5 『三日月サンセット』
覚えている。九月九日だ。忘れられるはずがない。でも三日月公園でのことが起こるまでは昨日までと概ね変わらない、普通の日だったはずだ。学校を終え、その日は塾がなかったから、いつも通り男子と一緒に遊んでいた。その帰り、自転車のペダルを踏んでいた私は三日月公園に塚田さんが入っていくのを見かけた。一人だった。私も一人だった。九月だったからまだ暗くはなかったけど、空が淡い橙色に染まっていた。そんな時間に公園から出てくるならともかく入っていくとは不思議だった。ただでさえ三日月公園は人気がなく、滅多なことじゃ遊び場に選ばれないのに。
過去の私に何か言えるしたら、そういうこともあるかと納得して、さっさと帰れと言いたい。塚田さんが何をしているかなんてどうでもいいじゃないか。余計なことに首を突っ込まないのが賢い生き方だ。見て見ぬふりをするんだ。それが成長というものだ。でもそのときの私は子どもで、そんな物わかりのいい考え方は出来なかった。塚田さんは何かこそこそしているように見えた。だから何か彼女の秘密が三日月公園にあるのかもしれないと思った。いつも偉そうにして、気に入らないことがあればすぐ暴れ、先生すら匙を投げるような問題児の弱みでも握れたら、これまでのもやもやを解消出来るかもしれない、と思ったのだ。私は自転車を入口に停め、彼女を後をこっそり追った。
まだ蝉が鳴いていた。どこで鳴いているのかはわからないが、立ち並ぶ深い樹々のどこかで彼らは鳴いていた。それは自分の命が残りわずかであることを嘆き悲しんでいたからかもしれない。私は樹々に隠れながら、彼女を視界に捉え続けた。広場に出た彼女はさらに柵を乗り越えた。その先には池がある。彼女はゆるやかな傾斜を下りていく。一体何があるというのだろう。池の岩に水鳥がとまっているのが見えた。鳥はまるで剥製のように微動だにしなかった。私は足音を殺して柵に近づいた。彼女の後ろ姿が見えた。彼女は池の縁にしゃがみこむと、池から何かを引き上げた。目をこらすと、それは亀だった。ミドリガメ、だったはずだ。すると何を思ったか、彼女は亀を近くの岩に叩きつけ始めた。亀の頭が当たったときはそうでもなかったが、甲羅が当たったときは、鈍い音が響いた。それはもういたずらの域を超えていた。彼女は亀を殺そうとしていた。クラスメイトにさえそこまでの暴行を加えたことはなかった。彼女は人間にそう出来ない鬱憤を、亀で晴らそうとしていたのか。そこで私は、ある猟奇殺人者が子どもの頃に猫や鳩といった動物を殺していたというエピソードをネットで見たことを思い出し、塚田さんもそうなのかもしれないと思った。いい人だとは決して思っていなかったが、それでも同い年の女子として、どこかでわかりあえるかもしれないと、何かのきっかけで仲良くなれるかもしれないと、そのときまでは思っていた。でも、あんな風に亀をいたぶっているのを見てしまったら、もう無理だった。彼女はいつかあれを亀でなく人間でやり始めるだろう。そしてその対象はもしかしたら私になるかもしれない。塚田さんに足を掴まれて、頭を岩に叩きつけられる自分を想像した。それは本当に恐ろしい想像だった。逃げろ、私、そして誰かにこのことを言うのだ。彼女は危険だ、いつか人を殺す、恐ろしい人だ。
しかし私は逃げなかった。近づき、柵を乗り越えた。今と違い、柵は軽々と越えられた。そして亀を叩きつけている彼女をまっすぐ見据える。彼女は私に気づかない。荒い鼻息が聞こえてくる。対して私の息は静かに、穏やかになっていく。このときの私は何を考えていたのだろう。このときの私にあった心は、果たして百パーセントの正義だったろうか。自信はない。だって私の心は今でもここに囚われているのだから。後悔まみれで、一歩も前に進めていないのだから。私は傾斜を駆け降りると、塚田さんを突き飛ばした。彼女は亀を放し、頭から池へ落ちていった。水しぶきが舞う。体が回転し、彼女が顔を出す。しかしなかなか水面から上がってこない。彼女は手足を壊れたように動かし、必死に浮かぼうとしていた。彼女が何か言うが、水のせいで何を言っているのかわからない。助けて、なのか、よくもやったな、なのか。いや彼女は突然の出来事に現状の把握すら出来ていないかもしれない。だが、彼女と目が合ったように感じた。
私はどうしたか? 手を伸ばして助けようとしたか? いや、私は後ずさった。彼女の手を握れば自分も池に引きずり込まれそうな気がしたのだ。彼女が少しずつ沈んでいく。私は背を向けて走り出し、柵を飛び越え、公園から逃げ出した。声は聞こえなくなったが、耳にまだ彼女の声がこびりついていた。ペダルが外れそうなほど自転車をこいで、その声を引き剥がそうとした。しかしそれはいつまでも、いつまでも、十八年経った今でも、私の耳に残り続けることになった。