2 『Aoi』
三日月公園──この町が新興のベッドタウンだった頃に作られた、複数あるうちの公園の一つだ。子どもがいっぱいだった頃は賑わっていたのかもしれないが、私が子どもの頃にはほとんどその役割を終え、分不相応な大きな池が、まるで打ち捨てられたように佇んでいた。この公園は特に人気がなかった。なぜなら学校から一番遠いところにあるから。この公園で遊んだ記憶はあまりない。男子とザリガニを釣りに来たことがあるくらいだ。人間がいないと生物がのびのび暮らせるらしいので、ザリガニや鯉や亀が池を住処としていた。水鳥が池のなかの岩にとまって、公園を見回していたような気がする。それを思い出したのは、今まさにそんな記憶のなかの鳥そっくりな鳥と、目が合ったからだ。三日月公園までやってきた私を待っていたのは、体に水色の線が入った鳥だった。鳥の寿命が何年かは知らないが、まさかあのときの鳥ということはあるまい。きっと同じような鳥が代々ここを餌場、あるいは休憩場所にしているのだろう。
三日月公園には、三日月池というその名の通り三日月の形をした池がある。私はその一番下側にいた。ここから弧に沿って歩いていくと三日月の頂点まで行ける。もっともそこは遊具も何もなく、ただ草の生えたグラウンドもどきがあるだけだった。野球やサッカーをやるには手狭だったため、普段から用はなかった。でもあの日を境に、この公園が私の人生における最大の場所になってしまった。池に沿って歩く。柵はぼろぼろで表面が剥げていた。池は濃い緑色をしていた。底は見えない。水深百メートルあると言われても、それを笑い飛ばせる材料を私は持ってはいない。底なし沼という言葉があるが、この池にも底なしという言葉をあてはめることは可能だ。笛の音のような声がする。池にいるのとは別の鳥だ。公園を囲む深い樹々のどこかにとまった鳥が、腹が減ったとか寂しいとか、誰か私を愛してくれとか、そういうことを叫んでいるのだろう。三日月を進んでいくと、どんどん緑が濃くなる。森というわけではない。草が伸びているが、ちゃんと道はある。だがどこか深い森のなかを進んでいるように感じられる。そして広場に出る。広場といっても広くはない。昔でさえ広く感じなかったのだから、今となってはもっとそう感じる。ここで出来る遊びなどたかが知れているだろう。
公園の入口はここからは見えない。ちょうど池の中心の小島に生えている樹々で隠れているからだ。つまり入口からもここは見えないということだ。ここに近づくにつれて手足が震えたり心臓の鼓動が速まったりするかと思ったが、意外にもそんなことはなく、私の手足も心臓も、いつも通りの状態でいた。池に面したところにも柵がある。しかしそんな柵、小学生なら簡単に乗り越えられる。大人でも頑張れば乗り越えられる、はず。私は柵に両手をかけ、片足を上げ、柵を乗り越えた。足が上手く上がらず股下をぶつけた。あの頃の身軽さはどこへ行ったのか。その残りカスすら自分のなかにないようだった。
池までは数メートルほどのゆるやかな斜面になっている。そこを下っていく。そして池の縁で立ち止まる。池は相変わらず濃い緑色をしていて底が知れない。見るとアメンボや小さな虫が水面で動いていた。池の表面に私の姿が映っていた。アメンボが動くたびに、私の輪郭が揺れた。しかしそれくらいしか動くものはなかった。これまでずっとそうだったのだろうし、これからもそうなのだろう。池の水を抜いてその底に何があるのか調べる番組が人気だけど、そんな番組がこの池に目をつけることは決してないのだろう。この町の中心にある太陽公園の太陽池なら抜く価値はあるだろう。みんな太陽にしか目がいかない。だから私は生きていける。いや、だから、生きづらいのか。いやいや、この池に自分の生きづらさを求めるには、私は大人になりすぎた。私の人生がままならなくなったのは私の選択と結果によるものだ、と頭ではわかっているのだけど、どこかに原因を求めてしまう。だから十八年ぶりに訪れてしまった。この公園の、この池の、三日月の、頂点に。