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エチカ 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
第五章 平成七年
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エピローグ

 御付き合い有難うございます。完結です。

 しかし燐子は、其れから結局、三月になっても、其れ程明るい気分になれなかった。

 

 梅が咲いても、紅子が飛鳥に買ってくれた、ガラスケース入りの雛人形を出して、桃の節句をしてやっても、桜の蕾が膨らんでも駄目だった。


 春だと言うのに、全く明るい気分になれないのである。


 三月二十日の朝、生徒は春休みでも、月曜日だからと言って、玖一は出勤していった。


 千代田区の、赤坂見附駅が最寄りの都立高校は、今年度いっぱいで退職し、四月から、条件の良い、杉並区に在る私立の、中高一貫校に赴任する玖一は、新年度の準備で大忙しだった。


 偏差値の高い都立高校で何年か様子を見つつ頑張っていた玖一だったが、結局転職する事になったのには、一応理由が有る。


 採用から半年で、契約から正規職員になり、定職を得、家族も出来た事だし、と、管理職を目指すか迷っていた玖一だったが、年齢も、極端に若い、という事も無いし、結局、自身は、校長になる、とか、教育委員会に行く、とか、そういった事柄には向いていないと判断し、現場に徹する事に決め、良い給料で雇ってもらえる私立校の数学教師に転職する事になったのだ。


 三月の一週目には卒業式も終わり、教え子も見送った玖一は、清々しい様子で、給料も上がるんだし、と燐子を慰めてくれたが、一月の震災以降、あまり良い予感のしない燐子は、何故か、サッサと此の三月が終わってくれればいいのに、という様な、何とも言えない嫌な感じが拭い切れなかった。


 其の日の朝も、資料の纏め作業が有るから、と、珍しく早めの、朝の六時に家を出て行く玖一を見送りながら、燐子は(つら)い気持ちで溜息をついた。


 腕の中では、何時(いつ)もより早く起きる玖一に気付いて、後追いして泣いた美紅が、泣き疲れて眠っている。


 愛娘の涙に、玖一も、さぞ、後ろ髪を引かれるような気持ちで出勤した事と思うが、其の日の燐子は、自分も美紅と全く同じ気持ちだ、と思った。


如何(どう)してかな。今日は、仕事なんて行かないでほしい。


 結婚して以降、こんな、二ヶ月程もの長い間、萎れた気持ちで過ごした事は無かった。


 今、此の瞬間、(りょう)(かいな)に愛娘を抱いて、暖かい家で、共に朝食を囲んでくれる家族が居るというのに、燐子は、まるで幸福を感じず、ひたひたと、冷たい液体が浸みてくる様な、嫌な気持ちに捕らわれていた。


 其の日、誰かの倫理観が破裂した事を知る者は、()だ居ない。


 平成七年 三月二十日 地下鉄サリン事件

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