儀式
燐子は、向子の着ている、其の簡略化された十二単の様な姿に驚いた。
―此の衣装、何処かで見た様な…?
始めようか、と紘一が言うと、やはり母と娘を連れて来ます、と言って、玖一が立ち上がった。
赤ん坊の泣き声は魔除けになるから良いねぇ、と顕彦が言った。
仏間の真ん中に進み出た向子は、榊の枝の様な物を手にしている。
成子が、後ろから跪いて付き従って、向子は歩く度に其の衣装の裾を整えている。
燐子は、此れから始まるのだという儀式に思いを馳せた。
―此れから本当に、何が起こるのかしら。
御米って、そんなに大切かしら、という燐子の囁きに、耳聡く、紘一が答えた。
「狩猟採集をして暮らしていた人類が、国家を作るまでに至ったのは、穀物を栽培する様になったからなのさ。約七千三百年前の喜界島カルデラの噴火で、九州の縄文文化は、ほぼ絶えたと言っていい。結局、米食の文化を持つ、という事は、我々は、多かれ少なかれ、其の後に稲作の文化が入って来てからの人間の血を継いでいるんだよ。稲作、耕作により、多くの人口の食料を生産する事が出来る様になって、定住と富の蓄積、そして貧富の差が出来た。だから穀類が『神格化』された。支配者層が穀物によって民を支配し、国家の体裁を成した。此の国では其れが米なんだ。稲魂とかね」
『見立て』って分かるかい、と紘一は続けた。
「米 即ち国、と考えてみよう。米を栽培する以前の暮らしが不幸だったとは思わないけど、米が獲れなくなったら」
此の国は元通りにはならないよ、と紘一は念押しした。
「何かの封印が解けていく、という事は、良い悪いでは無くて、元の暮らしには戻らない、という事なんだ。米以前の暮らし、穀類の獲れない暮らし、食料を穀類という形で備蓄出来なくなり、全員が自分で食料を調達しなければならないに戻ってしまう、という事だよ。其れは、異常気象、自然災害なのか、何が理由になるかは分からないけどね。狩猟採取時代が不幸で、農耕以降の時代が幸福、という訳でもない。ただ、二度と米が獲れなくなったら、と想像してほしい。良い悪い、善悪、幸不幸ではない。ただ、元の生活には戻れない。俺は、今の生活の恩恵に浴しているから米を選んだ。未だ大事な人達の住む集落よりね」
燐子が、何も言えず、椅子に座った儘紘一の美しい瞳を見ていると、仏間に、玖一と、飛鳥を抱いた紅子が到着した。顕彦と岐顕が仏間の隅に控え、楽器の用意を始めた。
燐子の椅子の傍らに、飛鳥を抱いた紅子が座り、其の脇に、庇うかの様に玖一が正座した。飛鳥は、目を見開いて、此れから起こる事をジッと見詰めていた。
並んで座る顕彦と岐顕の前に、綜一と紘一が並んで座っている。
全員で正座の儘顕彦が鼓を一つ、ポーン、と鳴らした。
顕彦と綜一、紘一が、おぉぉぉぉん、と、静かに、だが吠える様に、低い声を発した。
其の声に合わせて、岐顕が、小さい尺八の様な竹製の縦笛をピーッと吹く。
飛鳥は、突然の音に泣きもせず、其れ等を、ただ見詰めている。
おぉぉぉぉん、おぉぉぉぉん、おぉぉぉぉん、おぉぉぉぉん。
空気がビリビリと振動する。
すると、仏間の真ん中に立つ向子に向かって、何処からか、ブワッと黒いものが覆い被さって来た。
紅子が小さく、ヒッという声を出した。
しかい向子は、しつこいわね、と呆れた様に言って、其れを榊で薙ぎ払ったので、燐子は其方の方に、より驚いた。
向子に薙ぎ払われた黒い塊は、仏壇の辺りに流れ、仏壇にも弾かれて、再び、向子の方に向かって流れ出してきた。
無駄よ、と向子は言った。
「永。私は、あんたの嫁になんかならないったら。誰の嫁にもならない」
―嫁?
燐子が、聞き違いかな、と思って黙って聞いていると、顕彦と綜一、紘一と岐顕が、燐子が何時か聞いた呪文の様なものを唱え始めた。
「葛、楮、藤蔓、天の蚕を敷き紡ぎ結い績み織り纏いて、強き子を増やせ。田は米、海は魚得て、禍去る。姿見えぬは山の神也、姿得て、田の神となる。山の神は海の神。火を噴く山はまた神也、龍神也。地震ふる山に霾晦、霾は稲なり、霾程実る、神の田よ。月の神は山の神也、山の神は田の神也。神の田を耕せ」
岐顕が、ピーッと笛を吹くと、其れを合図にした様に、向子が舞い始めた。
―何でだろ。此の踊りも知ってる気がする。
とっととっととーとん、とん、ととと、とん。
鼓と笛の音に合わせて、榊を持って踊る向子が畳の上で立てる足音がする。
とんとんとんとん、とーん、とん、ととと、とん。
とととととーとん、とん、ととと、とん。とんとんとんとんとーとん、とんとんとんとんとーとん。
とんとんとんとんとん、とーん、とととん。
鼓の音が一定の拍子で響く。其れに合わせて笛の音が流れ、向子が舞う。
此れが、ずっと繰り返される。
燐子は何故か、其れを聞きながら頭の中でカウントしていた。
―一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。誰が言ってたんだっけ。十が完成数だって…。
黒いものは次第に、しおしおと縮んでいった。
其れが、向子の傍で、小さな玉くらいの大きさの黒い塊になったところで、顕彦が鼓を打つのを止め、向子も舞うのを止めた。
岐顕も、戸惑った様に笛を吹くのを止めた。
さて、と言って、顕彦は立ち上がった。
「此処からだよなぁ。何せ、元が残ってないからな。他所から作法を大分借りた。情けない話だが、遣るだけ遣ろう」
そうですね、と言って紘一も立ち上がり、顕彦と紘一は、向子の方に歩み出た。
向子は顕彦の左手を取り、紘一も顕彦の右手を取った。燐子の目に一瞬、中央構造体とフォッサマグナの映像がフワッと浮かんだ。
燐子は驚いて、思わず目を擦ってしまった。
そんなものは、自分は知らない筈なのに、と思った。
顕彦が、何事かを唱えだした。
「遠津御祖神能看可給。十神能看可給。遠神能看可給。東東南南南西西西北北東北。此れで八方位。大雷、火雷、黒雷、柝雷、若雷、土雷、鳴雷、伏雷。南無八大龍王。難陀龍王、跋難陀龍王、娑伽羅龍王、和修吉龍王、徳叉迦龍王、阿那婆達多龍王、摩那斯龍王、優鉢羅龍王。龍神 八柱に、更に 四柱。伊耶那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊祓ひし時に生り坐せる祓戸四神。佐久那太理に落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比売と云ふ神、大海原に持ち出でなむ。如此持ち出で往なば、荒塩の塩の八百道の八塩道の塩の八百会に坐す速開都比売と云ふ神、持ち可可呑みてむ。如此可可呑みてば、気吹戸に坐す気吹戸主と云ふ神、根国底之国に気吹き放ちてむ。如此気吹き放ちてば、根国底之国に坐す速佐須良比売と云ふ神、持ち速佐須良比失ひてむ。此れで龍神十二柱。其処に十二支と木火土金水と十二天将。子の天后は水、丑の貴人は土、寅の青龍は木、卯の六合は木、辰の匂陳は土、巳の騰虵は火、午の朱雀は火、未の太裳は土、申の白虎は金、酉の太陰は金、戌の天空は土、亥の玄武は水」
未だ足りねぇがな、と呟いてから、顕彦は、吹け、と言った。
岐顕が、慌てた様に、ピーッと笛を吹いた。
いいぞ、循環呼吸だ、と言いながら、顕彦は両目を閉じた。
紘一と向子も両眼を閉じた。
―何此れ。
燐子の脳裏に、大海原の映像が過る。
向子の方に、大きな火山が見えた。
燐子には、紘一と向子が、大陸と未だくっ付いていた頃の日本列島に見えた。
二人はメリメリと大陸から引き剝がれて、二つに割れた。
其の中央から、富士山の元になる山が、顕彦の姿として盛り上がってくる。
岐顕の吹く笛の音が、龍の様に中央構造体を通って、日本列島が完成する様な映像が燐子には見えた。
うわ、と言って、玖一が、自身の額を押さえ、飛鳥も大泣きし始めた。
其れを機に笛の音が止み、皆、我に返った顔をした。
其処で儀式は途切れ、顕彦は、紘一と向子の手を取った儘、成る程、と言った。
「玖一さん、眉間が痛いかい?」
はい、と玖一が言うと、俺にも聞いてよぉ、と言いながら、岐顕が笛を右手に握った儘、両手で、自身の額を押さえた。
「何此れぇ、おでこがビリビリするぅ」
成子も額を押さえて、畳の上で蹲っている。
紘一が、成子に近付いて介抱を始めた。
紅子も、慌てた様に立ち上がり、泣いている飛鳥を優しく揺すりながら、ああ、よしよし、と言って、あやし始めた。
兎に角、と顕彦は言った。
「儀式は終わりだ。黒い『あれ』も居なくなっただろ?あと、来年以降の米は何とかなった」
米はな、と言って、顕彦は溜息をついた。
見れば、汗ビッショリである。
「不完全だが、今出来るのは此れまでだ」
でも、と、綜一が自身の額を両手で押さえながら言った。
「凄いや先生、俺、龍神様が見えたもん。倫理ちゃんが言った通りだったねぇ」
其の場に居た全員が、え?と言って、燐子の方を見た。え?と燐子も言った。
「あたしが、何か言いました?」
「山、とか、火山の神様とか、龍って言ってたじゃない?苗の神様の事。俺、結局あれから紘に言い忘れたから、誰にも言ってなかったんだけどなぁ。真名のヒントにならないかなって」
綜一の明るい言葉に、紘一が、え?と再び言った。
成程、と向子が言った。
「御父様、此の方、幸ふ玉を二つ御持ちなのよ、赤ちゃんも、一つ」
ふぅむ、と言って、顕彦は、燐子の目を見据えながら言った。
「何か御覧になりましたか?」
「え…。み、見た、と言うか」
「そう、見る、と言うのは正確じゃない。現実に、二重写しみたいに、膜が掛った様に、其の上で何か映像が流れている様な。見ようと思って見るものではない。ふと、『見てしまう』もの。感じ取るもの、と思っても良いでしょう。妊娠中、産前産後は特に『気』が立っている。床上げも済まぬ方を何時までも付き合わせて申し訳ないですが、何でも構わないので、何か仰ってみてください」
「そういう事なら、其の…サキ…向子さん?に、火山が見えました」
顕彦と紘一は、思わず、といった様子で顔を見合わせた。
「えっと、男の人と女の人が日本列島になって、其の真ん中に、富士山とかが、メリメリッて、盛り上がって来たんです。でも、其の前から、女の人の方に火山が在りました。…って、えっと、変な事言って、ごめんなさい。意味分かんないですよね」
阿蘇か、と紘一は言った。
「日本列島が二万年前に出来る、ずっと前から存在する火山だ。富士山、否、浅間大神の山より古い火山だ」
顕彦も、ハッとした顔をした。
「改元したばっかりの頃、阿蘇山の灰で作物が獲れなくなったな?平成二年からは雲仙でも火砕流続きだな?…そうか、九州。火山か…。桜島と富士山の事ばっか考えてたわ。カグツチや龍神までは辿り着けたんだけどな」
いえ、と紘一が言った。
「桜島の呼名は鹿児島。カグツチ、輝き、嗅ぐ、馨しい、kagが火山。古語では輝きはkakayakiでしたから、kak、音の変化も考えて、kukも同様に考えて良いでしょう。阿蘇や浅間、asoを火口と考えては?雲仙も元は温泉山、古名は高来峰。takak。火山帯、中央構造体の上には、其れを封じるかの様に神社が建てられている。全ては繋がっているんだ。しかし、『阿蘇が一番古い』と考えると」
「成る程なぁ、其の辺に、苗の神様の真名を持つ神が居そうだな。…待て、菊?…はぁ、開聞…いや、候補が増えちまうだけだな…。あーあ」
仕切り直しだ、と言って、顕彦は膝をついた。
「何だよぉ、元が、本当に残ってねぇじゃねぇか。こりゃ難儀だぞ」
さて、と向子が言った。
「賢兄達には内緒で来ちゃったから、そろそろ中野で合流しましょ。仕事の物件探しで別行動って嘘ついてるけど、ディナーは一緒に取らないと流石に不審がられるわよ。儀式は、今日出来る事は全部遣ったんだから。もう、少なくとも、此の家には、あの黒いものは出ないから、其処だけは御安心くださいな」
向子は、そう言うと、世にも美しい微笑みを紅子に向けた。
不思議な事に飛鳥も突然泣き止み、紅子は、呆けた様に、有難う御座います、と言った。
先生、と言って、綜一が、再び、子供の様に、顕彦にしがみ付いて泣いた。
あはは、と笑って、顕彦は言った。
「いいか。此れからが大変だ。大変だが、周、御前、孫も生まれたんだからよ。此の先も孫が何とか暮らせる様に、生きてるうちに出来る事を、御互い、遣ろうや。でも、此の先何が起きても、絶対に自分のせいにすんなよ。人間には何も出来ない。ただ必死に出来る事を遣って、持ち場を守るだけだ。俺は御前のところの男系の血筋じゃねぇから、あの黒いものの全部は引き受けて遣れねぇが、遣れるだけは遣ろうぜ。そんでな、何時か、時間が関係無い場所で、また会って遊ぼうぜ」
其れだけ言うと、美しい客人達は綜一に見送られながら、玄関の方に引き揚げて行った。
向子と成子だけは、着替える為に部屋を借りると言ってから、玖一を伴って仏間を出た。
岐顕が、戸惑った様に、祖父達の背中を追い掛けた。
「もう、帰る時も急なんだからさぁ。あ、あの、御邪魔しました。俺、此の家の事、誰にも言いませんから」
岐顕が、そう言って振り返ると、少し硬そうな髪がサラリと揺れ、両耳の上に、顕彦に生えている金髪と同じ色の髪が一房ずつ隠れているのが見えた。遺伝なのかもしれない。
―凄い。綺麗、二本揃ってて、角みたい。脱色した色とは違う。普段は隠してるんだ。
美しい角を隠し持った高校生は、笛を白装束の懐に入れ、教科書の束を抱くと、丁寧に一礼して、仏間を出て行った。紅子が、飛鳥を抱いた儘、其の場に、へたり込んだので、燐子は、慌てて紅子の両肩を抱いた。
「終わったのねぇ…」
紅子の呟きに、はい、と答えながら、燐子は、うちはね、と思った。
恐らく、顕彦の言葉を信じるなら、此処に黒い塊が出る事が終わるだけで、他の場所にとっては此れからが始まりなのだ。
取り敢えず、次の日は、燐子が寝ている所に、オードリー・ヘップバーンの訃報が入って来て、其れは本当に、家族中で其の死を惜しんだ。
暫くしたら、「矢ガモ」とかいう可哀想な事件のニュースが流れ始め、矢が刺さった儘の生き物が石神井川と不忍池を行き来し、何らかのラインを描いている事に対して、綜一は不安そうな顔をした。
十二月十日、成子が肝硬変で亡くなった、との知らせが入った。大慌てで一人、紅子が家まで呼んだタクシーに飛び乗った綜一の悲壮な顔を、燐子は、一生忘れないだろうと思った。
二月七日 能登半島沖地震 M6.6
三月三十一日 福岡ドーム完成
六月十三日 福岡タワー開業
六月十八日 嘘つき解散
七月十二日 北海道南西沖地震 M7.8
七月十五日 横浜ランドマークタワー開業
八月六日 鹿児島市内『平成5年8月水害』
八月九日 細川内閣発足
八月二十八日 台風十一号 北海道釧路市上陸
九月四日 鹿児島県で台風十三号による集中豪雨発生。死者四十六名
十二月十四日 米輸入決定『1993年米騒動』
平成五年 ニコチノイド農薬利用開始
平成五~七年 宍道湖ワカサギ漁 漁獲量激減




