6 『モス』
学校に行きたくなかった。その日だけでなくもうずっと行きたくなかった。でもその日の朝いつも通りの時間に起き、支度をして、家を出たのは、自分がしたことの結果を確認したいという思いがあったからだ。すべて自分の妄想だったならどれだけよかっただろう。そうしたら頭に浮かんでくる数々の言い訳と向き合わずに済む。亀をいたぶっていた彼女が悪い。私は亀を助けただけ。みんなをいじめていた彼女が悪い。私はみんなの分をやり返しただけ。みんなきっと私の味方をしてくれる、はず。とにかく学校に行って様子を伺おう──。
教室についた。クラスにはまだ不穏な空気はなかった。塚田さんはまだいなかった。安堵の息を吐く。今日、私は彼女に殴られるかもしれない。いや殺されてもおかしくないだろう、と覚悟を決めていると、どんどんみんながやってきた。しかし塚田さんはまだ来ない。彼女の席だけが空白だった。そして先生が入ってきて、言った。昨日から塚田さんが家に帰っていないと。何か知っている人はいないかと。
空気が張りつめたのがわかった。家出? 誘拐? といった単語が飛び交う。小さな町だ、そんなセンセーショナルなニュースなんてこれまでまったくなかった。それはテレビのなかの出来事で、自分たちとは関係のないことだと、きっとみんな思っていた。でも何の前触れもなく今日やってきた。クラスメイトが、消えた。昨夜、警察に捜索願が出されたという。何かわかったらすぐ大人に教えてほしい、と先生は言い、朝の会を終えて、授業に取り掛かった。だが当然ながら授業を聞いている人はほとんどいなかった。みんな顔を寄せ合って、自分の予想を、いや妄想を話していた。先生はそれに何も言わなかった。
そのなかで一番平静じゃなかったのは、きっと私だろう。家に帰っていない? どういうことだ? 彼女はあの後、池から上がり、私への憎悪をたぎらせながら家に帰ったんじゃないのか? 私は彼女からの仕返しを覚悟していた。その予想が、まるきり外れた。じゃあ彼女は今どこに? もしかしてまだ三日月池に? それはつまり、死──と思考が回転していき、最後に聞いた彼女の声と重なった。もし彼女があのまま上がれず、池に沈んでしまったのだとしたら……。一刻も早くあそこに行きたくてしょうがなかった。彼女の姿を見るまで、この体の震えは収まらないだろう。
下校中、様々な大人とすれ違った。すれ違うとき、普段遊んでいる場所はどこでしょう、とかそんな話が聞こえた。まだ三日月公園は捜索されていないのだろうか。三日月池は奥の部分は入口から見えないとはいえ、所詮は公園の池だ。広場から覗きこめばすぐわかる。水死体なんて見たことないのに、リアルにその姿を思い描いてしまった。私は道を変えて三日月公園に寄った。一応、周りに誰かいないか確認してから入った。岩の上にまだ水鳥がいた。昨日からずっとそこにいたのだろうか。いや、さすがにそれはないだろう。鳥にだって帰る場所があるはずだ。でも、どこに? 私は鳥がどこに帰るのかを知らない。彼らにとってどこが帰る場所なのだろう?
果たして塚田さんは──いなかった。柵を乗り越え、池の縁まで来ても彼女の姿はなかった。水面にも浮いていなかった。私はそのとき絶望したのか、安堵したのか。しかし私は岩に赤黒い染みがあるのを見てしまった。塚田さんが亀を叩きつけた箇所だ。だから昨日のことは確かに現実に起きたことだったのだ。池を覗きこむ。亀がいた。しかし傷はなかった。ゆっくりと、揺蕩っていた。この亀も、昨日の亀とは違うのだろう。じゃあ昨日の亀はどこに? と見回すが、それも見つけられなかった。池は濃い緑色をしていて、その底までは見えない。アメンボや小さな虫が動いている。水のなかにもきっと色んな生き物がいるのだろう。ここは人間の世界というより、自然の世界だった。ふと、彼女は池の底に沈んでしまったのではないかと思った。
もちろん今ならそんなことはありえないと断言出来る。人間は死ぬと内臓が腐り、ガスをいっぱい出し、死体を浮かび上がらせる。その浮力はかなりのもので、コンクリート詰めにでもしないと水の底に人間が沈むのは難しい。でもそのときの私には、彼女はこの底なしの水に沈んでしまったのだ、と思えた。そこに飛びこんで彼女の手を掴むのは、もう無理だった。私は公園から出ると家に帰った。そして手を洗い、支度をすると、今度は塾へ行くため自転車を走らせた。私はその後、休み時間に島崎くんと塚田さんがいなくなったことについて話した。彼は何と言ったのだろう。そして私は何と言ったのだろう。そこだけは、よく覚えていない。