2つ目の巣
サナトリウムの近郊からパリ市街へ向かう列車の中も、乗り換えたメトロの中でも、何も言葉を交わす出も無いのだが、アウルはずっと俺の手を離さない。
無論あからさまにひけらかしたりはしない、裾広がりのコートに隠れてはいるのだが、こうして衆目の中で寄り添っている自体が今までには有り得なかった。
気が付くと昼間落ち合った近くへと戻ってきていた。あの角を右へ曲がるとマリーエの店、左へ折れるとあの家へ至る。
こんなに好きだったんだと言って、そのまま離さずに来た手を、前触れも無くするりと離した。
「アウル?!」
「先にマリーエの店に行っててくれ。直ぐに追いつくから」
そう告げられた途端何を思う間もなく、解かれたばかりの手を掴んでリエージェのアパルトマンに向けて歩き始めていた。
「アレン?!」
「待っているのは嫌です」
ひょっとするとアウルには何の意図も無かったのかも知れなかった。
戸惑いを示して1度は足を止めたものの、思い直したように引かれるまま歩き始めた。
クリスマスの夜はやり過ぎてしまった。
重荷を分かつと言いながら、結局は俺の総てを彼に覆い被せることに成りはしなかったか?!
永く国共々をも背負わされて、常人の数倍の重荷に疲労困憊した末に、生への執着を失って終っているというのに。
こうして何気なく放した手が、永遠に失われることが無いとどうして言える?!
程なく着いたリエージェの旧宅は、間違えはしなかったかと思わせられたほどに様子を変えていた。以前は直接車で乗り入れられられる、昔の馬車道をそのままに使っていたが、アーチは変わらずだったものの柵が取り付けられ鍵が設けてある。
体を悪くしたリエージェが郊外へ移り、長く無人になる事が多かったためだろう。
だが、危惧は当たらず、柵に手を掛けると意外にも錠は外れていて開けることが出来た。
以前は建物の入り口にコンシェルジュを置いてあった。リエージェの、最高位の男娼の住まいだったところなので、稀とはいえ持ち込まれるトラブルを防ぐためだった。娼館が畳まれ、リエージェが引退した今は無い。
その先の2階への上がり口のドアにだけ鍵が掛かっている。ポケットを探って鍵をとりだした俺に、アウルの表情が少し変わった。
「レオノールに随分前に貰って、実は忘れてしまっていたんです」
言いながら挿した鍵は意外にも難なく空いて、開いたドアの少し先から、階段が2階へと続いていた。1階には昔娼婦達を住まわせていたと聞いたことがある。住居は2階から上に成っていた。
レオノールとは『リエージェ』と言う最高位の源氏名を引き継いだ最後の後継者のことだった。同時に、『リエージェ』としての最初の客であった縁で、ラルフ・ストラダから俺を託された者でも有った。
元々はフランス貴族の傍流で、マフィア相手に父親が作った負債の為に、危うく引き換えになりかけて居た命を、先代のリエージェに借金を肩代わりして貰うことで拾ったのだ。
その後、恩義を感じてでは無く、真意から彼を愛し伴侶となった。
「ここから英国へと渡っているのを知っていた様だな?!」
「可能性が有るとしかですが」
「遺産なんだそうだ。リエージェがホスピスへと移る前に引き継いだ。レオノールは施設に近い郊外の一軒家に移ってしまっていたので、この部屋の後始末をする心積で受け取ることにしたんだ」
俺への危惧を無いもののように微笑すら浮かべてみせる。
階段を上がった先のドアにはアールヌーボーを模したステンドグラスが填め込んで有る。以前は無かった鍵が設けられていて、これはアウルが開けた。
久し振りに足を踏み入れた室内はさして変わっているようには見えなかった。それがいつの間にか終わった事として忘れ果てていた過去を思い起こさせた。
「・・・レオノールとの事も、去年の聖夜のことも、俺が全て悪い。貴方の重荷になるとは思わずに居た・・・赦して下さい」
「赦して・・・俺を置いて行かないで下さい」
そう口にした途端、涙が止まらなくなった。
「・・・俺を置いて・・・」
嗚咽に喉が詰まって、みっともなくもアウルに縋った。
「置いていったりしない。置いていって私の可愛い男に後を追わせて堪るものか」
泣いている俺の涙を拭った指先は、寄せられる唇を待っていた。
「お前とレオノールとの関わりは、ラルフが画策したものだったんだから、私の悋気は私1人の問題なんだ」
「事実生きるの死ぬのと大騒ぎをしたくせに、きれいさっぱり忘れていたくらいだ。聖夜の事もお前とは関わり無い・・・とは言えないが・・・結局、自分の問題を克服できなかっただけの話なんだ」
「アウル?!」
「私が望んだものは皆、次々に潰えて終った。お前を葬列に加えたくなくて、真実望むことは出来なかった」
「全ての始まりだった悪夢が戻ってきたんだ。汚らしい淫妖と罵られたあの悪夢が・・・我を忘れてお前を望んだその瞬間に蘇ってしまった」
驚愕に見開いた眼がそのまま凍り付いて終ったようだった。
涙がぼろぼろと零れ落ちる。
「・・・そんなに泣かないでくれ。置いて行こうだなんて思っていないんだから」
「ほんとに?!」
「置いて逝ったら後を追ってくるんだろう?!」
「貴方の居ない世界に俺の居場所は無いんですよ?!」
「判っている。逝かない」
「本当ですよね?!」
「努力するから時間をくれ」
「ええ!もちろん!傍に居ても良いのなら何時までだって・・・」
胸が詰まって涙が止まらなくなってしまった俺に、アウルが微笑みながら溜め息を付く。白いリネンのハンカチで、ぐずぐずになっている顔を拭い始めた。
もう一度溜め息を付いてしみじみとして言う。
「泣き虫アレンは可愛いな。可愛くて愛しい。こんなに愛しい者を手放したりしたくないな」
アウルの腕が俺を抱き、唇が重ねられて、俺の寂寥はますます深くなるばかりだった。
リエージェのホスピスから戻って来た2人。あと少しでマリーエの店という所まで来たとき、アウルは1人で寄り道をするという。置き去りにされかけて、アレンは離された手を結びなおす。
2人の歩く道は分かたれたままに成ってしまうのだろうか?