進路指導室
幸い、鞭打ちと、右腕の軽い擦過傷だけで済んだが、二週間は首にギプスをする予定で、三ヶ月は通院しなければならず、バイトも休まなければならなかった。
ケンから接触を取ろうとして来る事は無かったのは助かったが。
七月十四日、日曜日の誕生日も、もちろんギプス姿だった。
伊蔵は気を遣ってくれて、ショートケーキを一つ買って来てくれたが、首回りが暑いし、酷い寝違えの様な状態が続いている。
当然、此れから来る夏休みも台無しになる予感に満ちていた。
居間にしか空調が付いていない家なので、燐子は、夏の間中、伊蔵と居間で布団を並べて敷いて寝た。
燐子は、二度と夜間徘徊はしない、と、寝ている伊蔵の顔に毎晩誓う事になった。
週明け早々、七月十五日の月曜日、生徒指導室で対面した吉野教諭は、苦笑いした。
「就職の話、十一日に取り消しになっちゃったらしいね」
「…まぁ、流石に、鞭打ちの理由、言わないわけにいかなくて。ついでに、バイトも」
「あー、クビに?」
「首打ったらバイトもクビって、洒落にならんスね。今年いっぱいは通院スよ」
生徒指導室に呼び出された燐子は、自棄になりながら、吉野教諭に、そう言った。
そうだね、と言って、吉野教諭は困った様に笑った。
あの日見せた怒りは跡形も無かった。
あの時は本当に心配してくれていたらしい、と燐子は、申し訳なく思ったが、其れを上手く態度に表す事が出来なかった。
吉野教諭は、クラスメイトに、交通事故、としか説明しないでくれていたらしく、ケンのバイクに乗っていた事も、就職の内定が取り消しになった事も、誰も知らなかった。
燐子は、友人には、無免許でバイクに乗って事故に遭い、其れが発覚して、内定取り消しになった、と言った。
ケンの存在は省いてしまった。
関係は、あの日に終わったのだ。
燐子は、終わった話で友人達の耳を汚す気にはなれなかった。
友達は、無免許でバイクに乗った件については然程気にした様子も無く、誕生日まで待って免許取れば良かったのに、と心配そうに言った。
誰の所持しているバイクに乗ったのか、という事すら聞かれなかった。
そして、鞭打ちのギプスの事は、某ビジュアル系ロックバンドの美形ドラマーを引き合いに出して、首のコルセットみたい、と言って、随分慰めてくれた。
しかし、パフォーマーとしての業績の代償としての損傷と同じにされては、相手の方に悪い気がして、燐子は気が引けた。
伊蔵と担任と友達を心配させた事が、燐子を、以前より謙虚な態度にさせた。
吉野教諭は、医療関係の書類に目を通しながら、そっかぁ、と言った。
「あ、日野さん、誕生日昨日か。誕生日もギプスとは、気の毒だったねぇ。ま、其れを言ったら、俺、あの事故の日、誕生日だったけど。俺達、誕生日近いねぇ」
「え?」
「俺の誕生日、七月十日」
「…そりゃ、奇遇スね。あたしと四日違いスか。って、そんな、誕生日の日に、あんな、事故起こしたところに来てもらっちゃって…本当に、申し訳ないです」
あはは、と言って、吉野教諭は、再び苦笑いした。
燐子は申し訳なくて笑えなかった。
「…えーと、其れで、何で、ああいう事になったの?御祖父さんが言った通り、生きていてくれて良かったけど。…自分の誕生日に生徒に死なれたら立ち直れないよ、俺」
何だか此の真面目な人には言いたくないな、と燐子は思ったが、ああまで心配されては、話さない方が不義理、という気がしたので、自棄になりながらも正直に話した。
「彼氏と別れ話が拗れましてね。最後のデートで、夜の海に行ってくれって言われて。そしたら別れてくれる、と。そんで、彼氏とニケツでバイク乗って、あの始末ですわ」
「お、おお」
吉野教諭は、目を白黒させながらも、相槌を打ってくれた。
「あ、まぁー、その、ヘルメットしてくれていたのは偉かったって思うよ?」
「其れは確かに。ノーヘルだったら、あたし今頃此処に居ませんね」
「…出来たら、もう、バイクには乗らないでほしいなぁ。いや、仕事とかなら仕方が無いけど…うちの弟は、バイク事故で亡くなったから…個人的には、そう思っちゃうなぁ」
吉野教諭は、悲しそうな声で、そう言って、穏やかに笑った。
燐子は、素直に頷いた。
「はい。約束します。…本当は、バイク、嫌いなんス。なのに、乗ったりして、馬鹿でした。柄にも無く、穏便に別れよう、なんて思ったから。断って、サッサと帰ったって良かったのに。前、族の足抜けする時、殴られて右の奥歯折られてから、ちょっと。折れたのは親不知だったから、あたし的にはノーダメージだったけど、あの時は、やっぱり、痛くて。十分おきに痛み止めの薬飲んで。…じいちゃんには、階段から落ちただけだから病院も行かないって言ったけど、顔が腫れて。多分、じいちゃんにはバレてたんだろうけど…。あれから、そういう、殴られるの、何て言うか、怖いっていうか。もう会いませんっていう話は、穏やかに済ませたくなって。殴られないかもしれなかったけど…殴られるくらいなら、って、バイク乗っちゃって。でも、スーパーに知られて、就職話がフイになったり、三ヶ月も通院して金掛かったりするくらいだったら、別れ話で殴られも、バイクに乗らなかった方が良かったのに…」
「いやいやいや、んー?そ、そうかなぁ。あの、殴られなかったのはね?非常に良かったと思うけども」
吉野教諭は、眼を瞬かせながら、何を燐子に言うべきか迷っている様子だった。
「あ、あの、そう言えば、農家の話だけど。今、親戚が病気らしくてさ。春くらいまでには返事するって言われちゃった。彼氏と別れたなら、そっちを真剣に考えてみても良いかもよ?」
あ、本当に聞いてくれていたのか、と思い、燐子は驚いた。
「…いや、いいです。有難うございました。こんな、男とニケツでバイク乗って、事故って就職内定取り消されちゃう様な女紹介したら、先生の面目丸潰れだから」
「そう?そんなの、全部言う必要無いと思うけど…。農家は嫁不足だし、喜ばれそうだけどねぇ」
「気ぃ遣ってくんなくて良いスよ。呆れたでしょ、あんな金髪と付き合ってて…」
此の時代、夏、女性雑誌に、やっと『カラーリング、これで上級生!栗色髪』という記事が出たくらいで、『茶髪』という名称すら無い。
髪の脱色は、流行と呼ぶには最先端過ぎて、不良の象徴の様になっていた。
まさか真面目な担任に金髪の彼氏を会わせる事になるとは夢にも思っていなかった燐子は、相手の反応が怖かった。
しかし、吉野教諭は、何時もの通りの様子で、そう言えば、と言った。
「あの彼氏さんの髪って、如何やって金色にしているのかな?」
一応、もう別れた心算なのだが、と思いつつ、燐子は拍子抜けして答えた。
「あー、飲み残しのビールで髪を洗うだけです。消毒液でも出来ますけど。そうすっと段々色が変わってきて」
「あー、過酸化水素水。オキシフルねぇ。脱色効果かぁ」
吉野教諭は、意外にも興味深そうな反応をし、別段ケンを蔑む様な言い方はしなかった。燐子は、恐る恐る聞いた。
「…吉野先生は、そういうの、悪く言わないんスね」
「あー。俺は、髪を、あんな色にしようと思った事無かったからね、一回も。でも、御洒落したくてやっているのかも、と思って。で、ビールとか、オキシフルとか使って、工夫して御洒落するのか、と、今思って。そんだけ。御金無くても御洒落したい、っていう気持ちが俺には分からなかったからさ。偉いな、と思って。ま、学校の校則では禁止だけど、日野さんも、そろそろ卒業だし、遣りたければ遣れば良いと思うよ、個人的には。担任が、こんな事言っていたっていうのは、内緒ね。卒業したら、校則も無いしさ。悪いって分かっていて遣っている事なんて、自己責任だからねぇ。態々(わざ)怒らなくても良いと思っているんだ。命に関わる事以外はさ。俺が怒らなくても」
「はぁ」
燐子が言えた義理では無いが、確かに、担任としては其の態度は如何なものだろうか、と燐子は思った。
教育者としては、些か放任主義というか、自由主義の人物らしい、と思うと、燐子は更に拍子抜けした。
吉野教諭は微笑んで、続けた。
「まぁ、学生でいるより、社会に出る方が大変だけどね」
「え、まぁ…」
「学校に在籍中はさ、守られているから、学生としてね。此れが、卒業しちゃったらさ、事故起こしたって、担任の所に連絡なんか来やしないから、駆け付けてもあげられないしねぇ」
「…そりゃ、そうっスね」
卒業したら、もう、担任が来てくれる事は無い。
吉野教諭に諭されて、少し安心していた様子の伊蔵を思い出し、燐子は複雑な気分になった。
「如何したの?日野さん」
「あ、いや、何でも」
「それでさ、学生続けたら如何かって」
「え?」
「御祖父さんが、専門学校の学費、出してくれるって」
「…先生、じいちゃんに言ったの?専門学校行きたかったって。あたし、此れ以上、じいちゃんに迷惑掛けるわけには…。酷い。うち、御金無いのに…」
「あんな、命の心配させる方が、よっぽど酷いでしょう、御年寄りにさぁ。遺産の生前分与分だと思えと言ってくれって仰っていたよ」
はい、願書、と言って、穏やかに笑いながら、吉野教諭は、大きな封筒を、燐子に手渡してきた。
「願書出して、入学金振り込んだら、春から専門学校生だね」
燐子は泣いた。吉野教諭は続ける。
「就職先の内定は取り消されちゃったけど、ピンチはチャンスかもしれないよ。バイトはさ、首が治ってから、新しいバイトを探したらいいし。二年間、好きな事が勉強出来るかもしれないじゃない?ほら、家から通える距離の所、探しておいたから」
「…有難うございます、先生。進路、相談したら、此処まで考えてくれるなんて」
「いいの。此れが仕事だから。御礼は、御祖父さんに言わないとね」
吉野教諭は、そう言って、照れ臭そうに笑った。
燐子は、泣きながら、封筒を宝物の様に抱き締めた。
いいかい、と吉野教諭は言った。
「誰にも頼りたくないっていう気持ちも大事、迷惑掛けたくないっていう気持ちも大事。だけど、誰かを頼る事が、自立の第一歩になる事だってある。今回、担任に相談したら、結果的に専門学校に行ける事になっただろう?高卒じゃなくて、専門学校卒の方が、就職の幅も広がるし、初任給も上がる。御祖父さんにだって、楽をさせてあげられるくらい稼げる仕事に就く可能性も上がる。二年、余計に学生をしなければならない、というのを負担に思う事も有るかもしれないけど、其の二年で可能性が広がる。自立出来る力も強くなるかもしれないよ。そういう風に考えてみて」
「…先生」
「今回偉かったのは、相談する相手を間違えなかった事だ。進路を相談すべき相手、担任に、進路の相談をしたから良い方向に行ったわけだ。頼るべき時に、頼るべき相手に頼ったから、道が開けた。もう、あと二年は大丈夫だよ。良い学生生活を送ってね」
「先生」
「そうだよ、俺、先生だから。生徒が、良い学生してくれた方が嬉しい。御裁縫が好きなら、卒業後、服でも作ったら見せてよ」
穏やかな、担任の笑顔を見ながら、燐子は、さめざめと泣いた。
学校から真っ直ぐ帰った燐子は、ただいま、と言うなり、専門学校の願書が入った封筒を抱いた儘、居間に居る伊蔵の前に立った。
「おじいちゃん、あたし…」
「倫子、話が有る」
「…はい」
伊蔵が改まって、真剣な顔で、そう言うので、燐子は、伊蔵の正面に、正座して座った。
伊蔵は、此処に六百万ある、と言って、通帳を燐子に差し出した。
通帳に書かれた名前は、藺牟田倫子になっていた。
「いいか、生前分与だ。一生分の小遣い、先に渡しておくからな。大事に使え。此れだけありゃあ、学校だって出られる」
おじいちゃん、と言って、燐子は泣いた。
馬鹿だなぁ、と伊蔵は言った。
「勉強嫌いだって言うからよ、鵜呑みにしちまったい。服飾なんて、立派な夢、何で言わねぇんだ」
「おじいちゃん」
「良い先生だなぁ、倫子。ああいう大人が味方してくれて、良かったなぁ。な、俺の言った通りだっただろ?高校、続けて良かっただろ?」
「…うん、うん。でも、うち、こんなに御金あったの?」
「生活費諸々で結構使っちまったが、土地売った分、残しといた。御前に残したくて。でも、もう、此れで有り金全部だぞ」
「あたし、でも、折角高校行かせてもらったけど、成績も、あんまり…」
「勉強なんて良いよ。人生は出会いだ。ああいう大人に会えて、其れが、御前が学校に行った意味だ。信用出来る大人に一人でも多く会えたのが、御前が高校行った意味だよ。もう、元取っただろ。信用出来る人間との関係なんて、金だけじゃ手に入らねぇ。其の六百万全部使ったって、出会おうったって出会えねぇんだ。良かったなぁ、御前」
「おじいちゃん…うん、良い先生だよ、良い先生だった、本当に」
「そうだよ、何て言ったって、一回も御前の事、悪い子だって言わなかったからな、今までの、どの担任より、俺は気に入ったぞ」
「…おじいちゃん」
「此の世に、こんな老いぼれに味噌汁作って、自分の分より先によそってくれる人間なんて、俺の孫だけだ、他には、もう居やしねぇ。俺にとっちゃあ良い子だよ。他人の大事な人間を否定しないのは、良い奴だ。ありゃ、良い先生だ」
「…うん」
―たった一言、先生に、気紛れで相談しただけだったのに。
急に、燐子の、生活に於ける不安は激減してしまった。
急に、六百万持っている人間になれて、燐子は、自分が餓死や野垂れ死にをしない人生になった事を悟った。
少なくとも、そんな事が起きるにしても、其れは今日明日ではなくなった。
「…今日は、御前に言わないといけない事が他にも有る」
「…え?」
「華織が死んだよ」