友達以上恋人未満の同僚と一緒に寝た次の日の話
それはほんの出来心だった。
ランジェリー姿のまますぐ隣で寝息を立てる同い年の女性を見ながら、俺・和泉誠司は思う。
彼女は恋人じゃない。かといって、体だけの関係というわけでもない。
彼女――香野栞は、ただの同僚だ。
……いや、ただの同僚というのは、流石に語弊があるな。
俺と香野は、同僚の中でもとりわけ仲が良い。互いに最も信頼している相手というか、気の許せる相手というか。
多分俺たちの関係性は、友達という域を既に凌駕している。でも、恋人同士じゃない。
俗に言う、「友達以上恋人未満」というやつだ。
俺はそんな香野と昨晩一緒にラブホテルに入り、そして一夜を過ごしてしまった。それも、同じベッドで。
……誤魔化すのは男らしくないので、この際はっきり言おう。
ラブホに泊まったんだ。当然彼女としたさ。
その場の雰囲気に流されてしてしまった行為を、俺は夜が明けた今絶賛後悔中なのだった。
俺は昨晩のことを思い出す。
俺も香野も、昨日は職場の飲み会に参加していた。
久しぶりの飲み会でつい羽目を外してしまい、二人ともそれなりに酔っ払っていた。
特に香野に関しては、誰かに支えられて歩くのがやっとという程で。俺たちは同僚の少し後方を、並んでゆっくりと歩いていた。
「おい、香野。大丈夫か?」
「んー。大丈夫よー」
明らかに大丈夫じゃない返事をしながら、香野はスマホで時刻を確認する。そして「あっ!」と、声を上げた。
「……終電、なくなっちゃった」
電車がなくては、家に帰ることが出来ない。
不幸は更に続き、気付けば俺たちは同僚から置いてかれてしまっていた。
『……』
これからどうしようかと、俺たちは立ち止まり考える。
二人きりの夜道。周囲にあるのは、一軒のラブホテル。……与えられた選択肢は、たった一つだった。
香野は恥ずかしそうに、俺を見る。
顔が赤いように思えるのは、果たして酔っているせいなのだろうか?
「……和泉くんとなら、泊まっても良いわよ」
香野のその一言が、俺の中から自制心というものを取り払った。
「帰れないのなら、仕方ない」。そんな口実でラブホテルに入り、「折角ラブホテルに入ったんだから」という理由で体を重ね合わせた。
勢いとはいえ、互いに合意の上だ。行為に及んだことについて、今更とやかく言うつもりはない。恐らく香野も「責任を取れ!」みたいなことは言ってこないだろう。
しかし……俺は今まで異性として見ていなかった相手の、一糸纏わぬ姿を目にしてしまった。
彼女の荒い吐息も、柔らかな感触も。接したことのない香野栞という女性を、五感全てがはっきり覚えている。
気まずさは、否めない。
一夜限りと割り切った関係なら、こんなに悩むこともなかった。逆に恋愛感情を抱いていたなら、覚悟を決められた。
でも、俺と香野は違う。
友達以上恋人未満という関係性は、心地良いものであると同時になんとも中途半端なものでもあった。
「ん……」
ようやく香野も目を覚ます。
起き上がった彼女は、俺の姿を見るなり耳まで真っ赤にした。
「おはよう、香野」
「えぇ、おはよう。……取り敢えず、恥ずかしいからあっちを向いていてくれるかしら?」
「……悪い」
因みに俺もパンツ一丁だ。
なのでこのタイミングで、着替える(正確にはスーツを着る)ことにした。
「もう良いわよ」と許可が出たので、俺は香野の方に向き直る。
スーツ姿の彼女を見て、俺はホッと安堵した。
良かった。いつもの香野だ。
朝食はルームサービスを頼む。特別美味しいわけでもなければ、不味いわけでもなかった。
そしてこの日も仕事があるので、俺たちは出勤するべく二人揃ってチェックアウトする。
会社に向かって歩き出したところで、
「ちょっと待って」
香野が俺を呼び止めた。
「何だ、忘れ物か?」
「違うわよ。……思うんだけど、二人揃って出勤しない方が良いと思うの。だって、その……勘違いされたら、困るじゃない?」
……確かに。いつも別々の二人が今日に限って一緒に出勤したら、同僚たちから勘繰られる恐れがある。
「それは困るな」
同意すると、なぜか香野は少し寂しそうな顔になった。
だけどそれも一瞬の話で、香野はすぐにいつもの表情に戻る。
「でしょう? だからあなた、私より10分遅れて出社しなさい。良いわね」
言われた通り、俺は香野と10分時間をズラして出社した。
いつものように「おはようございます」と皆に挨拶するわけだけど、ただ一人香野の顔だけは恥ずかしくて見られなかった。
◇
自分のデスクに座った俺は、隣席の同期・水嶋一郎に話しかけた。
「おーっす、水嶋」
「おはよう、和泉。……あれ?」
朝の挨拶をするなり、水嶋は首を傾げる。
「和泉が昨日と同じネクタイをしてくるなんて、珍しいね。毎日柄を変えているのに」
「……」
水嶋の言う通り、気分転換の意味も込めて俺は毎日違うネクタイを締めてくるようにしている。
だけど昨日と今日は、同じネクタイをしていた。当然だ。昨晩、自宅に帰っていないのだから。
「香野とラブホに泊まった」などと白状することも出来ないので、俺は「うっかり間違えた」と苦し紛れの言い訳をする。
しかしその言い訳が嘘だという証拠は、どこにもない。だからバレる心配もない筈だ。俺はそうたかを括っていた。
「ふーん。そうなんだ。……あれ、香野さん?」
水嶋は、偶然近くを通りかかった香野に声をかける。そして――
「香野さんの格好も、昨日と同じじゃない?」
――彼女を指差しながら、余計なことを言いやがった。
それから水嶋は、幾度か鼻をクンクンさせる。
「気のせいかな? 二人から、同じシャンプーの香りがするような。……そういえば、二人とも飲み会の後いつのまにかいなくなっていたよね? えっ、もしかして……」
『……』
無駄に頭の回る奴は、これだから困る。
いきなりこれだけの状況証拠を挙げられては、咄嗟の言い訳も思い浮かばない。
俺たちの沈黙は、肯定と捉えられた。
「えーと……お幸せに?」
『お前、ちょっとこっち来い!』
盛大な勘違いをした水嶋を、俺と香野は職場から連れ出した。
誰もいないことを確認してから、俺たち3人は喫煙所に入る。余談だが、全員タバコは吸わない。
仕事もあるので、掻い摘んで昨夜ラブホに泊まることになった経緯を説明する。
事情を聞いた水嶋は、「成る程ね」と数回頷いた。
「それじゃあ、二人は本当にそういう関係じゃないと?」
『そうだ』
「昨日は成り行きで、つい寝てしまっただけだと?」
『そうだ』
「その結果、凄く気まずくなっていると?」
『……そうだ』
俺たちは無意識のうちに互いの目を見て、そして瞬時に顔を背けた。……気まずい。
さながら初恋真っ只中の中学生のような反応をする俺たちを見て、水嶋は笑いをこぼす。
「二人とも、何て顔しているんだよ」
「悪いかよ。……それより、俺たちってそんなにわかりやすいか?」
出社して僅か数分で水嶋にバレたことを踏まえたら、この先他の同僚たちに隠し通す自信がなくなってきた。
「うーん、どうだろ? 変によそよそしくなったりせず、普段通り過ごしていたらまず気付かれないんじゃないかな。ただ……首筋の歯形は隠した方が良いと思う」
「歯形!? マジで!?」
俺は自身の首筋を確認する。……歯形なんて、どこにもない。
要するに、水嶋に揶揄われたのだ。
「くっくっくっ。あー、面白い!」
……この野郎っ。
揶揄ったり悪戯することはあるけれど、水嶋は人の嫌がることは決してしない。
丁寧な説得(という名の懇願)のお陰で、この件に関して水嶋は口を噤んでくれることになった。
◇
普段通り過ごしていたら、周囲にはまず気付かれない。
そんな水嶋からのアドバイスを受け、俺と香野はいつもみたいなやり取りを心掛けていた。のだが……
「こっ、香野。この書類についてなんだが……」
「なっ、何がわからないのかしら、和泉くん?」
ギクシャクした雰囲気が、どうにも拭い切れていなかった。
普段通りでいないといけない。そんなこと、頭ではわかっている。
だけど香野の話す度に、昨夜の彼女の姿が脳内にフラッシュバックされてしまい、上手く話せなくなってしまうのだ。
仮に今日一日、同僚たちにバレずに済んだとしても、明日は? 明後日は?
俺たちが気まずいままでいたら、そう遠くない内に気付かれてしまうかもしれない。
それに俺と香野は気の合う間柄だ。この気まずさが原因で疎遠になるなんてことは避けたい。
その為にも、今のままじゃいられないな。
一度二人の関係を見直し、昨夜の一件について精算するべきだ。
「なぁ、香野」
俺が話しかけると、相変わらず香野はビクッとなった。
俺は気にせず、話を続ける。
「今夜、空いてるか?」
「今夜? ……空いてるけど」
「だったら、少し付き合ってくれ」
「……昨日と同じ下着だけど、それでも良いなら」
どうして下着の話が出てくるのだろうか?
甚だ疑問だが、取り敢えず俺の誘いを受けてくれるみたいだ。
日中はあっという間に過ぎ去り、気付けば終業のチャイムが鳴る。
定時が過ぎ、今日の分の仕事を終えた俺は、香野を居酒屋に連れてきていた。
居酒屋に入った香野は、ポカンと口を開ける。
「……てっきり、またラブホに連れてかれるものだとばかり思っていたわ」
「んなわけねーだろ。因みに今夜は俺の奢りだ」
「本当? ご馳走様です」
勢いに任せてラブホに行ったせいで、こんな状況になっているんだ。同じ轍は踏まない。
俺たちは、取り敢えず生ビールと軽いつまみを注文する。
「それで、どうして私を誘ってくれたのかしら? 私とサシで飲みたくなった?」
「まぁ、それも理由の一つではあるけどよ。今日誘った理由は……昨日のお詫びだ」
「お詫びって、どういうこと?」
スッと、香野の目が細くなる。
「互いに合意の上だってのは重々承知だ。だからこの謝罪が自己満足だってこともわかってる。それでも……こうしてきちんと謝らないと、また前みたいな関係には戻れないような気がするんだ」
「……」
俺の謝罪に対して香野は、無反応だった。
いや、無反応じゃないな。心なしから彼女が悲壮感を醸し出しているような気がする。……えっ、何で?
「えーと、香野さん?」
「そう。あなたは「ごめんなさい」って、そう考えているんだ……」
香野は寂しそうに言うと、俺に一万円札を渡してきた。
「そういう理由なら、ご馳走になんてならないわ」
「どうして?」
「理由は自分で考えなさい」
自分で考えろって言われてもなぁ。
俺は少し考え込む。そして頭に浮かんだ可能性を、列挙していった。
「惨めになるから、謝罪なんてされたくないとか?」
「不正解」
「恥ずかしいから、昨夜のことは一刻も早く記憶から抹消して欲しいとか?」
「不正解」
「まさかと思うが……あぁいう行為を、結構頻繁にしてる? だから俺との一回なんて、歯牙にも掛けないとか?」
「大不正解。殺すわよ?」
殺意を向けられ、俺は慌てて「冗談!」と誤魔化す。……友達以上じゃなくてもわかる。今の彼女は、本気でキレていた。
しかしあと考えられる理由といえば……
「嬉しかったわけじゃないよな? 俺のことが好きってわけじゃあるまいし」
「……」
香野は今度は「不正解」と言わなかった。
何も言わない代わりに、香野は顔を真っ赤にする。
その原因が飲酒でないことは、明白だった。
……嘘だろ。
俺と香野は、友達以上恋人未満の関係だ。彼女も同じような考えていると、勝手にそう思っていた。
……いや、その関係性自体は間違いなく共通認識だったんだと思う。一つ違うのは、その関係性の具体性で。
友達以上恋人未満。俺の考える香野との関係は、あやふやなものだった。
しかし香野は、明確な名前を付けている。彼女にとって俺は、「好きな人」だったのだ。
だから昨晩、一夜を共にした。行為に及んだ。そしてその事実に対して、謝罪されたくなかった。
俺と彼女は顔を見合わせる。
視線を逸らすことなく、彼女の瞳を凝視し続けた。
あの曖昧だった関係がはっきりしたら、不思議と気まずさもなくなる。
それは俺が香野を好きだという証明でもあって。
香野は腕時計を見る。
それからポツリと呟いた。
「終電、なくなっちゃった」
嘘つけ。まだ9時だぞ。
でも俺は、その嘘を指摘しなかった。
どうやら今夜も、自宅に帰ることはないらしい。