の者なのだ! 」
その喧噪とは裏腹に、誰もいなくなった卓では並んだ牌だけが微かに鳴った。
それは、彼女の退場を告げる小さな鐘の音のようでもあった。